第六十二話 腐竜
巨大なダンジョンの入口からは、濃い瘴気が絶えず流れ出していた。
ミルキーは天使の笛を吹き続け、その周囲には淡い浄化の光が広がっている。光の外では、黒ずんだ瘴気が岩肌を這うように漂っていた。
「これだけ瘴気が濃いと、普通の魔物も凶暴になっている可能性がある」
シルフィエは暗い入口を見ながら言った。
「注意が必要だ」
「了解」
フミタロウは左腕の装備を確認し、サンキチも杖を握り直した。クリフトスも周囲へ注意を向ける。
一行はミルキーの光の範囲を崩さないよう、まとまってダンジョンの中へ入っていった。
*
浅い階層では、すぐに魔物が現れた。
岩陰から飛び出してきたゴブリンをシルフィエが素早く迎え撃ち、別の場所ではスライムが進路を塞ぐ。
サンキチたちは大きく手間取ることなく、それらを倒して先へ進んだ。
だが、しばらくすると壁際から巨大な百足のような魔物が這い出してきた。
「うわっ! でっかい百足!」
キャリオンクローラーが身体をくねらせながら迫ってくる。
シルフィエが距離を取り、サンキチの魔法とフミタロウの攻撃が続いた。クリフトスも援護に回り、ほどなくして魔物は動かなくなった。
「油断するな」
シルフィエは倒れた魔物から視線を外さない。
「まだ浅い階層だ」
一行は再びミルキーを中心に隊形を整え、さらに奥へ進んでいった。
*
時折、小型の魔物が襲ってきたが、連携して撃退しながら進むうちに、下へ続く階段が現れた。
さらに深い階層へ降りる。
そこでサンキチが周囲を見回した。
「……あれ?」
長い通路。
だが、魔物の姿がない。
「さっきから、全然襲ってこなくなりましたね」
そこから先へ進んでも状況は変わらなかった。
「なんか、魔物が少ないな?」
フミタロウが言う。
「ほんとですね」
サンキチも頷いた。
「普通ダンジョンって、奥に行けば行くほど魔物が多いんじゃないんですかね?」
「まあ、平和が一番やな」
「そうですね」
二人がそんな会話をしている後ろで、シルフィエだけは表情を険しくしていた。
「いや」
暗い通路の奥を見る。
「ダンジョンの深層で魔物が少ないのは、まずいことだぞ」
「どういうこと?」
フミタロウが振り返る。
「魔物だって生き物だ」
シルフィエは目を細めた。
「自分より圧倒的に強いものがいる場所には近づかない」
サンキチの表情が変わる。
シルフィエはそのまま言った。
「つまり――」
真っ暗な通路の先を見つめる。
「とんでもなくやばいのがいるかもってことだ」
「ええ~~!」
フミタロウとサンキチの声が重なった。
*
さらに奥へ進むと、前方から流れてくる瘴気が明らかに濃くなった。
「……来るぞ」
シルフィエが低く言う。
ミルキーが天使の笛を吹き続けると、浄化の光が強く輝き始めた。
押し寄せる瘴気と光が正面からぶつかり、空気が震える。衣服や髪までなびくほどの圧だった。
「うわっ……!」
サンキチが顔を背ける。
「なんやこれ! 風まで来てるやん!」
フミタロウも片腕で顔をかばった。
「ミルキー様! 無理はなさらず!」
クリフトスがすぐに声をかける。
それでもミルキーは笛を止めなかった。
シルフィエは前方を見据える。
「間違いない。この奥だ」
*
通路の先は、急に大きく開けていた。
巨大な広間。
ミルキーの光が、わずかに奥まで届く。
その先に、黒く巨大な何かがうずくまっていた。
「……なんかおるな」
フミタロウが小声で言う。
「動くな。まだ気づかれていないかもしれん」
シルフィエが制した。
「生きて……いるんでしょうか」
ミルキーも声を落とす。
巨大な黒い塊は動かなかった。
ただ、そこから濃い瘴気だけが流れ続けている。
一行は慎重に距離を詰めた。
近づくにつれて、フミタロウが顔をしかめる。
「……くっさ」
