第六十二話:帰還の朝、森の鼓動
瞼が、ひどく重い。
ゆっくりと目を上げると、見慣れない石造りの天井が視界に飛び込んできた。ぼやけた視界の中で、一人の神官がこちらを覗き込んでいる。
「帰って……これたのか」
掠れた声で呟き、鉛のように重たい身体をどうにか傾ける。隣のベッドには、一人の女が横たわっていた。
「おい! イザベラはどうした!?」
ガリウスは必死に神官の裾を掴み、叫んだ。まだ意識が混濁しているのか、その声は怒声に近い。
「おい!! イザベラは無事なのかって聞いてんだよッ!!」
静かな部屋にガリウスの剛音が響き渡る。すると、隣で眠っていたイザベラが煩わしそうに身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「……っるさいわね。頭に響くから、少しは黙っててくれない?」
毒を吐くような、いつもの冷ややかな物言い。けれど、その声には確かな生命の力が宿っている。彼女はそのまま寝返りを打ち、ガリウスから視線を逸らした。
「おお……。そうか、生きてるんだな……」
ガリウスは、胸の奥が熱く焼けるような安堵感に包まれた。
精神世界のあの「白い虚無」ではない。小うるさい女の文句が聞こえる、この泥臭い現実こそが、彼らが勝ち取った報酬だった。
【一方、王都東方・最終防壁への道】
川のほとりで一晩を明かしたアステリオは、早朝の冷気に背中を叩かれ、南へと出発した。
ヴィンセントの亡骸は見つからなかった。それは絶望であると同時に、一縷の望みがまだ繋がっているという証明でもある。
(あいつなら、きっとどこかで生きている……)
昨日よりも力強くなった足取りで、川沿いの湿地帯を進む。その先には、土地勘のない者が足を踏み入れれば二度と戻れないと言われる、未開の深い原生林が広がっていた。
アステリオは森の深部には入らず、その縁をなぞるように南を目指す。
目指すは、王国軍が最後の砦とした「最終防壁」。
近づくにつれ、周囲の景色は凄惨さを増していった。打ち捨てられた軍旗、ひしゃげた甲冑。そして、埋葬されることもなく放置された骸から漂う、鼻を突く死臭。
少し前まで、ルカと共に「ジン」として旅をしていた頃には想像もしていなかった惨劇。平和な旅の記憶が、目の前の地獄によって急速に塗り潰されていく。
(……っ!)
アステリオの背筋に、ぴりりとした緊張が走った。
少し前から感じていた、刺すような視線。歩を進めるごとに、その「数」は確実に増えている。
それは魔族特有の禍々しい邪悪な気配ではない。だが、獲物をじっと観察するような、静かで鋭い視線。その無数の気配は、すべて隣接する深い森の中から放たれていた。
アステリオは足を止め、逃げることなく森の闇へと向き直った。聖剣の柄に手をかけ、真っ直ぐに問いかける。
「――そこに誰かいるのか? 俺に何か用か?」
風が木々を揺らし、ざわめきが森に広がる。
沈黙の後、森の奥から聞こえてきたのは、乾いた落ち葉を踏みしめる「足音」だった。




