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漏洩の加護  作者: なつみかん
第十一章 リバーナの危機
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第四十六話 リバーナ陥落  

市長室の扉が破られたとき、リバーナの市長は城壁の状況を報告する職員と話していた。


 護衛の一人が剣を抜いた。しかし、侵入者が腕を振るうと、その身体は机の脇へ叩きつけられた。もう一人の護衛も、応戦する間もなく壁際へ倒れ込む。


 職員が悲鳴を上げて後ずさった。


 侵入者は、その声には目も向けなかった。


 人間より一回り大きな身体を持つ男だった。歩みはどこかぎこちなかったが、二人の護衛を倒した力は疑いようもない。男は壊れた扉を越え、ゆっくりと市長の机へ近づいた。


「貴様が、この町の長か?」


 市長は椅子から立ち上がった。


「そうだ」


「降伏しろ」


 魔族は武器を下げたまま、静かに告げた。


「リリス様に忠誠を誓うなら、生かしてやろう」


 窓の外では、今も城壁の攻防が続いていた。


 リザードマンの軍勢を相手に、守備兵と魔導騎士団が戦っている。ユリウスたちが奮戦していることは報告を受けていたが、敵の数は多く、いつまで防ぎ切れるか分からない。


 しかも、目の前には魔族がいる。


 どうやって市長舎まで入り込んだのか、市長には見当もつかなかった。だが、街の内部まで敵が現れた以上、城壁だけを守っていても住民の安全は保証できない。


「町の者たちの安全は?」


「抵抗しなければ、むやみには殺さぬ」


「……その言葉を信じろと?」


「選ぶのは貴様だ」


 市長は机に手をついた。


 降伏したあとの住民がどう扱われるかは分からない。しかし、ここで抵抗を続ければ、市街地まで戦場になるだろう。


 市長自身が命を落とすだけなら、まだいい。彼の判断によって、何千もの住民が巻き込まれる。


 窓の外から、再び大きな戦闘音が響いた。


「……わかった」


 市長は顔を上げた。


「降伏する」


 魔族はそれ以上何も言わなかった。


 市長は職員へ振り返った。


「今すぐ抵抗をやめろ! 各部署へ連絡しろ。リバーナは降伏する!」


          *


「市長命令です! リバーナは降伏します!」


 城壁へ駆け上がってきた役人の言葉に、守備兵たちの間で動揺が広がった。


 ユリウスは剣を下ろさずに問い返した。


「市長は無事なのか?」


「市長舎に魔族が……市長と話しています」


「魔族が街の中に?」


 副官が声を上げた。


 ユリウスも驚きを隠せなかった。城壁の外ではリザードマンの軍勢を食い止めている。敵の大部隊が街へ侵入したという報告もない。


 しかし、役人の様子からすると、見間違いや冗談ではなさそうだった。


 その間にも、城外から矢と攻撃魔法が飛んでくる。


「団長! 攻撃が止まりません!」


「停止を確認するまで障壁を維持しろ!」


 二人の魔導騎士が並んで展開した長方形の魔導障壁に、矢と魔法が次々と激突した。光の面が揺れるたび、術者たちの表情が険しくなる。


 やがて、城壁の上に白旗が掲げられた。


 城外のリザードマン指揮官がそれを認め、片腕を高く上げる。


 攻撃が止んだ。


「……止まりました」


 副官がつぶやく。


「障壁を解除しろ。ただし、警戒は続けろ」


 光の盾が消えても、誰も安堵の声を上げなかった。つい先ほどまで命を奪い合っていた相手が、城壁の向こうにいるのだ。


 ユリウスは守備兵たちを見渡した。


「街が降伏を選んだ以上、我々が止めることはできない」


