第四十六話 リバーナ陥落
市長室の扉が破られたとき、リバーナの市長は城壁の状況を報告する職員と話していた。
護衛の一人が剣を抜いた。しかし、侵入者が腕を振るうと、その身体は机の脇へ叩きつけられた。もう一人の護衛も、応戦する間もなく壁際へ倒れ込む。
職員が悲鳴を上げて後ずさった。
侵入者は、その声には目も向けなかった。
人間より一回り大きな身体を持つ男だった。歩みはどこかぎこちなかったが、二人の護衛を倒した力は疑いようもない。男は壊れた扉を越え、ゆっくりと市長の机へ近づいた。
「貴様が、この町の長か?」
市長は椅子から立ち上がった。
「そうだ」
「降伏しろ」
魔族は武器を下げたまま、静かに告げた。
「リリス様に忠誠を誓うなら、生かしてやろう」
窓の外では、今も城壁の攻防が続いていた。
リザードマンの軍勢を相手に、守備兵と魔導騎士団が戦っている。ユリウスたちが奮戦していることは報告を受けていたが、敵の数は多く、いつまで防ぎ切れるか分からない。
しかも、目の前には魔族がいる。
どうやって市長舎まで入り込んだのか、市長には見当もつかなかった。だが、街の内部まで敵が現れた以上、城壁だけを守っていても住民の安全は保証できない。
「町の者たちの安全は?」
「抵抗しなければ、むやみには殺さぬ」
「……その言葉を信じろと?」
「選ぶのは貴様だ」
市長は机に手をついた。
降伏したあとの住民がどう扱われるかは分からない。しかし、ここで抵抗を続ければ、市街地まで戦場になるだろう。
市長自身が命を落とすだけなら、まだいい。彼の判断によって、何千もの住民が巻き込まれる。
窓の外から、再び大きな戦闘音が響いた。
「……わかった」
市長は顔を上げた。
「降伏する」
魔族はそれ以上何も言わなかった。
市長は職員へ振り返った。
「今すぐ抵抗をやめろ! 各部署へ連絡しろ。リバーナは降伏する!」
*
「市長命令です! リバーナは降伏します!」
城壁へ駆け上がってきた役人の言葉に、守備兵たちの間で動揺が広がった。
ユリウスは剣を下ろさずに問い返した。
「市長は無事なのか?」
「市長舎に魔族が……市長と話しています」
「魔族が街の中に?」
副官が声を上げた。
ユリウスも驚きを隠せなかった。城壁の外ではリザードマンの軍勢を食い止めている。敵の大部隊が街へ侵入したという報告もない。
しかし、役人の様子からすると、見間違いや冗談ではなさそうだった。
その間にも、城外から矢と攻撃魔法が飛んでくる。
「団長! 攻撃が止まりません!」
「停止を確認するまで障壁を維持しろ!」
二人の魔導騎士が並んで展開した長方形の魔導障壁に、矢と魔法が次々と激突した。光の面が揺れるたび、術者たちの表情が険しくなる。
やがて、城壁の上に白旗が掲げられた。
城外のリザードマン指揮官がそれを認め、片腕を高く上げる。
攻撃が止んだ。
「……止まりました」
副官がつぶやく。
「障壁を解除しろ。ただし、警戒は続けろ」
光の盾が消えても、誰も安堵の声を上げなかった。つい先ほどまで命を奪い合っていた相手が、城壁の向こうにいるのだ。
ユリウスは守備兵たちを見渡した。
「街が降伏を選んだ以上、我々が止めることはできない」
「では、我々も武器を置くのですか?」
「いや」
ユリウスは首を振った。
「ここへ残れば、我々も捕らえられる。リリスへの忠誠を求められる可能性もあるだろう」
魔導騎士団は、魔物から人々を守るために組織された。その騎士が、魔王軍に従うわけにはいかない。
「脱出するぞ。敵が街を掌握し終える前に動く」
*
ユリウスは同行できる守備兵と住民たちを集めた。
「我々は街を出る。同行したい者は、すぐに準備してくれ」
その場にいた全員が、即座にうなずいたわけではなかった。
