第六十一話:虚無の残滓、真実の委託
ガリウスの剛腕が空を裂いた。岩をも砕く必殺の鉄拳が、女の顔面に叩き込まれた――はずだった。
「……ッ!?」
手応えがない。拳は霧を打つように女の身体を通り抜け、虚しく空を切る。
焦燥に駆られ、二度、三度と追撃を放つが、そのすべてが実像を捉えることなく霧散した。
「おかしい……手応えがねぇ。スカスカだ……!」
その間も、天からの「黒い槍」は容赦なく降り注ぎ、ガリウスの足場を執拗に削り取っていく。ただれた地面が奈落へと崩れ落ち、動ける範囲はもはや数歩分も残されていない。
「これじゃあ埒があかねぇ……。落ち着け、ガリウス。見極めるんだ……!」
ガリウスは荒い息を整え、眼前の女を凝視した。
筋肉を弛緩させ、全神経を双眸に集める。「真実を見極める」――その一念が、彼の視界を研ぎ澄ませた。
瞬間、極彩色の美貌を誇っていた女の姿が、ボロ雑巾のように形を失い、どろりとした黒い影へと成り果てた。そして、それは煙のように虚無の中へと消えていった。
「なに……!? 消えただと?」
その時、ガリウスの背中に異変が走った。
背負っていたはずのイザベラの体温が、急激に粘りつくような不快な冷たさへと変わる。
「……貴様かッ!!」
ガリウスは反射的に、背負っていた「イザベラだったもの」を奈落の底へと投げ飛ばした。
宙を舞ったそれは、空中で醜く膨れ上がり、無数の触手と怨嗟の声を撒き散らす「虚無の化け物」へと姿を変えた。
「お前が……イザベラを喰らっていた『虚無』の正体だったのか……!」
化け物は下卑た笑い声を上げながら、鋭い爪を立ててガリウスに襲いかかる。
ガリウスは紙一重でその攻撃をかわし、漆黒の身体に僅かな「核」が露出するのを待った。
一度、二度――化け物の猛攻を、最小限の動きでいなす。
そして三度目。大きく振りかぶられた爪を潜り抜け、ガリウスは懐へと踏み込んだ。
「失せろォ!!」
渾身の一撃が、化け物の中央を貫いた。
地響きのような唸り声が上がり、虚無の塊は内側から弾け飛ぶようにして消滅した。
***
化け物が消えると同時に、降り注いでいた黒い槍も、足元を浸食していたただれも、嘘のように引き潮となって消えていった。
再び、静寂に包まれた「白い世界」が広がっていく。
ふと見ると、世界の中心から、一人の男が穏やかな足取りで歩み寄ってくるのが見えた。
質素な身なりだが、どこか気品と優しさを湛えたその男。その腕には、小さな女の子が大切に抱きかかえられている。
(……あの人は、イザベラの……)
男はガリウスの目の前で足を止めると、悲しげに、けれど慈しむような眼差しで腕の中の少女を見つめ、それからガリウスへと差し出した。
「……私は、この子を守ってやることができなかった」
その声は、春の陽だまりのように穏やかだった。
「君に……この子を託したい」
ガリウスは何も言わず、ただ深く、力強く頷いた。
男から渡された少女――それは、虚飾も毒気も削ぎ落とされた、イザベラの「本当の心」だった。
赤子のように軽く、壊れてしまいそうなほど儚い少女を、ガリウスはその太い腕で力いっぱい抱きしめた。
「ああ。……任せとけ。もう、誰にも指一本触れさせねぇよ」