「では、我々も武器を置くのですか?」


「いや」


 ユリウスは首を振った。


「ここへ残れば、我々も捕らえられる。リリスへの忠誠を求められる可能性もあるだろう」


 魔導騎士団は、魔物から人々を守るために組織された。その騎士が、魔王軍に従うわけにはいかない。


「脱出するぞ。敵が街を掌握し終える前に動く」


          *


 ユリウスは同行できる守備兵と住民たちを集めた。


「我々は街を出る。同行したい者は、すぐに準備してくれ」


 その場にいた全員が、即座にうなずいたわけではなかった。


 家族が街の別の場所にいる者もいた。年老いた親を残していけないと話す者もいた。降伏が受け入れられた以上、抵抗せず街に残る方が安全かもしれないと考える者もいる。


 ユリウスは、その誰も責めなかった。


「残る者を責めるつもりはない。自分で決めてくれ。ただし、同行する者は今すぐだ。待つことはできない」


 やがて、脱出を望む者たちが集まり始めた。


 子どもを抱えた母親。老人に肩を貸す若者。最低限の荷物だけを持った住民。彼らを守るため、ともに脱出することを選んだ守備兵もいた。


「私たちも連れていってください」


「もちろんだ。だが、持ち出す荷物はできるだけ減らしてくれ」


 街の地理に詳しい案内人が、裏門から森へ続く道を示した。


「裏門から出れば、森へ入れます。街道を避けて進みましょう」


「分かった」


 ユリウスは騎士たちへ指示を出した。


「半数は避難民を誘導。残りは俺と殿を務める」


「はっ!」


 同行を決めた者たちは、ただちに裏門へ向かった。


 魔王軍が降伏を受け入れ、街の各所へ兵を配置し終えれば、脱出はさらに難しくなる。騎士たちは住民の歩調に合わせながらも、できる限り急がせた。


 裏門の内側に一団が集まると、ユリウスは最後の確認をした。


「門を開けたら、一気に森まで走る。先行部隊から離れるな」


 裏門が軋みながら開いた。


 騎士が外の様子を確認し、手を振る。それを合図に、避難民たちは次々と門をくぐった。


「こちらです! 木々の間へ入れば姿を隠せます!」


 案内人が先頭を進む。


 ユリウスは最後尾から、住民たちを送り出した。


「止まるな! 森まで走れ!」


 だが、全員が森へ入る前に、城壁の上から叫び声が上がった。


「逃亡者だ!」


 角笛が鳴り響く。


 ユリウスが振り返ると、裏門の周辺でリザードマンの兵が動き始めていた。


「気づかれたか!」


 彼は剣を抜いた。


「避難民を森へ! 殿はここに残るぞ!」


          *


 裏門から飛び出してきたリザードマンたちは、逃げる一団へ向かって駆け出した。


「隊列を組め!」


 ユリウスの号令で、殿の騎士たちが道を塞ぐように展開する。


 二人の騎士が足を止め、並んで両手を前へ向けた。


「魔導障壁!」


 光の面が現れ、道の正面を覆う大きな長方形の盾となった。


 直後、矢と投槍が障壁へ激突する。光の面に幾重もの波紋が広がった。


 正面からの攻撃は防げる。しかし、障壁は周囲を丸ごと包むものではない。左右へ回り込もうとするリザードマンには、別の騎士たちが対処する必要があった。


「側面を守れ!」


 ユリウスが踏み込み、迫ってきた一体の剣を弾く。返す刃で相手を倒すと、すぐに次の敵へ向き直った。


 隣では守備兵が盾を構え、別のリザードマンを押し返している。


 敵は多い。ここで勝とうと考えれば、いずれ押し潰される。


 だが、今の目的は敵を全滅させることではなかった。


「団長! 避難民が森へ入りました!」


「もう少しだ。ここで止めるぞ!」


