第二十一話 ナハルの戦い その三
母なる魔王リリスの復活は、死霊侯デロスを永い眠りから目覚めさせた。
彼が目覚めた場所は、現在の人間たちが「デへロスのダンジョン」と呼んでいる巨大迷宮の最深部だった。
巨大な石造りの城を中心に、果ての見えない回廊が幾重にも伸び、その壁際には無数の骸骨兵が並んでいる。
だが、それはもともとダンジョンなどではなかった。
かつてそこは、デロスが治めていた城だった。
長い年月の中で城の主についての記憶は失われ、「デロスの城」という名も少しずつ形を変えた。やがて人間たちの間では、そこに古くから存在する巨大迷宮そのものを指して「デへロスのダンジョン」と呼ぶようになっていた。
その名の由来を知る者は、今ではほとんどいない。
デロス自身にも、自分が眠りについてからどれほどの時が流れたのか分からなかった。
百年なのか、千年なのか、それ以上なのか。
ただ、目覚めた彼が最初に知ったのは、かつて存在していた魔族の国々が、この世界からほとんど姿を消しているという事実だった。
代わりに各地へ国を築き、自分たちこそがこの世界の主であるかのように振る舞っているのは人間だった。
「こざかしい」
玉座に腰掛けたデロスが吐き捨てる。
その前には、何体もの骸骨兵が頭を垂れていた。
デロスにとって、人間とは魔族の支配下に置かれる存在だった。
それが今では王を名乗り、土地を分け合い、あろうことか自分の居城へ冒険者まで送り込んでくる。
眠りから目覚めたばかりの彼には、それが到底受け入れられなかった。
*
デロスが目覚めてから、しばらく経った頃。
魔王リリスの使者が、彼のもとを訪れた。
黒い外套で全身を包み、顔を深く隠した使者は、玉座の前で静かに膝をついた。
「死霊侯デロス様」
「母なる魔王リリス様より、命をお預かりしております」
デロスは玉座へ深く腰掛けたまま、使者を見下ろした。
「リリス様が復活なされたというのか」
「はい」
リリスは再びこの世界へ姿を現し、魔族たちを集めて人間の国々への侵攻を始めているという。
だが、その戦いはデロスが想像したほど一方的なものにはなっていなかった。
「現在、各地で領地を広げておられます」
使者は床へ大きな地図を広げた。
「しかし、今の人間どもが扱う武器と魔法は、かつてより強力です」
「人間が?」
デロスが眉をひそめる。
「我ら魔族に抗うほどの力を持ったというのか」
「長い年月が流れております」
「ふん」
それでも、デロスには信じがたい話だった。
人間が多少力をつけたとしても、本来の魔族を脅かすほどになるとは思えない。
もし今の戦況が思わしくないのだとすれば、復活したばかりのリリスが、まだ本来の力を取り戻していないからだろう。
「リリス様の力も、まだ回復の途中ということか」
「その影響もあるかと」
デロスは地図へ目を落とした。
そこで初めて、奇妙なものに気づいた。
「これは……」
地図の南側を指す。
「この大陸は何だ?」
海を隔てた先に、見たことも聞いたこともない巨大な陸地が描かれている。
「人間どもが、南の大陸と呼んでいる土地です」
デロスはしばらく地図を見つめた。
「私の知らぬ大陸から、人間どもの武器が運ばれているというのか」
「そのとおりです」
南の大陸では、北にはない技術を用いた武器や防具が大量に作られている。
それらは海を渡り、貿易都市ナハルを経由して北の国々へ運び込まれていた。
「南から運ばれる武器の流れを断つことが、現在の魔王軍にとって重要な課題となっております」
使者が地図上の一都市を指した。
「その要となるのが、貿易都市ナハルです」
ナハルを押さえれば、南から北へ運ばれる武器や防具の多くを止めることができる。
魔王軍にとって、それだけ価値のある都市だった。
「このナハル制圧の任を」
