第六十七話:小さな王の目覚め、静寂の涙
絶界宮の守備隊が、死を覚悟した咆哮と共に再度突撃を敢行する。
瓦礫の山を越え、侵入者を押し戻そうとする魔物たちの波。だが、その献身を嘲笑うかのように、グリルが漆黒の大剣を一閃させた。
衝撃波が空気を爆ぜさせ、守備隊は木の葉のようにあっけなく吹き飛ばされる。
侵入した魔軍は、破壊された城壁の跡に瞬く間に橋頭堡を築き、そこを拠点として宮殿の深部を飲み込もうとしていた。こうなると、いかにリリスの術式が強力であっても、もはや防ぐ手立てはない。
「あぁ……そんな……!」
リリスが絶望に唇を噛んだ、その時だった。
狂乱する戦場、鉄と血の匂いが渦巻く喧騒をよそに、ノインが静かに、ゆっくりと歩き出した。
殺気など微塵もない。まるでお気に入りの庭を散歩でもするかのような、あまりに自然で、無防備な姿。その異質な存在感に、敵も味方も一瞬、自分たちの視界が信じられず硬直した。
ノインは、血の霧が立ち込めるグリルのすぐそばまで歩み寄ると、首を傾げて問いかけた。
「グリル……どうしたの? つらいの?」
その清らかな声に、グリルが反応する。
見開かれたその目は赤く血走り、かつての理性の欠片も見当たらない。破壊衝動に塗りつぶされた男は、目の前の「魔王の子」を標的と認識した瞬間、迷わず大剣を振り下ろした。
――ピタっ。
死を運ぶはずの刃は、ノインの額の、わずか数ミリ手前で凍りついたように止まった。
グリルが顔を歪め、腕の筋肉がはち切れんばかりに力を込めようとも、剣は虚空に釘打たれたかのように一ミリたりとも動かない。
ノインは逃げることもせず、ただグリルにふわりと微笑みかけた。
そして、そっと、愛おしむようにグリルの心臓に小さな手を添える。
「……おやすみ」
次の瞬間、爆発的な衝撃が走り、グリルの巨体は城壁の向こう側、吹雪の闇へと弾き飛ばされた。
状況を理解できず、驚愕に凍りついた魔物たちが一斉にノインを見る。
少年は、冷淡な、けれどどこか慈悲深い笑みを彼らに向けた。
「どうする?」
短く、静かな問い。
だが、その声に含まれた圧倒的な「王」の威圧感に、魔物たちの顔は恐怖に引きつった。自分たちが挑んでいたのが、ただの子供ではなく、深淵そのものであることを本能が理解したのだ。
次の瞬間、あれほど暴れまわっていた魔物たちは、蜘蛛の子を散らすように、我先にと絶界宮から逃げ去っていった。
吹き抜ける風の音だけが響く、静寂が城を支配する。
ノインはそのまま、壊れた城壁の外へと歩いていった。
雪原の上には、吹き飛ばされたグリルが力なく倒れていた。
ノインはグリルの傍らに跪き、その土気色の顔に優しく手を当てた。
「苦しかっただろう? ……ごめんね。僕が、もっと強ければよかったのに」
ノインの頬を一筋の涙が伝い、グリルの頬へと落ちた。
少年の背後に広がる冬の夜空が、その孤独な覚悟を祝福するように、静かに瞬いていた。