家族が街の別の場所にいる者もいた。年老いた親を残していけないと話す者もいた。降伏が受け入れられた以上、抵抗せず街に残る方が安全かもしれないと考える者もいる。
ユリウスは、その誰も責めなかった。
「残る者を責めるつもりはない。自分で決めてくれ。ただし、同行する者は今すぐだ。待つことはできない」
やがて、脱出を望む者たちが集まり始めた。
子どもを抱えた母親。老人に肩を貸す若者。最低限の荷物だけを持った住民。彼らを守るため、ともに脱出することを選んだ守備兵もいた。
「私たちも連れていってください」
「もちろんだ。だが、持ち出す荷物はできるだけ減らしてくれ」
街の地理に詳しい案内人が、裏門から森へ続く道を示した。
「裏門から出れば、森へ入れます。街道を避けて進みましょう」
「分かった」
ユリウスは騎士たちへ指示を出した。
「半数は避難民を誘導。残りは俺と殿を務める」
「はっ!」
同行を決めた者たちは、ただちに裏門へ向かった。
魔王軍が降伏を受け入れ、街の各所へ兵を配置し終えれば、脱出はさらに難しくなる。騎士たちは住民の歩調に合わせながらも、できる限り急がせた。
裏門の内側に一団が集まると、ユリウスは最後の確認をした。
「門を開けたら、一気に森まで走る。先行部隊から離れるな」
裏門が軋みながら開いた。
騎士が外の様子を確認し、手を振る。それを合図に、避難民たちは次々と門をくぐった。
「こちらです! 木々の間へ入れば姿を隠せます!」
案内人が先頭を進む。
ユリウスは最後尾から、住民たちを送り出した。
「止まるな! 森まで走れ!」
だが、全員が森へ入る前に、城壁の上から叫び声が上がった。
「逃亡者だ!」
角笛が鳴り響く。
ユリウスが振り返ると、裏門の周辺でリザードマンの兵が動き始めていた。
「気づかれたか!」
彼は剣を抜いた。
「避難民を森へ! 殿はここに残るぞ!」
*
裏門から飛び出してきたリザードマンたちは、逃げる一団へ向かって駆け出した。
「隊列を組め!」
ユリウスの号令で、殿の騎士たちが道を塞ぐように展開する。
二人の騎士が足を止め、並んで両手を前へ向けた。
「魔導障壁!」
光の面が現れ、道の正面を覆う大きな長方形の盾となった。
直後、矢と投槍が障壁へ激突する。光の面に幾重もの波紋が広がった。
正面からの攻撃は防げる。しかし、障壁は周囲を丸ごと包むものではない。左右へ回り込もうとするリザードマンには、別の騎士たちが対処する必要があった。
「側面を守れ!」
ユリウスが踏み込み、迫ってきた一体の剣を弾く。返す刃で相手を倒すと、すぐに次の敵へ向き直った。
隣では守備兵が盾を構え、別のリザードマンを押し返している。
敵は多い。ここで勝とうと考えれば、いずれ押し潰される。
だが、今の目的は敵を全滅させることではなかった。
「団長! 避難民が森へ入りました!」
「もう少しだ。ここで止めるぞ!」
先行部隊との距離が開くまで、ユリウスたちは道を守り続けた。
やがて、副官が後方を確認する。
「距離が開きました!」
「よし、撤退!」
障壁を展開していた騎士たちが術を解除し、後ろへ下がる。ユリウスも剣を構えたまま森へ向かった。
そのときだった。
追手の列を飛び越えて、巨大な黒豹が森の道へ躍り出た。
背には、人間よりも大柄な男が乗っている。
黒豹が着地すると同時に、男はその背から跳び降りた。
「人間の騎士か」
ユリウスの進路を塞いだ男が、低い声で告げる。
「逃げられると思うな」
魔族だった。
副官が剣を構え直す。
「団長!」
「先に行け!」
「しかし――」
「こいつは俺が止める!」
ユリウスは魔族へ向き直った。
*
魔族の一撃は重かった。
振り下ろされた武器を剣で受けた瞬間、ユリウスの足が地面へ沈み、腕に衝撃が走った。
だが、彼は耐えた。
死霊侯デロスとの戦いでは、攻撃を受けるだけで身体ごと吹き飛ばされかねなかった。あのときは、一瞬の判断を誤れば反撃する間もなく命を落としていただろう。
