第三十四話 石像は見ている
最初に戻ってきたのは、音だった。
それが本当に音なのかどうかも、まだ分からなかった。
遠くで何かが響いている。低く、途切れ途切れに、深い水の底から聞いているような感覚だけがあった。
次に、光があることを知った。
明るい。
暗い。
その違いだけが、長い眠りの底に沈んでいた意識へ、かすかな輪郭を与えていく。
そして、また何かが流れ込んできた。
暖かいのか、冷たいのか。
痛いのか、心地よいのか。
それすら分からない。
ただ、それが来るたびに、自分が少しだけ浮かび上がる。
深く、深く沈んでいた意識が、ほんのわずかに水面へ近づいていく。
それから再び、眠りが来た。
どれほど時間が経ったのか分からない。
次に意識が浮かんだ時、また同じものが流れ込んできた。
今度は、前より少し長く起きていられた。
暗闇の中に、光の形がある。
ぼんやりとした人影も見える。
それらが自分の前を通り過ぎていく。
何かを話している。
まだ意味までは分からない。
だが、それが声であることだけは分かった。
そしてまた、眠った。
*
何度目だったのか。
石像の中の意識には、もう数えることができなかった。
ただ、一つだけ法則があることには気づき始めていた。
夜。
空に丸い光が浮かぶ。
その時、人間たちが城のどこかで何かをする。
すると、大きな力が建物の中へ広がり、自分の中にも流れ込んでくる。
そのたびに意識が戻る。
そして、そのたびに少しずつ世界がはっきりしていく。
「……気味の悪い像だな」
「王のコレクションだ。触るなよ」
ある日、通り過ぎた二人の兵士がそう話した。
石像の中の意識は、その言葉を初めて理解した。
気味の悪い像。
王。
コレクション。
言葉の意味が分かる。
それに気づいた瞬間、長く曇っていた記憶の奥で何かが揺れた。
ここは、人間の城だ。
そう理解するまでに、さらに何度か同じ夜が巡った。
人間たちは、この場所を王城と呼んでいる。
自分はその廊下の一角に置かれている。
誰かが所有している。
飾られている。
まるで、ただの石像のように。
その事実を理解した時、石像の中の意識は初めて、自分の身体へ注意を向けた。
動かない。
腕も。
脚も。
首も。
何一つ動かせない。
それでも、ある夜。
ほんのわずかに。
視界が横へずれた。
石像の中の意識は、その感覚に驚いた。
眼球が動いた。
ほんの少しだけ。
次の満月では、もう少し動いた。
さらに次の満月には、指先に感覚が戻った。
力を込める。
動かない。
もう一度、力を込める。
石のように固まった指が、ほんのわずかに曲がった。
それだけのことに、どれほどの時間を要したのか分からない。
だが、確実に戻っている。
目。
指。
手。
首。
肩。
一度にすべてが戻ることはない。
人間たちが満月の夜に行う、あの儀式。
その時に流れ込んでくる力が、自分の意識と身体を少しずつ目覚めさせていた。
そして身体とともに、記憶も戻り始めた。
*
暗い場所。
冷たい空気。
長く続く石の壁。
自分はそこに座っていた。
いや。
座らされていた。
身体は動かない。
胸には、一本の剣が深く突き刺さっている。
剣。
その記憶が戻った瞬間、石像の中の意識は理解した。
あれだ。
あの剣が、自分を縛っていた。
身体を変化させないまま固定し、長い眠りへ落とし込んでいた。
自分は最初から石だったわけではない。
何者かによって封じられ、石のような状態へ変えられたのだ。
その記憶に続いて、別の光景が蘇る。
暗いダンジョン。
複数の足音。
人間たちの声。
「石像に剣が刺さってるぞ」
「抜けそうか?」
意識はあった。
今よりはるかに弱く、夢の中にいるような状態だったが、それでも人間たちの存在は分かっていた。
冒険者の一人が自分へ近づき、胸に刺さった剣の柄を握る。
止めろ。
そう思った。
だが、声は出ない。
身体も動かない。
「いけそうだな」
両手で柄が握られる。
「やってみる」
剣が動いた。
長いあいだ身体の奥にあったものが、少しずつ引き抜かれていく。
そして――
「抜けたぞ!」
歓声が上がった。
人間たちは笑っていた。
見つけた宝を手に入れた。
ただ、それだけの顔だった。
石像の中に残された意識だけが、その意味を理解していた。
人間は、自ら封印を外した。
だが、剣が抜かれても身体は動かなかった。
何年も、何十年も、あるいはそれ以上。
長いあいだ固定されていた身体は、剣を抜いただけで元へ戻るほど簡単なものではなかった。
それが、人間たちにとって幸運だったのか、不幸だったのか。
当時の彼らには知る由もない。
「こいつも珍しいな」
「持って帰れるか?」
「縄かけりゃ何とかなるだろ」
今度は自分の身体へ縄が掛けられた。
台座から降ろされる。
荷車へ載せられる。
何年ぶりかも分からない外の光が、石の瞼越しに差し込んだ。
空。
雲。
人間の町。
どれも、遠い記憶の中にあるものとは違っていた。