「これ、瘴気だけじゃなくて普通に臭くないですか?」
サンキチも鼻を押さえた。
やがて光が届き、その正体が少しずつ見えてくる。
巨大な鱗。
鋭い爪。
翼。
長い尾。
シルフィエの表情が変わった。
「……待て」
全身は黒く変色し、ところどころ腐敗したように見える。
フミタロウが息を呑んだ。
「……竜?」
シルフィエは低く答えた。
「……腐竜だ」
*
「ふりゅう?」
フミタロウが聞き返した。
その声に反応するように、竜の目が開いた。
ゆっくりと首を持ち上げる。
周囲の瘴気が一気に濃くなった。
「気づかれた……!」
サンキチが杖を構える。
竜は大きく息を吸い込んだ。
「グオオオオオオオオオッ!!」
咆哮が広間全体を揺らした。
一行はすぐに戦闘態勢へ入る。
「気をつけろ!」
シルフィエが叫ぶ。
「そんなにやばいん?」
「腐竜と呼ばれるものは、身体から強い瘴気を撒き散らす」
シルフィエは竜から目を離さない。
「近づくだけでも危険だ」
クリフトスも続けた。
「記録では、瘴気によって周囲の生物まで侵されるとされています」
「だから、深層に魔物がいなかったんですか……」
サンキチが呟く。
シルフィエは竜の動きを観察した。
「身体が大きい。動きそのものは読みやすいはずだ」
「それに」
クリフトスがミルキーを見る。
「瘴気ならば、浄化の力は有効なはずです。ミルキー様の天使の笛なら」
「瘴気を抑えながら戦えるかもしれない」
サンキチも頷く。
「だが油断するな」
シルフィエの声が鋭くなる。
「相手は竜だ。まともに一撃もらえば終わるぞ」
*
腐竜が首を高く上げ、一行を睨んだ。
口元へ濃い瘴気が集まっていく。
「ブレス!」
サンキチが叫ぶ。
次の瞬間、濃密なブレスが一行へ放たれた。
ミルキーの天使の笛が強く輝く。
飛来した瘴気のブレスが光に触れたところから次々と薄れ、消えていった。
「浄化している……!」
クリフトスが目を見開く。
腐竜も、明らかに驚いたように動きを止めた。
「今だ!」
シルフィエの声と同時に、フミタロウが腐竜の横へ一気に走り込む。
「いくぞ!」
右拳を構える。
「かまいたち!」
鋭い一撃が鱗を切り裂いた。
表面の鱗が剥がれ落ちる。
「よし! いける――」
その瞬間だった。
傷口から、どろりとした血が噴き出した。
フミタロウの顔が固まる。
「!!!!」
次の瞬間、鼻を押さえて全力で叫んだ。
「くっさーー!!!!」
「そこなんですか!?」
サンキチがすぐに突っ込む。
だが、それより妙だったのは腐竜の反応だった。
傷つけられたことよりも、その言葉にショックを受けたように固まっている。
「臭いっていうな~~~!!」
「!?」
一行の動きが止まった。
「みんなから嫌われるから、ここで暮らしてるのに!」
腐竜は泣きそうな顔になった。
「なんなんだよ~~~!!」
フミタロウの構えていた拳が下がる。
「……え?」
もう一度、腐竜を見る。
「ええ?」
*
完全に毒気を抜かれたフミタロウは、しばらくして小さく言った。
「……ごめん」
「謝るんですね……」
サンキチもどう反応すればいいのか分からない。
「待て」
シルフィエが腐竜を見る。
「こいつ……」
「言葉を理解している」
クリフトスも気づいた。
ミルキーが恐る恐る尋ねる。
「話せるんですか?」
「話せるよ!」
腐竜は即答した。
「なんで話せないと思ったんだよ!」
「いや……」
「見た目が……」
フミタロウとサンキチが続ける。
「また見た目かよ~~~!!」
広間に腐竜の悲鳴が響いた。
*
少し落ち着いたところで、腐竜はぽつぽつと話し始めた。
「もともと俺は、海で暮らしてたんだ」
今の姿になる前は、普通の竜だったらしい。
「ある時、人間の魔法使いに黒魔法で攻撃されて……」
その時を思い出すように、腐竜の声が沈む。