使者はさらに深く頭を下げた。
「死霊侯デロス様へ、お任せしたいとの仰せです」
「なるほど」
デロスはゆっくりと玉座から立ち上がった。
「栄誉ある役目が、この私に巡ってきたというわけか」
眠りから目覚めた魔族は、自分だけではないはずだ。
これから各地で、かつての魔族たちも少しずつ目覚めていくだろう。
ならば、その中で誰よりも早く功績を立てておくに越したことはない。
「ナハルを制圧し」
デロスは地図に記された港町へ指を置いた。
「リリス様へ、この死霊侯デロスの力を示せばよい」
作戦は単純だった。
陸側からスケルトンナイトを送り込み、ナハルの戦力を分断する。
同時に、リリスへ忠誠を誓った人間の海賊たちが海側から港を封鎖し、停泊している船を逃がさない。
最後に船を焼き払い、南からの武器の流れを断つ。
「我が居城を守ってきたスケルトンナイトの軍勢ならば、人間の都市など容易に崩せよう」
デロスは玉座の間へ並ぶ骸骨兵を見渡した。
長い眠りの間に、人間がどれほど力をつけたというのか。
確かめるには、ちょうどいい。
*
実際、奇襲そのものは成功していた。
街へ侵入したスケルトンナイトたちは、ナハルの防衛側を分断しながら港へ進んだ。
突然の襲撃を受けた人々は混乱し、組織だった反撃を始めるまでに時間がかかった。
さらにデロスは、突然変異によって巨大化したメガスライムまで投入していた。
その巨体を普通の武器だけで倒すのは難しい。魔法を集中させるにしても、多くの術者と時間が必要になる。
奇襲を受けた直後の人間たちに、それだけの余裕があるとは思えなかった。
「ふん」
デロスは街から少し離れた高台に立ち、遠くナハルの港を眺めていた。
「たわいのない」
あとは港の船を焼き払えばいい。
「後詰めのスケルトンメイジどもを港へ向かわせろ」
近くに控えていた配下へ命じる。
「船を一隻残らず焼き払え」
「はっ」
久しぶりに会うことになるリリスへ、この勝利をどのように報告するか。
そんなことまで考え始めた、その時だった。
後方がにわかに騒がしくなる。
「何を慌てている」
一体のスケルトンナイトが、傷だらけの鎧を引きずるように駆け込んできた。
「デ、デロス様!」
「何だ」
「ご報告いたします!」
骸骨兵は地面へ膝をついた。
「スケルトンナイト部隊は、ほぼ全滅!」
デロスの表情が止まった。
「……何?」
「さらに、メガスライムも……」
報告する兵士が言葉を詰まらせる。
「人間どもに倒されました!」
デロスはしばらく何も言わなかった。
「スケルトンナイトが、ほぼ全滅?」
「はい……」
「メガスライムまで倒されたというのか」
「そのとおりです」
理解が追いつかなかった。
海と陸から同時に攻め、港を封鎖し、人間側が体勢を整える前に巨大な魔物を投入する。
作戦として、大きな間違いがあったとは思えない。
「それほど多くの戦力が、ナハルに集まっていたということか」
それならば説明はつく。
だが、どちらにしても予定が狂ったことに変わりはない。
「ならば」
デロスはゆっくりと高台の端へ歩み出た。
「この私が、自ら出る」
「デロス様が?」
「人間どもには、少々期待していた以上の力があったらしい」
長い黒衣を翻す。
その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
「まあ、無理だとは思うが」
遠くに見えるナハルの灯りへ目を向ける。
「余興くらいには、楽しませてくれることを期待するとしよう」
死霊侯デロスは、自ら戦場へ向かった。
*
その頃、ナハルの港では巨大スライムに取り込まれた者たちの救助が続いていた。
負傷者は次々と安全な場所へ運ばれ、ミルキーをはじめ、回復魔法を使える者たちが治療にあたっている。
残っていたスケルトンナイトも数を減らし、衛兵たちは街中に残った魔物の掃討へ移り始めていた。