 先行部隊との距離が開くまで、ユリウスたちは道を守り続けた。


 やがて、副官が後方を確認する。


「距離が開きました!」


「よし、撤退!」


 障壁を展開していた騎士たちが術を解除し、後ろへ下がる。ユリウスも剣を構えたまま森へ向かった。


 そのときだった。


 追手の列を飛び越えて、巨大な黒豹が森の道へ躍り出た。


 背には、人間よりも大柄な男が乗っている。


 黒豹が着地すると同時に、男はその背から跳び降りた。


「人間の騎士か」


 ユリウスの進路を塞いだ男が、低い声で告げる。


「逃げられると思うな」


 魔族だった。


 副官が剣を構え直す。


「団長!」


「先に行け!」


「しかし――」


「こいつは俺が止める!」


 ユリウスは魔族へ向き直った。


          *


 魔族の一撃は重かった。


 振り下ろされた武器を剣で受けた瞬間、ユリウスの足が地面へ沈み、腕に衝撃が走った。


 だが、彼は耐えた。


 死霊侯デロスとの戦いでは、攻撃を受けるだけで身体ごと吹き飛ばされかねなかった。あのときは、一瞬の判断を誤れば反撃する間もなく命を落としていただろう。


 目の前の魔族も強い。普通の兵士が相手をすれば、ひとたまりもない。


 しかし、あの死霊侯とは違う。


 ユリウスは相手の武器を受け流し、側面へ踏み込んだ。


 魔族が振り返るより早く、その鎧の隙間へ剣を走らせる。


「ぐっ……!」


 魔族が片膝をついた。


 ユリウスは一歩下がり、剣を構え直した。


 傷を負わせられる。そして、相手の動きも見える。


 デロスほどではない。


 魔族がすべて、あの死霊侯と同じ強さを持っているわけではないのだ。


 魔族が立ち上がろうとしたところへ、ユリウスは再び踏み込んだ。急所へ剣を突き込み、反撃される前に引き抜く。


 魔族が倒れた。


 近くに残っていた副官が息をのむ。


「魔族を……倒した!」


 ユリウスはうなずいたが、剣を収めようとはしなかった。


 森の奥から、さらに二体の魔族が現れたからだ。


 一体は軽い足取りで間合いを詰め、もう一体は大きな身体に反して腕の動きが鈍かった。


「団長、二体も!」


「部隊で対処するぞ」


 ユリウスは周囲の騎士たちへ声を張った。


「魔族でも、力には差がある! デロスと同じだと思って恐れるな!」


 副官が騎士たちへ合図を送る。


「連携すれば戦えます!」


「ああ。一体ずつ仕留めるぞ!」


 二体の魔族が同時に突進してきた。


 ユリウスは手信号で騎士たちを左右に分けた。


 素早い魔族の正面へ、二人の騎士が立ちはだかる。


「魔導障壁!」


 大きな光の盾が進路を塞いだ。魔族は怒りに任せて障壁へ攻撃を叩き込む。


 その間に、ユリウスたちは動きの鈍い方へ集中した。


「今だ!」


 一人の騎士が脚へ攻撃魔法を放ち、別の騎士が脇腹へ斬りつけた。


 魔族の身体が傾く。


 その隙を逃さず、ユリウスが胸へ剣を突き込んだ。


 二体目が倒れる。


「一体ずつなら倒せる!」


「団長! こちらは長くもちません!」


 障壁を維持する騎士から、切迫した声が返ってきた。


 残る魔族は、なおも障壁を殴り続けていた。光の面には亀裂が広がり、術者たちも苦しそうに顔を歪めている。


 ユリウスは斜め後方へ回り込み、二人の騎士と目を合わせた。


 指を二本立て、左右へ開く。


 二人が小さくうなずいた。


 障壁の向こうにいる魔族からは、その合図は見えない。


「砕けろ!」


 魔族が両腕を振り上げ、大きく踏み込んだ。


 攻撃が届く、その直前。


 魔導障壁が消えた。


「なにっ!?」


