第五十話 静かなる火種
南大陸東方に広がる草原には、大小さまざまな国が存在している。
その国々を結ぶ街道が集まる場所に、交易自治都市カザンパースがあった。
現在では巨大な市場や商館、倉庫街を備える大都市となっているが、その始まりは月に一度開かれる小さなバザールだった。
かつて、この地方の遊牧民たちは決まった日に天幕を張り、家畜や食料、織物などを持ち寄って交換していた。遠方から訪れる商人も次第に増え、月に一度の市場だけでは取引をさばききれなくなると、天幕の周囲には木造の商店や倉庫が建ち始めた。
やがて市場は常設となり、街道沿いに新たな商人が集まるようになった。
しかし、騎馬王国連合には多くの小国が存在する。交易が盛んになるにつれて、どの国が市場を管理するのかという問題が生じた。
特定の王国が市場を支配すれば、他国の商人が不利益を被る恐れがある。そこで商人たちは協議を重ね、いずれの王国にも属さない自治都市として運営する道を選んだ。
以来、カザンパースは交易によって発展を続け、今では南大陸東方の経済の中心地と呼ばれるまでになっていた。
中央市場には各地から運ばれた織物や革製品、香辛料、武器、農産物などが並び、街道には絶えず荷馬車や騎馬の隊商が行き交っている。大商館では大口の商談が交わされ、倉庫街では荷役人夫たちが忙しく働いていた。
都市の運営を担うのも商人たちである。
カザンパースでは、都市運営に納める寄付金の額によって役職が割り振られる仕組みが採られていた。多額の資金を提供する有力商人ほど大きな発言力を持ち、行政上の重要な判断にも関わっている。
豊かな財力は軍事力にもつながっていた。都市の周辺では雇われた傭兵たちが訓練を重ね、装備の整った騎兵や槍兵、弓兵が交易路を守っている。その兵力は周辺の小国も無視できないほどだった。
そんな繁栄した都市の中心部にある大商館で、有力商人たちが会議を開いていた。
広い執務室の中央には大きな机が置かれ、その上には交易地図や帳簿、各地から届いた報告書が並んでいる。
「……さて。問題は、これからだ」
年配の商人が口を開いた。
目の前に置かれた帳簿をめくると、その表情がさらに険しくなる。
「……ひどい数字だな」
「エルフ王国との交易が減って以来、取引量は落ち続けています」
隣に座る商人が、帳簿の数字を指して説明した。
「それだけではありません」
別の商人が続ける。
「北大陸へ武器や物資が流れているため、こちらで扱える品そのものが減っています」
「品は入らず、商いの量も減る……」
年配の商人は帳簿を閉じた。
「このままでは干上がってしまう」
「何か手を打たねばな……」
室内に重苦しい沈黙が落ちた。
カザンパースの市場はいまだに多くの人で賑わっている。しかし、都市を運営する商人たちには、その繁栄を支えてきた交易の流れが変わりつつあることが分かっていた。
「エルフ王国との交渉はどうなっている?」
年配の商人が尋ねると、交渉を担当している男が報告書へ目を落とした。
「芳しくありません。排他主義的な勢力が力を増しておりまして……交易そのものに反対する声が強まっています」
「高慢なエルフめ……」
一人の商人が苛立たしげに吐き捨てた。
「いつまでも世界の主気取りか!」
交渉担当の商人は、その発言には応じず、机に広げた地図を指した。
「しかも、エルフ王国を通る交易路が閉ざされたため、ミルドカンドとの交易もできなくなっております」
かつては多くの商人が利用していた陸路だった。
ミルドカンドで生産される金属製品や工芸品は、カザンパースでも重要な交易品だったが、その品物を運ぶ道そのものが失われてしまっている。
「陸路が駄目なら、海路は?」
年配の商人が地図を覗き込む。
「貿易港建設の話はどうなっている?」
「進めております。ですが、候補地にはもともと小さな漁村しかありません」
担当商人は海岸沿いの一点を示した。
「大型船も、船員も、造船所もありません。港だけ造れば済む話ではないのです」
荷を積み下ろしする設備を整えたとしても、それを運ぶ船が必要になる。航路を維持する船員や、船を修理する施設も欠かせない。
「交易港として機能させるには、十年単位の整備が必要かと……」
「……まったく間に合わんな」
年配の商人は深く息を吐いた。
それきり、誰も口を開かなくなった。
各地との交易を回復させる方法は、そう簡単には見つからない。
その沈黙を破ったのは、円卓の端でそれまで黙っていた商人だった。
「ひとつ、面白い提案があります」
年配の商人が視線を向ける。
「……なんだ?」
男は静かに立ち上がり、机に置かれていた古い地図へ手を伸ばした。