時代が変わっている。
それだけは分かった。
*
「古代ダンジョンから発見された一点物でございます」
商人がそう言っていた。
石像の身体は、店の奥へ並べられていた。
人間たちは自分を見上げ、値段を尋ね、顔を近づけ、感心したようにうなずいていく。
「見事な細工だ」
「魔族を模したものか?」
「かなり古い物らしいぞ」
違う。
細工ではない。
模したものでもない。
だが、その頃の自分には何もできなかった。
声も出せない。
動くこともできない。
ただ見ているしかない。
やがて商人の店から別の場所へ運ばれ、また別の人間へ渡った。
広い屋敷。
豪華な部屋。
珍しい物を集める人間たち。
そして最後に辿り着いたのが、王城だった。
「これは陛下がお気に召す」
「古代ダンジョンから出た物なら、価値もあるだろう」
そうして自分は、王城の廊下に置かれた。
美術品として。
*
満月が巡るたび、意識はさらに明瞭になった。
王城に置かれているだけで、多くのものが見えた。
王。
兵士。
魔術師。
役人。
貴族。
城の中を出入りする者たち。
人間たちは石像の前で警戒することもなく話す。
誰が偉いのか。
どの部隊がどこへ向かうのか。
どの国から使者が来たのか。
王が何を望んでいるのか。
何を恐れているのか。
何も聞こうとしていないのに、人間たちの方から教えてくれる。
ある満月の夜には、いつもより大きな力が流れ込んできた。
その後、十代ほどに見える少年少女たちが兵士に連れられ、石像の前を通り過ぎていった。
服装が違う。
髪型も違う。
何より、周囲の人間たちを見る目が違った。
この世界のことを何も知らない者の目だ。
次の満月にも、別の若者たちが通った。
その次にも。
石像の中の意識は理解した。
人間たちは、どこか別の世界から人間を呼び寄せている。
しかも若い者ばかりを。
また子どもか。
声にはならない言葉が、意識の中に浮かんだ。
人間たちは、自分が見ていることを知らない。
自分が聞いていることも知らない。
だから隠そうともしない。
石像の中の存在は、ただ観察を続けた。
見ていれば分かる。
人間は、自らすべてを見せる。
*
ある満月の夜。
いつものように城の奥で儀式が始まった。
強い力が広がってくる。
壁を越え、廊下を抜け、石の身体へ染み込んでくる。
今度は、それがはっきりと分かった。
力が流れ込む。
意識が澄む。
身体の奥に残っていた硬さが、少しだけほどけていく。
指を動かす。
動いた。
手首も、わずかに動く。
首にも力が戻ってきている。
まだ完全ではない。
立ち上がることもできない。
だが、確実に近づいている。
満月の夜。
人間たちの儀式。
そこから溢れ出す力。
それが自分を目覚めさせている。
石像の中の存在は、ようやくその法則を理解した。
ならば、焦る必要はない。
満月はまた来る。
人間たちはまた儀式を行う。
そして、そのたびに自分は戻っていく。
*
同じ頃。
王城から遠く離れた場所にも、一体の石像があった。
地下へ作られた薄暗い部屋。
無数の蝋燭。
黒い布で覆われた壁。
その中央に置かれた石像の前で、黒いローブをまとった人間たちが跪いていた。
「偉大なる御方よ」
「いつの日か、御身がお戻りになる時まで」
「我らは御身の復活を待ち続けます」
頭を垂れ、祈りを捧げる。
彼らは石像が何者なのか、本当には知らない。
何を望んでいたのか。
何をしてきたのか。
何一つ知りもしない。
ただ、自分たちが作り上げた物語を信じ、石像を崇めている。
その中で、石像の意識だけが静かに人間たちを見下ろしていた。
愚かな。
私が何者かも知らずに。
*
王城。
夜警の兵士が一人、長い廊下を歩いていた。
足音が近づいてくる。
石像は動かなかった。
兵士が横を通り過ぎる。
その背中を追うように、眼球だけがほんのわずかに動いた。
兵士が足を止める。
「……?」
振り返る。
石像は、すでに元の位置を見ていた。
動かない。
冷たい石の像が、ただそこに座っている。
兵士はしばらくこちらを見つめていたが、やがて首を振った。
「気のせいか……」
足音が遠ざかっていく。
廊下から人の気配が消えた。
その時、石像の指先がわずかに曲がった。
もう動ける。
少しだけなら。
それでも、石像は立ち上がらなかった。
今ここで動けば、人間たちは警戒するだろう。
兵を集める。
魔術師を呼ぶ。
自分を壊そうとするかもしれない。
そんな必要はない。
時間はある。
満月はまた来る。
あの儀式も、また行われる。
完全に戻るまで、自分がただの石像ではないと知らせる理由などなかった。
まだだ。
完全に戻るまで、石のままでいい。
石像は再び、何一つ動かない古代の遺物へ戻った。
そして王城の廊下で、今日も人間たちを見続ける。
王を。
兵士を。
魔術師を。
異なる世界から呼び出される若者たちを。
何も知らず、自分の前を通り過ぎていく者たちを。
見ていればいい。
すべてを。




