第五十八話:偽りの愛、虚無を裂く拳
どこまでも続く、果てのない白。
その世界の真ん中に、一人の少女が膝を抱えてうずくまっていた。
燃えるような赤髪は今や色褪せ、その小さな肩は孤独に震えている。
「……イザベラ、なのか?」
ガリウスは戸惑いながらも、その傍らへ歩み寄り、声をかけた。
ゆっくりと顔を上げた少女の瞳は、驚くほど透き通っていた。だが、そこには幼子には不釣り合いな、深い深い悲しみの色が湛えられている。
ガリウスは無造作に彼女の手を取り、力強く言い放った。
「帰るぞ。こんな場所に長居するもんじゃねぇ」
「……嫌」
少女は、拒絶の意思を込めてその手を振りほどいた。
「どうした。早くしねぇと、俺もお前も戻れなくなるんだぞ!」
苛立ちを隠せないガリウスの怒声が、静寂の白を震わせる。だが、少女はただ、消え入りそうな声で呟いた。
「……私は、誰からも愛されてないもの。ここにいた方が、マシなのよ」
その言葉が引き金だった。
二人の目の前に、一人の女が忽然と姿を現した。
立っているだけで咽るような色香を撒き散らし、見る者を惑わす美貌。ガリウスはその女の顔を、そしてその冷酷な本性を、嫌というほど知っていた。
「あんた……。死んでまで、いつまでイザベラを苦しめれば気が済むんだッ!」
ガリウスの喉から、煮え繰り返るような怒気が漏れた。
【追憶:泥にまみれた放課後】
幼い頃のガリウスは、誰の手にも負えない「ワル」だった。
毎日誰かと喧嘩をし、同級生を泣かせ、教室では腫れ物に触れるように孤立していた。
そんな彼の数少ない「友人」と呼べるのは、アステリオ、ヴィンセント、そしてイザベラくらいだったが、成績の悪いガリウスは彼女たちとクラスが離れており、学校という場所は彼にとってただの孤独な檻でしかなかった。
ある日の放課後。一人で帰路についていたガリウスは、見覚えのある門の前で立ち止まった。
そこに、イザベラがいたからだ。
彼女は門の前で、声を殺して泣いていた。
「おい、イザベラ……どうしたんだよ」
ガリウスが駆け寄ると、彼女は弾かれたように立ち上がり、乱暴に涙を拭った。
「な、なんでもないわよ! あんたに関係ないでしょ!」
強がる彼女の背後で、重々しい門が開いた。
中から出てきたのは、見知らぬ男にしなだれかかる、イザベラの母親だった。
また新しい男を見つけたのか――ガリウスがそう直感した瞬間、女の視線が自分の娘へと向けられた。
それは、実の親が子に向けるものではなかった。
まるで足元に転がる「汚物」でも見るかのような、底冷えのする侮蔑の眼差し。
女は一言も発することなく、小銭の入った袋をイザベラの足元に投げ捨てると、男と共に馬車へと消えていった。
声もかけられず、ガリウスはただ立ち尽くしていた。
イザベラは落ちた袋を拾い上げ、震える唇で、無理やり歪な笑みを作った。
「……やっりぃ、お小遣いもらっちゃった。ねぇ、何か奢ってあげるわよ」
そう言った彼女の瞳が、どんな叫び声よりも悲しく濡れていたことを、ガリウスは一生忘れないだろう。
【再び、精神の深淵へ】
ガリウスは、目の前の「母親の幻影」を射抜くような視線で睨みつけた。
この白い世界は、彼女の絶望が作り出した檻だ。
「おい、イザベラ。よく聞け」
ガリウスは少女の前に立ちはだかり、幻影を背にする。
「お前が愛されてねぇだと? 笑わせるな。俺が……俺がどれだけ必死にお前を追ってきたと思ってやがる!」
幻術の通じないガリウスの拳が、精神世界の理さえも歪ませるほどに硬く握られた。