「我々は、すでに答えを知っているのです」
「答え?」
「カザンパースの歴史を再現するのです」
「……歴史?」
男は古い地図を広げた。
「かつて騎馬王国連合が、二つの勢力に分かれていた時代がありました」
地図には、現在とは異なる国境と勢力の配置が記されていた。
「自由都市派と、統一王家派です」
かつて騎馬王国連合の国々は、自治を重んじる勢力と、王家による統一を支持する勢力に分かれて対立していた。
双方が互いの動きを警戒し、備えを固めるなか、カザンパースには武具や保存食、馬具などを求める商人や使者が集まった。
「両勢力が互いに備えを固めるなか、カザンパースには多くの交易が集まりました。その結果、町は大いなる飛躍を遂げたのです」
提案者は地図に置いた手を動かした。
「そして、その経済力を背景に、カザンパースは自治都市としての地位を得ました」
「……なるほど」
年配の商人が腕を組む。
「二つに分かれる……か」
しかし、別の商人がすぐに反論した。
「だが、大きな戦乱になれば逆に交易ができなくなる恐れもあるぞ」
「もちろんです」
提案者は落ち着いた声で答えた。
「全面的な戦乱など、我々も望んでおりません」
そして、交易地図を指す。
「必要なのは戦争そのものではありません」
商人たちの視線が集まる。
「対立と不信感――そして、緊張状態です」
「……緊張状態?」
「互いに相手を警戒するようになれば、各国は軍備を整え始めるでしょう」
提案者は商品別の帳簿を開いた。
「武器、防具、食料、馬具……備えには大量の物資が必要になります。そうなれば、今は買い手がつかず余っている品にも需要が生まれます」
一人の商人が小さくうなずいた。
「……なるほど。各国が買い急げば、価格も上がるというわけか」
「そうです。しかも、実際に大きな戦争が起きる必要はありません」
提案者は淡々と言った。
周囲の反応はさまざまだった。考え込む者もいれば、難しい顔をしたまま腕を組む者もいる。
年配の商人が問いかけた。
「……だが、どうやってその状況を作る?」
「小さな争いの火種を作るのです」
提案者は再び古い勢力図へ目を落とした。
「小規模な衝突をきっかけに、不信感が広がれば……我々が望む緊張状態に近づくでしょう。そこへ情報を流せば、やがて昔のように、自由都市派と統一王家派に分かれるかもしれません」
「そううまくいくか?」
疑わしそうな声にも、提案者は表情を変えなかった。
静かに席へ戻りながら答える。
「計画が露見しなければ、うまくいかなくても我々への影響はないでしょう」
会議室が静まり返った。
誰もすぐには賛成しなかったが、提案を退ける声も上がらなかった。
年配の商人は地図を見つめたまま、低くつぶやいた。
「……ふむ」
*
婚礼の飾りつけが残る館では、家臣たちが慌ただしく廊下を行き交っていた。
「道を開けてくれ!」
意識を失ったリュナが寝室へ運ばれていく。
ミルキーとシルフィエも、その後を追っていた。
寝台へ寝かされたリュナは、目を閉じたまま動かない。
「リュナ……」
シルフィエが名前を呼んだが、返事はなかった。
間もなく、診察道具を抱えた医師が駆け込んできた。
「姫様は!?」
「こちらです! 突然倒れて……!」
ミルキーが寝台へ案内する。
「……まずは容態を確認します」
医師はリュナの脈を取り、呼吸を確かめた。さらに瞳の状態を調べ、もう一度脈へ指を当てる。
「……妙ですね」
「あの……」
ミルキーがおずおずと声をかけた。
「私、治癒魔法が使えます」
医師は顔を上げた。
「そうですか。では、お願いできますか」
「はい」
ミルキーは寝台の傍らへ進み、リュナに両手をかざした。
「……お願い」
淡い光が両手から広がり、リュナの身体を包み込んでいく。
ミルキーは目を閉じ、慎重に魔力を注いだ。
しばらくして光が消える。
しかし、リュナは眠ったままだった。
「……目を覚ましません」
医師がもう一度呼吸を確認する。
「呼吸は少し落ち着いたようですが……」
その時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「リュナはどうした!?」
リュナの父王だった。
「医師が診察しております!」
家臣の返答を聞くと、王はそのまま寝室へ飛び込んできた。
「リュナ!」
寝台の上の娘を見た途端、足が止まった。
「……リュナ?」
返事はない。
王は寝台へ歩み寄り、娘の手を取った。
「何があった……?」
「突然倒れて……」
ミルキーが答える。
「治癒魔法も試しましたが、目を覚まさないんです」
王は娘の手を握ったまま、医師へ顔を向けた。