 支えを失った魔族は、勢いのまま何もない空間へ腕を振り下ろした。


 左右へ飛び退いた騎士たちが、すぐに反転する。一人が脚へ斬りつけ、もう一人が腕へ攻撃魔法を放った。


 体勢を崩した魔族の死角から、ユリウスが踏み込む。


 三体目の胸を、剣が貫いた。


「三体目……!」


 副官が声を漏らす。


 だが、勝利を喜んでいる暇はなかった。


 倒れた魔族の向こうから、多数のリザードマン兵が迫ってくる。その後方には、さらに複数の魔族の姿もあった。


 ユリウスは剣を引き抜き、敵の数を確かめた。


「倒せはする。だが、数が違いすぎる」


 目の前の三体に勝てたからといって、あの軍勢に勝てるわけではない。


 目的は、避難民を逃がすことだ。


「目的は達した。全員、撤退するぞ!」


          *


 ユリウスたちは倒した魔族を残し、森の中へ走った。


「負傷者を中央へ! 走れる者は周囲を固めろ!」


 副官が負傷した騎士に肩を貸す。別の騎士が最後尾へ回り、追手を警戒した。


 背後からリザードマンたちが矢を放つ。


 先頭を走る騎士が、木々の上へ視線を向けた。


「矢が来るぞ!」


「頭上だ! 盾を上げろ!」


 ユリウスの号令で、騎士たちは物理的な盾を掲げた。


 矢は森の上空へ放たれ、弧を描いて降り注いできた。盾に当たった矢が跳ね、別の矢は足元の地面へ突き刺さる。


 ユリウスは剣で迫る矢を払いながら、負傷者を囲む隊列が崩れていないことを確かめた。


「止まるな! 走れ!」


 道が曲がる場所で、後方の騎士二人が短く足を止める。


「先に行ってください!」


 二人が並んで魔導障壁を展開した。狭い道を光の盾が塞ぎ、迫ってきた追手が足を止める。


「五秒で解除して追いつけ!」


「はっ!」


 ユリウスたちはその間に距離を稼いだ。


 障壁を維持していた二人も、命じられたとおり術を解除して走り出す。


 やがて、木々の間に先行部隊の姿が見え始めた。


「団長! 避難民が見えました!」


「追いついたか!」


 先行部隊へ合流すると、ユリウスはすぐに避難民たちを囲むよう指示した。後方に残っていた二人の騎士も、ほどなく追いついてくる。


「この先に、身を隠せる谷があります!」


 案内人が告げた。


「そこまで全員を運ぶ! まだ止まるな!」


 しかし、住民たちの足は次第に重くなっていた。


 子どもや老人もいる。負傷した者もいた。騎士たちだけならさらに速度を上げられるが、全員で逃げるには限界がある。


「団長、このままでは追いつかれます!」


「避難民を急がせろ! 動ける者は負傷者を支えるんだ!」


 案内人が前方を指した。


「あそこです!」


 木々の間に、岩壁に挟まれた狭い谷道が見える。


「谷を抜ければ、森の反対側へ出られます!」


「よし、全員を先に通せ!」


 避難民たちが次々と谷へ入っていく。


 ユリウスと魔導騎士団は入口に残り、追手へ向き直った。


「我々も残ります」


 副官が言う。


「無理はするな。避難民が抜けたら、すぐに退くぞ」


 森の奥からリザードマン兵が現れた。その後ろには魔族もいる。


 ユリウスは剣を構えた。


「ここを通すな!」


 二組の騎士が交互に備え、一組が前へ出て魔導障壁を展開した。


 矢と攻撃魔法が光の面へ激突する。左右から抜けようとする敵を、ユリウスたちが剣で押し返した。


「全員、谷へ入りました!」


 後方から報告が届く。


「よし、下がるぞ!」


 障壁を展開している二人が敵を食い止めている間に、控えていた二人が谷の奥へ下がった。先の組が術を解除して後退すると、後ろで待っていた組が足を止め、改めて障壁を展開する。