目の前の魔族も強い。普通の兵士が相手をすれば、ひとたまりもない。
しかし、あの死霊侯とは違う。
ユリウスは相手の武器を受け流し、側面へ踏み込んだ。
魔族が振り返るより早く、その鎧の隙間へ剣を走らせる。
「ぐっ……!」
魔族が片膝をついた。
ユリウスは一歩下がり、剣を構え直した。
傷を負わせられる。そして、相手の動きも見える。
デロスほどではない。
魔族がすべて、あの死霊侯と同じ強さを持っているわけではないのだ。
魔族が立ち上がろうとしたところへ、ユリウスは再び踏み込んだ。急所へ剣を突き込み、反撃される前に引き抜く。
魔族が倒れた。
近くに残っていた副官が息をのむ。
「魔族を……倒した!」
ユリウスはうなずいたが、剣を収めようとはしなかった。
森の奥から、さらに二体の魔族が現れたからだ。
一体は軽い足取りで間合いを詰め、もう一体は大きな身体に反して腕の動きが鈍かった。
「団長、二体も!」
「部隊で対処するぞ」
ユリウスは周囲の騎士たちへ声を張った。
「魔族でも、力には差がある! デロスと同じだと思って恐れるな!」
副官が騎士たちへ合図を送る。
「連携すれば戦えます!」
「ああ。一体ずつ仕留めるぞ!」
二体の魔族が同時に突進してきた。
ユリウスは手信号で騎士たちを左右に分けた。
素早い魔族の正面へ、二人の騎士が立ちはだかる。
「魔導障壁!」
大きな光の盾が進路を塞いだ。魔族は怒りに任せて障壁へ攻撃を叩き込む。
その間に、ユリウスたちは動きの鈍い方へ集中した。
「今だ!」
一人の騎士が脚へ攻撃魔法を放ち、別の騎士が脇腹へ斬りつけた。
魔族の身体が傾く。
その隙を逃さず、ユリウスが胸へ剣を突き込んだ。
二体目が倒れる。
「一体ずつなら倒せる!」
「団長! こちらは長くもちません!」
障壁を維持する騎士から、切迫した声が返ってきた。
残る魔族は、なおも障壁を殴り続けていた。光の面には亀裂が広がり、術者たちも苦しそうに顔を歪めている。
ユリウスは斜め後方へ回り込み、二人の騎士と目を合わせた。
指を二本立て、左右へ開く。
二人が小さくうなずいた。
障壁の向こうにいる魔族からは、その合図は見えない。
「砕けろ!」
魔族が両腕を振り上げ、大きく踏み込んだ。
攻撃が届く、その直前。
魔導障壁が消えた。
「なにっ!?」
支えを失った魔族は、勢いのまま何もない空間へ腕を振り下ろした。
左右へ飛び退いた騎士たちが、すぐに反転する。一人が脚へ斬りつけ、もう一人が腕へ攻撃魔法を放った。
体勢を崩した魔族の死角から、ユリウスが踏み込む。
三体目の胸を、剣が貫いた。
「三体目……!」
副官が声を漏らす。
だが、勝利を喜んでいる暇はなかった。
倒れた魔族の向こうから、多数のリザードマン兵が迫ってくる。その後方には、さらに複数の魔族の姿もあった。
ユリウスは剣を引き抜き、敵の数を確かめた。
「倒せはする。だが、数が違いすぎる」
目の前の三体に勝てたからといって、あの軍勢に勝てるわけではない。
目的は、避難民を逃がすことだ。
「目的は達した。全員、撤退するぞ!」
*
ユリウスたちは倒した魔族を残し、森の中へ走った。
「負傷者を中央へ! 走れる者は周囲を固めろ!」
副官が負傷した騎士に肩を貸す。別の騎士が最後尾へ回り、追手を警戒した。
背後からリザードマンたちが矢を放つ。
先頭を走る騎士が、木々の上へ視線を向けた。
「矢が来るぞ!」
「頭上だ! 盾を上げろ!」
ユリウスの号令で、騎士たちは物理的な盾を掲げた。
矢は森の上空へ放たれ、弧を描いて降り注いできた。盾に当たった矢が跳ね、別の矢は足元の地面へ突き刺さる。
ユリウスは剣で迫る矢を払いながら、負傷者を囲む隊列が崩れていないことを確かめた。
「止まるな! 走れ!」
道が曲がる場所で、後方の騎士二人が短く足を止める。
