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漏洩の加護  作者: なつみかん
第八章 鉱山国家ミルドカンド
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第三十四話 石像は見ている  

最初に戻ってきたのは、音だった。


 それが本当に音なのかどうかも、まだ分からなかった。


 遠くで何かが響いている。低く、途切れ途切れに、深い水の底から聞いているような感覚だけがあった。


 次に、光があることを知った。


 明るい。


 暗い。


 その違いだけが、長い眠りの底に沈んでいた意識へ、かすかな輪郭を与えていく。


 そして、また何かが流れ込んできた。


 暖かいのか、冷たいのか。


 痛いのか、心地よいのか。


 それすら分からない。


 ただ、それが来るたびに、自分が少しだけ浮かび上がる。


 深く、深く沈んでいた意識が、ほんのわずかに水面へ近づいていく。


 それから再び、眠りが来た。


 どれほど時間が経ったのか分からない。


 次に意識が浮かんだ時、また同じものが流れ込んできた。


 今度は、前より少し長く起きていられた。


 暗闇の中に、光の形がある。


 ぼんやりとした人影も見える。


 それらが自分の前を通り過ぎていく。


 何かを話している。


 まだ意味までは分からない。


 だが、それが声であることだけは分かった。


 そしてまた、眠った。


          *


 何度目だったのか。


 石像の中の意識には、もう数えることができなかった。


 ただ、一つだけ法則があることには気づき始めていた。


 夜。


 空に丸い光が浮かぶ。


 その時、人間たちが城のどこかで何かをする。


 すると、大きな力が建物の中へ広がり、自分の中にも流れ込んでくる。


 そのたびに意識が戻る。


 そして、そのたびに少しずつ世界がはっきりしていく。


「……気味の悪い像だな」


「王のコレクションだ。触るなよ」


 ある日、通り過ぎた二人の兵士がそう話した。


 石像の中の意識は、その言葉を初めて理解した。


 気味の悪い像。


 王。


 コレクション。


 言葉の意味が分かる。


 それに気づいた瞬間、長く曇っていた記憶の奥で何かが揺れた。


 ここは、人間の城だ。


 そう理解するまでに、さらに何度か同じ夜が巡った。


 人間たちは、この場所を王城と呼んでいる。


 自分はその廊下の一角に置かれている。


 誰かが所有している。


 飾られている。


 まるで、ただの石像のように。


 その事実を理解した時、石像の中の意識は初めて、自分の身体へ注意を向けた。


 動かない。


 腕も。


 脚も。


 首も。


 何一つ動かせない。


 それでも、ある夜。


 ほんのわずかに。


 視界が横へずれた。


 石像の中の意識は、その感覚に驚いた。


 眼球が動いた。


 ほんの少しだけ。


 次の満月では、もう少し動いた。


 さらに次の満月には、指先に感覚が戻った。


 力を込める。


 動かない。


 もう一度、力を込める。


 石のように固まった指が、ほんのわずかに曲がった。


 それだけのことに、どれほどの時間を要したのか分からない。


 だが、確実に戻っている。


 目。


 指。


 手。


 首。


 肩。


 一度にすべてが戻ることはない。


 人間たちが満月の夜に行う、あの儀式。


 その時に流れ込んでくる力が、自分の意識と身体を少しずつ目覚めさせていた。


 そして身体とともに、記憶も戻り始めた。


          *


 暗い場所。


 冷たい空気。


 長く続く石の壁。


 自分はそこに座っていた。


 いや。


 座らされていた。


 身体は動かない。


 胸には、一本の剣が深く突き刺さっている。


 剣。


 その記憶が戻った瞬間、石像の中の意識は理解した。


 あれだ。


 あの剣が、自分を縛っていた。


 身体を変化させないまま固定し、長い眠りへ落とし込んでいた。


 自分は最初から石だったわけではない。


 何者かによって封じられ、石のような状態へ変えられたのだ。


 その記憶に続いて、別の光景が蘇る。


 暗いダンジョン。


 複数の足音。


 人間たちの声。


「石像に剣が刺さってるぞ」


「抜けそうか?」


 意識はあった。


 今よりはるかに弱く、夢の中にいるような状態だったが、それでも人間たちの存在は分かっていた。


 冒険者の一人が自分へ近づき、胸に刺さった剣の柄を握る。


 止めろ。


 そう思った。


 だが、声は出ない。


 身体も動かない。


「いけそうだな」


 両手で柄が握られる。


「やってみる」


 剣が動いた。


 長いあいだ身体の奥にあったものが、少しずつ引き抜かれていく。


 そして――


「抜けたぞ!」


 歓声が上がった。


 人間たちは笑っていた。


 見つけた宝を手に入れた。


 ただ、それだけの顔だった。


 石像の中に残された意識だけが、その意味を理解していた。


 人間は、自ら封印を外した。


 だが、剣が抜かれても身体は動かなかった。


 何年も、何十年も、あるいはそれ以上。


 長いあいだ固定されていた身体は、剣を抜いただけで元へ戻るほど簡単なものではなかった。


 それが、人間たちにとって幸運だったのか、不幸だったのか。


 当時の彼らには知る由もない。


「こいつも珍しいな」


「持って帰れるか?」


「縄かけりゃ何とかなるだろ」


 今度は自分の身体へ縄が掛けられた。


 台座から降ろされる。


 荷車へ載せられる。


 何年ぶりかも分からない外の光が、石の瞼越しに差し込んだ。


 空。


 雲。


 人間の町。