「それから、だんだん身体がおかしくなった」
黒魔法を浴びてから、身体は少しずつ変質していった。
「たぶん、呪いをかけられたんじゃないかな……」
そして急に声を荒らげる。
「ひどいよね! 何もしてないのに!」
腐竜は一行から少し距離を取った。
「だから人間なんて嫌い! こっち来るな!」
フミタロウは周囲を漂う瘴気を見た。
「待て。この瘴気は、自分で出してるんじゃないのか?」
「してないよ!」
腐竜は即答した。
その間にも身体からは瘴気が漏れ続けている。
「勝手に出てくるんだ……」
さっきまで怒っていた腐竜が、今度は涙目になった。
「……かわいそう」
ミルキーが天使の笛を握る。
「この天使の笛なら、なんとかできるかもしれません」
腐竜の目が一気に輝いた。
「ほんとに!?」
*
「少し近づきますね」
ミルキーがゆっくり距離を詰める。
腐竜は緊張した様子で身を固くしたが、逃げはしなかった。
ミルキーが天使の笛を吹く。
強い浄化の光が腐竜の身体を包んだ。
全身から流れ続けていた黒い瘴気が、光の中で少しずつ薄くなっていく。
「消えてる……!」
サンキチが驚く。
腐竜も自分の身体を見回した。
「おお……ちょっと楽になった!」
周囲に漂っていた瘴気は明らかに減っていた。
「効いてる」
シルフィエが確認する。
「少なくとも瘴気は浄化できてるぞ」
ただし、黒く変質した身体そのものは元に戻っていなかった。
「瘴気は減っていますけど……」
ミルキーもそこに気づく。
「呪いそのものまでは、消えてないみたいだな」
シルフィエが言った。
その時、サンキチが何かを思い出した。
「あっ」
一同が見る。
「あの泉の水は?」
「太陽神の祠でもらったやつか!」
フミタロウもすぐに気づいた。
荷物の中から、光る泉の水を入れていた大きめのポーション瓶を取り出す。
首から下げているお守り用の小瓶とは別に、カレンから持ち帰ることを許された水だった。
試しに少量だけ、腐竜の黒ずんだ鱗へかけてみる。
触れた部分が淡く光った。
黒い瘴気が抜けるように消え、その下から本来の鱗の色が現れ始める。
「戻ってる……!」
腐竜が自分の身体を凝視する。
「効いてます!」
ミルキーも声を上げた。
だが、サンキチは巨大な竜と手元の瓶を見比べた。
「でも……量が足りないですね」
「そらそうや」
フミタロウも瓶を見る。
「相手でかすぎるわ」
腐竜が露骨にしゅんとする。
その時、クリフトスが一歩前へ出た。
「お任せください」
フルートを構える。
泉の水へ意識を集中させた。
「水よ、その鎖を解き放て」
瓶の中の水がゆっくりと浮かび上がる。
そして細かな霧へと変わった。
霧になった泉の水は、腐竜の巨大な身体全体を包んでいく。
「今です、ミルキー様!」
「はい!」
ミルキーが天使の笛を吹く。
浄化の光と、泉の水から生まれた霧が重なった。
*
光と霧の中で、腐竜の身体から黒い瘴気が抜けていく。
変色していた鱗が、少しずつ本来の姿へ戻っていった。
やがて光が弱まり、霧が消える。
そこにいたのは、もう腐敗したような黒い竜ではなかった。
竜は自分の身体を何度も見回した。
「治った……!」
声が震える。
「治ったよ!!」
「良かったです!」
ミルキーが嬉しそうに笑う。
「ほんとに戻りましたね!」
サンキチもほっとしたように息を吐いた。
シルフィエ、クリフトス、トルムも笑顔を見せる。
フミタロウも嬉しそうだった。
「ほんま酷い話やな。よかったな!」
ただし、なぜか一人だけ鼻をつまんでいる。
竜はすぐにそれに気づいた。
「……まだ臭い?」
「わからん」
フミタロウは鼻をつまんだまま答える。
「けど念のためや」
竜の目が細くなる。
「お前が一番酷い」
その言葉に、周囲から笑いがこぼれた。