「先に行ってください!」
二人が並んで魔導障壁を展開した。狭い道を光の盾が塞ぎ、迫ってきた追手が足を止める。
「五秒で解除して追いつけ!」
「はっ!」
ユリウスたちはその間に距離を稼いだ。
障壁を維持していた二人も、命じられたとおり術を解除して走り出す。
やがて、木々の間に先行部隊の姿が見え始めた。
「団長! 避難民が見えました!」
「追いついたか!」
先行部隊へ合流すると、ユリウスはすぐに避難民たちを囲むよう指示した。後方に残っていた二人の騎士も、ほどなく追いついてくる。
「この先に、身を隠せる谷があります!」
案内人が告げた。
「そこまで全員を運ぶ! まだ止まるな!」
しかし、住民たちの足は次第に重くなっていた。
子どもや老人もいる。負傷した者もいた。騎士たちだけならさらに速度を上げられるが、全員で逃げるには限界がある。
「団長、このままでは追いつかれます!」
「避難民を急がせろ! 動ける者は負傷者を支えるんだ!」
案内人が前方を指した。
「あそこです!」
木々の間に、岩壁に挟まれた狭い谷道が見える。
「谷を抜ければ、森の反対側へ出られます!」
「よし、全員を先に通せ!」
避難民たちが次々と谷へ入っていく。
ユリウスと魔導騎士団は入口に残り、追手へ向き直った。
「我々も残ります」
副官が言う。
「無理はするな。避難民が抜けたら、すぐに退くぞ」
森の奥からリザードマン兵が現れた。その後ろには魔族もいる。
ユリウスは剣を構えた。
「ここを通すな!」
二組の騎士が交互に備え、一組が前へ出て魔導障壁を展開した。
矢と攻撃魔法が光の面へ激突する。左右から抜けようとする敵を、ユリウスたちが剣で押し返した。
「全員、谷へ入りました!」
後方から報告が届く。
「よし、下がるぞ!」
障壁を展開している二人が敵を食い止めている間に、控えていた二人が谷の奥へ下がった。先の組が術を解除して後退すると、後ろで待っていた組が足を止め、改めて障壁を展開する。
そうして、立ち止まって守る役と退く役を交代しながら、少しずつ谷の中へ距離を稼いだ。
「交代を続けろ! 全員で、ここを抜けるぞ!」
背後では、先行した住民たちが必死に歩いていた。
彼らはリバーナから逃げ出せた、ほんの一部にすぎない。
それでもユリウスたちは、その命を守るために戦い続けた。
*
追手を振り切ったことを確認できたのは、その日の夜になってからだった。
リバーナから遠く離れた森の中で、ようやく避難民たちは足を止めた。
騎士たちは周囲を警戒しながら、負傷者の応急処置を進めている。住民たちは身を寄せ合い、疲れ切った子どもを寝かせたり、持ち出したわずかな食料を分け合ったりしていた。
「追手は来ていません。どうやら振り切れたようです」
副官の報告に、ユリウスは短くうなずいた。
「そうか……」
改めて避難民たちを見渡す。
「これだけしか、連れ出せなかったか」
「街が降伏してからでは、これが限界でした」
副官の言葉が正しいことは、ユリウスにも分かっていた。
それでも、街に残った人々のことを考えずにはいられなかった。
彼は手元の剣へ目を落とした。幾度も敵の攻撃を受け止めた刃には、細かな傷が残っている。
「魔族は倒せる」
「はい」
「少なくとも、全てがデロスほどの強さではない」
ユリウスは森の向こうへ目を向けた。
「だが、あれほどの数で軍を率いて現れれば、一つの街だけで防ぎ切るのは不可能だ」
魔導障壁があれば、兵の犠牲を減らしながら戦うことはできる。ユリウス自身も、魔族三体を倒した。
だが、敵はそれで尽きなかった。
一体を倒しても次が来る。正面の軍勢を食い止めている間に、別の魔族が街の内部へ現れた。
魔王軍は、街の守備隊だけで対処できる相手ではない。
ユリウスは焚き火のそばへ座り、報告書を広げた。
リバーナ陥落。
リザードマンの軍勢と、複数の魔族を確認。