 どれも、遠い記憶の中にあるものとは違っていた。


 時代が変わっている。


 それだけは分かった。


          *


「古代ダンジョンから発見された一点物でございます」


 商人がそう言っていた。


 石像の身体は、店の奥へ並べられていた。


 人間たちは自分を見上げ、値段を尋ね、顔を近づけ、感心したようにうなずいていく。


「見事な細工だ」


「魔族を模したものか?」


「かなり古い物らしいぞ」


 違う。


 細工ではない。


 模したものでもない。


 だが、その頃の自分には何もできなかった。


 声も出せない。


 動くこともできない。


 ただ見ているしかない。


 やがて商人の店から別の場所へ運ばれ、また別の人間へ渡った。


 広い屋敷。


 豪華な部屋。


 珍しい物を集める人間たち。


 そして最後に辿り着いたのが、王城だった。


「これは陛下がお気に召す」


「古代ダンジョンから出た物なら、価値もあるだろう」


 そうして自分は、王城の廊下に置かれた。


 美術品として。


          *


 満月が巡るたび、意識はさらに明瞭になった。


 王城に置かれているだけで、多くのものが見えた。


 王。


 兵士。


 魔術師。


 役人。


 貴族。


 城の中を出入りする者たち。


 人間たちは石像の前で警戒することもなく話す。


 誰が偉いのか。


 どの部隊がどこへ向かうのか。


 どの国から使者が来たのか。


 王が何を望んでいるのか。


 何を恐れているのか。


 何も聞こうとしていないのに、人間たちの方から教えてくれる。


 ある満月の夜には、いつもより大きな力が流れ込んできた。


 その後、十代ほどに見える少年少女たちが兵士に連れられ、石像の前を通り過ぎていった。


 服装が違う。


 髪型も違う。


 何より、周囲の人間たちを見る目が違った。


 この世界のことを何も知らない者の目だ。


 次の満月にも、別の若者たちが通った。


 その次にも。


 石像の中の意識は理解した。


 人間たちは、どこか別の世界から人間を呼び寄せている。


 しかも若い者ばかりを。


 また子どもか。


 声にはならない言葉が、意識の中に浮かんだ。


 人間たちは、自分が見ていることを知らない。


 自分が聞いていることも知らない。


 だから隠そうともしない。


 石像の中の存在は、ただ観察を続けた。


 見ていれば分かる。


 人間は、自らすべてを見せる。


          *


 ある満月の夜。


 いつものように城の奥で儀式が始まった。


 強い力が広がってくる。


 壁を越え、廊下を抜け、石の身体へ染み込んでくる。


 今度は、それがはっきりと分かった。


 力が流れ込む。


 意識が澄む。


 身体の奥に残っていた硬さが、少しだけほどけていく。


 指を動かす。


 動いた。


 手首も、わずかに動く。


 首にも力が戻ってきている。


 まだ完全ではない。


 立ち上がることもできない。


 だが、確実に近づいている。


 満月の夜。


 人間たちの儀式。


 そこから溢れ出す力。


 それが自分を目覚めさせている。


 石像の中の存在は、ようやくその法則を理解した。


 ならば、焦る必要はない。


 満月はまた来る。


 人間たちはまた儀式を行う。


 そして、そのたびに自分は戻っていく。


          *


 同じ頃。


 王城から遠く離れた場所にも、一体の石像があった。


 地下へ作られた薄暗い部屋。


 無数の蝋燭。


 黒い布で覆われた壁。


 その中央に置かれた石像の前で、黒いローブをまとった人間たちが跪いていた。


「偉大なる御方よ」


「いつの日か、御身がお戻りになる時まで」


「我らは御身の復活を待ち続けます」


 頭を垂れ、祈りを捧げる。


 彼らは石像が何者なのか、本当には知らない。


 何を望んでいたのか。


 何をしてきたのか。


 何一つ知りもしない。


 ただ、自分たちが作り上げた物語を信じ、石像を崇めている。


 その中で、石像の意識だけが静かに人間たちを見下ろしていた。


 愚かな。


 私が何者かも知らずに。


          *


 王城。


 夜警の兵士が一人、長い廊下を歩いていた。


 足音が近づいてくる。


 石像は動かなかった。


 兵士が横を通り過ぎる。


 その背中を追うように、眼球だけがほんのわずかに動いた。


 兵士が足を止める。


「……?」


 振り返る。


 石像は、すでに元の位置を見ていた。


 動かない。


 冷たい石の像が、ただそこに座っている。


 兵士はしばらくこちらを見つめていたが、やがて首を振った。


「気のせいか……」


 足音が遠ざかっていく。


 廊下から人の気配が消えた。


 その時、石像の指先がわずかに曲がった。


 もう動ける。


 少しだけなら。


 それでも、石像は立ち上がらなかった。


 今ここで動けば、人間たちは警戒するだろう。


 兵を集める。


 魔術師を呼ぶ。


 自分を壊そうとするかもしれない。


 そんな必要はない。


 時間はある。


 満月はまた来る。


 あの儀式も、また行われる。


 完全に戻るまで、自分がただの石像ではないと知らせる理由などなかった。


 まだだ。


 完全に戻るまで、石のままでいい。


 石像は再び、何一つ動かない古代の遺物へ戻った。


 そして王城の廊下で、今日も人間たちを見続ける。


 王を。


 兵士を。


 魔術師を。


 異なる世界から呼び出される若者たちを。


 何も知らず、自分の前を通り過ぎていく者たちを。


 見ていればいい。


 すべてを。


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