「先生……娘は助かるのか?」
医師はすぐには答えず、リュナの状態を確かめ続けた。
「陛下、姫様は倒れる前に何か異変を訴えておられましたか?」
「いいえ……」
答えたのはミルキーだった。
「さっきまで、いつも通り元気にお話しされていたんです」
「急激な意識の低下……この症状は……」
医師は眉を寄せ、改めて瞳や脈を確認した。
「先生? 何か分かったのか?」
王の問いかけに、医師はようやく顔を上げた。
「……陛下。通常の病とは考えにくい症状です」
「……どういうことだ?」
医師は慎重に言葉を選んだ。
「毒を盛られた可能性があります」
「……毒?」
王は目を見開いた。
「毒だと!?」
「そんな……」
ミルキーが口元を押さえる。
シルフィエも信じられない様子でリュナを見た。
「誰がそんなことを……」
王は医師へ詰め寄るように尋ねた。
「先生、娘は助かるのか?」
「まだ毒の種類が分かりません。今は容態を安定させることが先決です」
王はしばらく娘の顔を見つめていたが、やがて家臣へ向き直った。
「リュナが昨日から口にしたものを、すべて調べろ! 食事も、飲み物も、祝いの品もだ!」
「はっ!」
家臣たちが急いで調査へ向かった。
*
調査が始まると、護衛隊長がミルキーとシルフィエへ向き直った。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「……はい」
ミルキーが答える。
「姫様とは、ここ数日ご一緒だったそうですね」
「はい。リュナさんが毎朝宿まで迎えに来てくださって……一緒に町を回っていました」
「姫様が倒れられた時も、一緒だったのですね?」
「ああ、そうだ」
シルフィエが答えた。
護衛隊長は二人の話を聞きながら、必要なことを一つずつ確認している。声を荒らげることも、責め立てることもなかった。
それでもシルフィエは、次第に警戒するような目つきになった。
「……私たちを疑っているのか?」
「今は、可能性を一つずつ確認しているだけです」
護衛隊長は落ち着いて答えた。
王女が毒を盛られた可能性がある以上、その直前まで行動を共にしていた者たちへ事情を尋ねないわけにはいかないのだろう。
しかし、リュナを心配しているミルキーたちにとって、気持ちのいい話ではなかった。
そこへ調査を担当していた家臣が戻ってきた。
「陛下! お調べいただきたいものがございます!」
手には盆を持っており、その上に菓子と開封された箱が載せられていた。
「昨日、婚礼祝いとして届けられた菓子です。姫様も召し上がっておられました」
医師が菓子を受け取り、検査を始めた。
室内の誰もが、その手元を見つめている。
やがて医師の表情が険しくなった。
「……間違いありません」
王が顔を上げる。
「何が分かった?」
「この菓子から毒物の反応が出ました」
「何だと……!」
王は盆に載せられた菓子箱を見つめた。
「婚礼の祝いとして届けられたものに……毒を仕込んだというのか……!」
護衛隊長はすぐに家臣へ確認した。
「この菓子が届いたのは昨日だったな?」
「はい。婚礼祝いとして届けられたものです」
護衛隊長はミルキーたちへ向き直った。
「あなた方は、昨日も姫様とご一緒だったのですね?」
「はい。でも、お館には入っていません」
ミルキーが答えると、別の家臣が進み出た。
「確認しました。旅人の方々は、昨日も今日も館には入っておりません。姫様が宿まで迎えに行かれ、町で過ごされていました」
護衛隊長はうなずいた。
「……そうでしたか。失礼いたしました」
シルフィエは少し不機嫌そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
王は寝台で眠り続けるリュナへ目を向けた。
「疑い始めれば、きりがない……」
娘が楽しみにしていた婚礼のために届けられた菓子が、今は事件を調べるための手掛かりになっている。
王は護衛隊長へ命じた。
「まずは、この菓子がどこから届いたのか調べよ」
「はっ!」
調査は始まったばかりだった。
誰が菓子を届け、どこで毒が混入されたのか。まだ何も分かっていない。
ただ一つ確かなのは、リュナが今も目を覚まさないということだけだった。
*
騎馬王国連合に属する、別の小国。
草原に広がる小さな王都では、婚礼へ向かう使節団の準備が進められていた。
王城の中庭には馬や荷物が集められ、従者たちが出発に備えて忙しく働いている。
その中で、若い王子が愛馬の様子を確かめていた。
ユリク。
かつて草原でベヒーモス討伐隊を率い、フミタロウたちと共に戦った若い指揮官である。
「ユリク殿下、出発の準備は順調です」