市長舎にも魔族が現れ、街は降伏を選択した。魔導騎士団は一部の守備兵と住民を伴い、脱出に成功。
書き終えると、伝令役の騎士へ渡した。
「可能な限り早く、魔導騎士団本部へ届けてくれ」
「はっ!」
伝令が出発するのを見送り、ユリウスは静かに息を吐いた。
遠く、リバーナの方角に、まだ煙が見えていた。
*
そのころ、アルナサ山。
賢者リースは、研究室で一通の手紙を読んでいた。
差出人はサンキチ。
以前、ミルドカンドへ解析に出した剣についての報告だった。
「あの剣は武器ではなく、何かを封じるために造られたものだそうです。抜かれたことで、封印が失われた可能性があります――か」
リースは手紙から顔を上げた。
「なるほど……あれは、封印するための剣だったのか」
剣を持ち帰ってから、ずっと気になっていた。
金属の組成も、刻まれた古い術式も、通常の武器とは違う。だが、剣が刺さっていた石像と合わせて考えれば、説明のつく部分がある。
リースは机へ古いダンジョンの資料を広げた。
「しかし、ダンジョンから剣を持ち帰る者など、昔からいくらでもいたはずです」
古い巨大ダンジョンでは、武器や防具が発見されることも珍しくない。その中には、石像や遺構から取り外されたものもあったはずだ。
もし、それらの一部が何かを封じる役目を持っていたのなら。
「それなら、なぜ今まで何も起こらなかった?」
リースは書棚へ向かい、古い冒険者の記録を次々と取り出した。
発掘された剣。持ち帰られた武具。古い遺跡から王族へ献上された収集品。
それらの後に、何が起こったのか。
「やはり、珍しいことではない……」
しかし、剣を抜いたことが原因と考えられる大きな異変は、手元の記録には見当たらなかった。
「封印を解くたびに何かが起きていたなら、記録に残っているはずです」
リースは別の本を開き、古い巨大ダンジョンの位置と照らし合わせた。
何冊調べても、答えは出ない。
やがて椅子へ深く腰を下ろし、サンキチの手紙を見つめた。
「本当に、何も起こっていなかったのでしょうか」
剣を抜いても、変化が起きないのか。
それとも、変化があっても人間が気づかなかっただけなのか。
あるいは、そもそも残された記録が不十分なのか。
「……いや」
リースの表情が険しくなった。
「私が知らないだけなのかもしれませんね」
古い記録に残っていないからといって、何も起こらなかったことにはならない。
それに、各地から集まる情報が最も多いのは、山の中の自分の研究室ではなかった。
「ここにある資料だけでは判断できません」
リースは椅子から立ち上がった。
「久しぶりに、アーリアンへ行ってみるべきかもしれませんね」
*
出発を決めると、準備は早かった。
リースは机の上に積み上げた資料を整理し、封印の剣に関係する記録だけを選び出した。
「必要な資料は、このくらいでしょうか」
革製の鞄へ収め、最後にサンキチの手紙を丁寧にしまう。
旅用の外套を羽織り、杖を手に取った。
「何も起きていないのなら、それでいい」
部屋を出る前に、各地の巨大ダンジョンが記された地図を振り返る。
「ですが、確かめずに済ませるには……少し気になりますね」
屋敷の扉を閉めると、山の澄んだ空気が頬に触れた。
リースは杖を手に、アルナサ山の道を下り始めた。遠くにはアーリアン方面の平野が広がっている。
リバーナで何が起こったのか、彼はまだ知らない。
それでも、長く抱えていた疑問を確かめるために、山を離れることにした。
「それに――」
リースの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「久しぶりに、バサルスとお酒でも飲むのも悪くないですしね」
北方の空には、暗い雲が広がり始めていた。
リースもまた、北の大陸で起き始めた異変へと近づいていく。