そんな中、一人の大柄な衛兵がフミタロウたちへ近づいてきた。
「あんたら」
鎧は傷だらけで、大きな盾にも剣や爪でつけられた跡が無数に残っている。
「あまり見ない顔だが、なかなかやるじゃねえか」
男は豪快に笑った。
「助かったよ」
「そっちも、だいぶ大変そうやな」
「俺はナハル衛兵隊長のシザースだ」
男は自分の胸を拳で叩いた。
「あのスライムは本当に危なかった。あんたらがいなけりゃ、どうなってたか分からん」
「俺も一回、中に入ってもうたけどな」
「入った?」
「食われた」
シザースが一瞬黙る。
「……よく生きてたな」
「俺もそう思う」
フミタロウはまだ粘液の残る袖を見て顔をしかめた。
「俺はフミタロウ。こっちはサンキチくんとミルキーちゃん、それからクリフトスさん」
「召喚者か?」
「一応」
「一応って何ですか」
サンキチが横から口を挟む。
「いや、まだ召喚されてそんな経ってへんから」
「それであの化け物を倒したのか?」
「だいたい事故みたいなもんやったけど」
シザースは笑いながら右手を差し出した。
「それでも倒したんなら大したもんだ。あんたらの働きは、俺からもしっかり報告しておく」
「どうも」
フミタロウもその手を握り返した。
シザースは街の奥へ視線を向ける。
「俺たちは残っている敵を片づけてくる。あんたらは少し休んでてくれ」
「分かりました」
ミルキーが答えた。
「私は、ここで負傷された方たちを治療しています」
「助かる」
シザースがうなずいた。
「必要なことがあれば、すぐ呼ぶ」
その時だった。
遠くから、馬蹄の音が聞こえてきた。
最初は小さかった音が、次第にはっきりと近づいてくる。
ばらばらではない。
何頭もの馬が、一定の速度で石畳を打つ音だった。
「何や?」
フミタロウたちが大通りへ目を向ける。
騎馬の一団が、港へ向かって進んできていた。
先頭を行くのは、白銀の鎧を身につけた若い騎士だった。
月明かりと街の炎を受け、その鎧が冷たい光を返している。
後ろには統一された装備の騎士たちが続き、赤地に金糸で翼を広げたグリフィンを描いた旗が夜風にはためいていた。
傷と泥にまみれた港の中で、その一団だけが異様なほど整然として見えた。
「格好ええな」
フミタロウが思わず呟く。
騎士たちは港へ入ると、乱れることなく隊列を止めた。
先頭の若い騎士が周囲を見渡す。
白銀の鎧。
落ち着いた顔立ち。
その姿を見ていたクリフトスの表情がわずかに変わった。
「魔導騎士団……」
若い騎士が、よく通る声を響かせる。
「我らは魔導騎士団、ユリウス隊である」
シザースが前へ進み出た。
「俺がナハル衛兵隊長のシザースだ」
先ほどまでフミタロウと笑っていた時とは違い、背筋を伸ばして騎士へ向き直る。
ユリウスは馬上からシザースを見ると、簡潔にうなずいた。
「魔王討伐令に基づき、これよりナハルの衛兵部隊は我らの指揮下へ入る」
「了解した!」
「残敵掃討を優先する。衛兵隊は港の警戒と負傷者の保護を継続せよ。街中の掃討はこちらでも部隊を出す」
「分かった!」
シザースはすぐに部下へ指示を飛ばし始めた。
突然現れた騎士が、そのまま現地の兵へ命令を出す。
事情を知らないフミタロウには、少し奇妙な光景だった。
「魔導騎士団?」
隣にいるサンキチへ、小声で尋ねる。
「何や、それ」
「僕に聞かれても分かりませんよ」
ユリウス隊は、疲れ切った衛兵や船乗りたちとは対照的だった。
装備は整い、隊列にも乱れがない。
いかにも精鋭という姿である。
フミタロウは、しばらくその様子を眺めた。
「今頃来たのに、偉そうやな」
「聞こえますよ」
「ほんまのことやろ」
「フミタロウさん」
ミルキーが小さな声で注意する。
「悪い悪い」
フミタロウは口を閉じた




