第九十四話:虚空の眼差し、実験の火蓋
ヴァルガ砦――かつての長閑な地方都市は、いまや異形の要塞へと変貌を遂げていた。
この砦は王国の他の防衛拠点とは一線を画している。石壁の随所には教団の魔導回路が刻まれ、大気には神経を逆撫でするような魔力の共鳴音が満ちていた。教団にとってこの街は、人々の命を秤にかけた、対ゼニス用の壮大な実験場に過ぎなかった。
砦内に配備された王国兵たちは、持ち場を守りながらも、得体の知れない不安に身を震わせ、ゼニスの襲来を待ち構えていた。
一方、城壁の中に籠もることを潔しとしない一部の武闘派貴族たちは、野営陣を場外に敷き、騎士の誇りを盾に正面からゼニスを迎え撃つ構えを見せていた。
その陣中に、一人、微動だにせず立ち尽くす兵士がいた。
ふと、彼の瞳が異様な赤色に明滅する。その顔には一切の生気がなく、皮膚の下では魔力の蠢きが透けて見える。王国兵の中に、人造魔導兵が「実験体」として紛れ込んでいたのだ。
その兵士の視覚は、魔導通信を介して王宮の教団本部に設置された巨大なモニターへと映し出されていた。
「……実に興味深い。感情を排した個体の方が、魔力の伝導率が安定しますな」
ヴェナールが冷淡に解説し、大教主モルガウスはその映像を無表情に見つめていた。
不意に、控えめだが力強いノックの音が響き、重厚な扉が開かれた。姿を現したのはリナだった。
「お父様、お呼びでしょうか」
「リナ様。お会いせぬ間に、また一段と美しくなられましたな」
ヴェナールが卑屈な笑みを浮かべてお世辞を口にするが、リナは一顧だにせず、父であるモルガウスの元へと歩み寄った。彼女の瞳には、かつての穏やかさはなく、深い絶望を押し殺したような静謐さが宿っている。
モルガウスは娘の顔を見ることなく、巨大なモニターに映る「戦場」を指差した。
「リナ……よく見ておくのだ。己の無力を知らぬ愚かな人間たちの末路を。そして、我ら教団が目指すべき『神の理』の完成を」
モニターの中では、地平線の彼方から一筋の黒い影が、ゆっくりと、だが確実にヴァルガ砦へと近づいていた。
父の非情な言葉を背に、リナはモニターに映る「影」――かつて心を通わせた男の父であったはずのゼニスを、祈るような、あるいは決別を告げるような悲しげな目で見つめ返していた。