 そうして、立ち止まって守る役と退く役を交代しながら、少しずつ谷の中へ距離を稼いだ。


「交代を続けろ! 全員で、ここを抜けるぞ!」


 背後では、先行した住民たちが必死に歩いていた。


 彼らはリバーナから逃げ出せた、ほんの一部にすぎない。


 それでもユリウスたちは、その命を守るために戦い続けた。


          *


 追手を振り切ったことを確認できたのは、その日の夜になってからだった。


 リバーナから遠く離れた森の中で、ようやく避難民たちは足を止めた。


 騎士たちは周囲を警戒しながら、負傷者の応急処置を進めている。住民たちは身を寄せ合い、疲れ切った子どもを寝かせたり、持ち出したわずかな食料を分け合ったりしていた。


「追手は来ていません。どうやら振り切れたようです」


 副官の報告に、ユリウスは短くうなずいた。


「そうか……」


 改めて避難民たちを見渡す。


「これだけしか、連れ出せなかったか」


「街が降伏してからでは、これが限界でした」


 副官の言葉が正しいことは、ユリウスにも分かっていた。


 それでも、街に残った人々のことを考えずにはいられなかった。


 彼は手元の剣へ目を落とした。幾度も敵の攻撃を受け止めた刃には、細かな傷が残っている。


「魔族は倒せる」


「はい」


「少なくとも、全てがデロスほどの強さではない」


 ユリウスは森の向こうへ目を向けた。


「だが、あれほどの数で軍を率いて現れれば、一つの街だけで防ぎ切るのは不可能だ」


 魔導障壁があれば、兵の犠牲を減らしながら戦うことはできる。ユリウス自身も、魔族三体を倒した。


 だが、敵はそれで尽きなかった。


 一体を倒しても次が来る。正面の軍勢を食い止めている間に、別の魔族が街の内部へ現れた。


 魔王軍は、街の守備隊だけで対処できる相手ではない。


 ユリウスは焚き火のそばへ座り、報告書を広げた。


 リバーナ陥落。


 リザードマンの軍勢と、複数の魔族を確認。


 市長舎にも魔族が現れ、街は降伏を選択した。魔導騎士団は一部の守備兵と住民を伴い、脱出に成功。


 書き終えると、伝令役の騎士へ渡した。


「可能な限り早く、魔導騎士団本部へ届けてくれ」


「はっ!」


 伝令が出発するのを見送り、ユリウスは静かに息を吐いた。


 遠く、リバーナの方角に、まだ煙が見えていた。


          *


 そのころ、アルナサ山。


 賢者リースは、研究室で一通の手紙を読んでいた。


 差出人はサンキチ。


 以前、ミルドカンドへ解析に出した剣についての報告だった。


「あの剣は武器ではなく、何かを封じるために造られたものだそうです。抜かれたことで、封印が失われた可能性があります――か」


 リースは手紙から顔を上げた。


「なるほど……あれは、封印するための剣だったのか」


 剣を持ち帰ってから、ずっと気になっていた。


 金属の組成も、刻まれた古い術式も、通常の武器とは違う。だが、剣が刺さっていた石像と合わせて考えれば、説明のつく部分がある。


 リースは机へ古いダンジョンの資料を広げた。


「しかし、ダンジョンから剣を持ち帰る者など、昔からいくらでもいたはずです」


 古い巨大ダンジョンでは、武器や防具が発見されることも珍しくない。その中には、石像や遺構から取り外されたものもあったはずだ。


 もし、それらの一部が何かを封じる役目を持っていたのなら。


「それなら、なぜ今まで何も起こらなかった?」


 リースは書棚へ向かい、古い冒険者の記録を次々と取り出した。


 発掘された剣。持ち帰られた武具。古い遺跡から王族へ献上された収集品。


 それらの後に、何が起こったのか。


「やはり、珍しいことではない……」


 しかし、剣を抜いたことが原因と考えられる大きな異変は、手元の記録には見当たらなかった。


「封印を解くたびに何かが起きていたなら、記録に残っているはずです」


 リースは別の本を開き、古い巨大ダンジョンの位置と照らし合わせた。


 何冊調べても、答えは出ない。


 やがて椅子へ深く腰を下ろし、サンキチの手紙を見つめた。


「本当に、何も起こっていなかったのでしょうか」


 剣を抜いても、変化が起きないのか。


 それとも、変化があっても人間が気づかなかっただけなのか。


 あるいは、そもそも残された記録が不十分なのか。


「……いや」


 リースの表情が険しくなった。


「私が知らないだけなのかもしれませんね」


 古い記録に残っていないからといって、何も起こらなかったことにはならない。


 それに、各地から集まる情報が最も多いのは、山の中の自分の研究室ではなかった。


「ここにある資料だけでは判断できません」


 リースは椅子から立ち上がった。


「久しぶりに、アーリアンへ行ってみるべきかもしれませんね」


          *


 出発を決めると、準備は早かった。


 リースは机の上に積み上げた資料を整理し、封印の剣に関係する記録だけを選び出した。


「必要な資料は、このくらいでしょうか」


 革製の鞄へ収め、最後にサンキチの手紙を丁寧にしまう。


 旅用の外套を羽織り、杖を手に取った。


「何も起きていないのなら、それでいい」


 部屋を出る前に、各地の巨大ダンジョンが記された地図を振り返る。


「ですが、確かめずに済ませるには……少し気になりますね」


 屋敷の扉を閉めると、山の澄んだ空気が頬に触れた。


 リースは杖を手に、アルナサ山の道を下り始めた。遠くにはアーリアン方面の平野が広がっている。


 リバーナで何が起こったのか、彼はまだ知らない。


 それでも、長く抱えていた疑問を確かめるために、山を離れることにした。


「それに――」


 リースの表情が、少しだけ柔らかくなる。


「久しぶりに、バサルスとお酒でも飲むのも悪くないですしね」


 北方の空には、暗い雲が広がり始めていた。


 リースもまた、北の大陸で起き始めた異変へと近づいていく。


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