従者が報告した。
「ああ、ご苦労」
ユリクは馬の首を軽く撫でながら答える。
従者が少し笑った。
「今日はずいぶん落ち着きませんね」
「そう見えるか?」
「ええ。もう何度も準備を確認されていますから」
「……そうかもしれんな」
ユリクも小さく笑った。
婚礼の日は目前に迫っている。
幼い頃から知っているリュナと、ようやく夫婦になるのだ。
準備を任せている従者たちを信用していないわけではないが、どうしても気になってしまう。
その時だった。
中庭へ一騎の馬が勢いよく駆け込んできた。
馬は荒い息を吐き、乗っている男も疲れ切った様子だった。
「何者だ!」
警備の兵士が声を上げる。
「リュナ姫の国からの急使だ!」
その言葉に、ユリクの表情が変わった。
使者は馬から飛び降りると、辺りを見回した。
「ユリク殿下は! ユリク殿下はどちらに!?」
「私だ」
ユリクが前へ出る。
「何があった?」
使者が慌てて礼をしようとしたが、ユリクはそれを制した。
「礼はいい。まず報告しろ」
使者は息を整えた。
「……リュナ姫が」
「リュナが?」
ユリクは使者の顔を見た。
「リュナ姫が突然倒れられました。現在も、意識が戻っておりません!」
「……何だと?」
ユリクが一歩近づく。
「突然倒れたとは、どういうことだ!? 病なのか!?」
「いえ……医師の診察によりますと……」
使者は言いにくそうに口を閉じた。
「何だ?」
「何者かに、毒を盛られた可能性が高いとのことです」
ユリクの顔から血の気が引いた。
「毒…………」
思わず拳を強く握る。
次の瞬間、ユリクは使者の肩をつかんでいた。
「毒……だと!?」
「現在も意識が戻らず、医師が治療を続けております!」
中庭には、婚礼のために用意された荷物が積まれていた。
つい先ほどまで、ユリクはその準備を何度も確認していた。
今は、それらに目を向ける余裕もなかった。
*
「父上!」
ユリクは王城の執務室へ駆け込んだ。
室内では父王と王妃、兄王子たちが婚礼の準備について話し合っていた。
「どうした、ユリク?」
父王が顔を上げる。
「リュナが倒れました。毒を盛られた可能性が高いそうです!」
「そんな……リュナさんが!?」
王妃が驚いて立ち上がった。
兄王子たちも顔を見合わせる。
「婚礼を目前にして……?」
父王はすぐにユリクへ尋ねた。
「容態は?」
「まだ意識が戻らないそうです」
ユリクは父をまっすぐに見つめた。
「父上。私はすぐにリュナのもとへ向かいます」
父王は静かにうなずいた。
「……分かった。すぐに向かいなさい」
そして家臣へ命じる。
「護衛の騎兵を用意しろ。出発は可能な限り急がせよ」
「はっ!」
家臣が部屋を飛び出していく。
王妃はユリクへ歩み寄った。
「ユリク……リュナさんをお願いね」
「はい、母上」
父王も席を立ち、息子の肩に手を置いた。
「気持ちは分かる。だが、お前まで無事を欠いてはならん」
「心得ています」
それから間もなく、ユリクは数騎の護衛とともに中庭へ姿を現した。
愛馬へまたがり、父王たちへ向き直る。
「行ってまいります!」
「うむ。気をつけてな」
ユリクが手綱を引くと、馬は勢いよく駆け出した。
護衛の騎兵たちもそれに続き、一行は王城を後にした。
*
ユリクを送り出したあと、父王は執務室へ戻った。
机には騎馬王国連合の地図が広げられている。
傍らには第一王子と側近が控えていた。
父王はしばらく地図を眺めていたが、やがて口を開いた。
「エルフ王国との交易が途絶えて以来、各国とも苦しい状況にある……」
第一王子は黙って聞いている。
父王は地図の一点を指した。
リュナの国だった。
「だが、あの国に特別な産物があるわけでもない。この婚姻を邪魔して、何の得がある?」
答えられる者はいなかった。
事件の詳細はまだ届いておらず、誰が毒を盛ったのかさえ分かっていない。
父王は地図から目を上げた。
「……しかし、理由が分からぬからといって、手をこまねいているわけにはいかん」
第一王子が姿勢を正す。
「念のため、兵を集めよ。この混乱に乗じて仕掛けてくる者があるやもしれん」
「承知しました、父上」
第一王子は一礼すると、すぐに中庭へ向かった。
「各部隊に伝えよ!」
その声に、兵士たちが振り返る。
「警戒態勢を整え、招集に備えさせろ!」
命令を受けた伝令たちは次々と馬へまたがり、王都の門を抜けて各地へ走り始めた。
城内でも兵士たちが装備を整え、各部隊への連絡が進められていく。
婚礼の準備が続いていた王都で、新たに軍の招集が始まった
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