第五十六話:拒絶の眠り、孤独の深淵
深い、暗い水の底に沈んでいくような感覚。
そこは、イザベラがずっと隠し続けてきた、誰にも見せたことのない彼女の「内側」だった。
(私は、自分のことが嫌いだ……)
鏡を見るたびに視界に入る、ツンと上を向いた生意気そうな鼻。燃えるような赤い髪。そして、何よりも呪わしい、高貴な魔導士の血筋。
かつて勇者パーティーの一員として魔王討伐を成し遂げた母は、町で教師をしていた父と結婚した。なぜ、住む世界も身分も違う二人が惹かれ合ったのか。今となっては、それを知る術はない。
物心ついた頃には、家の中に会話はなかった。
母は、自分のことしか愛せない女だった。
衰えを知らぬ美貌と魔力を維持することだけに執着し、遮光性の高いドレスに身を包んで、夜な夜な王宮のパーティーへと出かけていく。
私はいつも、父と二人きりで質素な食卓を囲んでいた。
父は、空っぽな家の中で私が寂しがらないよう、いつもそばにいてくれた。仕事が休みの日には、私の小さな手を引いて遊びに連れて行ってくれた。
(お父さんが大好きだった……。お父さんさえいれば、それでよかったのに)
けれど、運命は残酷だった。
最愛の父は、私が初等科を卒業する年に、呆気なくこの世を去った。
それから、私の世界には誰もいなくなった。
何をするにも一人。誕生日だって、一人。
注目を浴びるインフルエンサーとして振る舞い、着飾り、偽りの笑顔を振りまいてきたけれど、心の奥底にある空洞は、何年経っても埋まることはなかった。
(私は、何を頑張っていたんだろう……。もう、終わりにしよう。とにかく、眠い……)
意識が暗闇に溶けようとした、その時だった。
「――っ! ――――――っっ!!」
遠くで、誰かが叫んでいる。耳を塞ぎたくなるような、野蛮で、乱暴な声。
(何かしら……? せっかく静かになったのに……)
「――――――イザベラァ!!」
(うるさいわね……。私は眠りたいの。邪魔しないで……)
「イザベラ! 帰って来いッ!!」
(……ガリウス? ふふ、本当に暑苦しい男……)
暗闇の中に、一点だけ、不釣り合いな「熱」が灯った。
***
「おい!! どうなってんだ!! 全然起きねぇじゃねえかッ!」
現実の石造りの部屋。ガリウスは焦燥のあまり、神官の一人の胸ぐらを掴み上げた。丸太のような腕に力が入り、神官の足が宙に浮く。
「ご、落ち着いて……っ! 体は……回復してる、はず……なんだ……っ!」
首を絞められた神官が、顔を真っ赤にしながら必死に言葉を絞り出す。
「だけど……意識が、回復の邪魔をしてる……!」
「何だと!? 一体どういうことだッ!」
ガリウスが怒鳴ると、傍らで魔力の残滓を確認していたもう一人の神官が、沈痛な面持ちで口を挟んだ。
「……彼女自身の魂が、目覚めることを拒んでいる。端的に言えば、彼女はもう『生きたくない』と思っているんだよ」
「……なんだって!?」
ガリウスは、凍りついたように動きを止めた。
ゆっくりと神官を地面に下ろし、信じられないものを見るような目で、寝台に横たわるイザベラを見つめる。
魔法で傷は塞がり、頬には赤みが戻っている。穏やかに眠っているようにしか見えない。
だが、その心は今、この世界を捨てて永遠の闇へ向かおうとしている。
「なんでだよ……。あんなに、あんなに他人を助けて回ってたじゃねぇか……。なんでお前が、そんな顔して眠ってやがるんだよ……!」
ガリウスは困惑と悲しみに顔を歪め、握りしめた拳を震わせた。
彼が知るイザベラは、高飛車で、自信家で、けれど誰よりも危うい場所へ自ら飛び込んでいく強い女だった。その裏側に、これほどの絶望が潜んでいたとは思いもしなかった。
「ふざけんな……。勝手に終わらせてたまるかよ……」




