第十一話 おっさん、特訓開始
「武闘家ってのはな、魔物と戦うには悪くない職業だ」
朝の訓練場で、バサルスは片足を前へ伸ばし、腰を落としながらゆっくりと上体を倒していた。
分厚い筋肉に覆われた体からは想像しにくいほど、その動きは柔らかい。
どうやら準備運動らしい。
フミタロウも隣で見よう見まねに足を伸ばしてみたが、指先はつま先にまったく届かなかった。
「何でか分かるか?」
体を起こしたバサルスが尋ねる。
「何でって?」
「武闘家が魔物と戦うのに向いてる理由だ」
王国専属の魔物狩りとして名を馳せた、タイタン狩りのバサルス。
今では城下町の片隅で武器屋を営んでいるが、こうして訓練場に立つ姿を見ると、引退した老人という言葉はあまり似合わない。
左腕は手首から先を失っている。それでも肩から前腕までは健在で、鍛えられた体には長年戦場を生き抜いてきた者らしい厚みがあった。
フミタロウは少し考えた。
「……分からん」
「少しは考えろ」
「魔物とまともに戦ったことないし」
「昨日、考える頭くらいは付いてると思ったんだがな」
「期待しすぎや」
後ろで見学していたサンキチが、小さな声で言った。
「考えるの、早々に諦めましたね」
「分からんもんは分からん」
バサルスは鼻を鳴らした。
「理由は速さだ」
「速さ?」
「亜人型を除けば、魔物の多くは人間より素早い」
訓練場の端には、いくつかの魔物を描いた板が並べられている。
四足で走る獣型、翼を持つ飛行型、長い尾や何本もの脚を持つ異形。
「魔物は、自分の体そのものを武器にしてくる。走って、跳んで、牙や爪で襲ってくるんだ」
重い鎧を着た騎士が大盾を構えれば、攻撃を受け止めることはできる。
だが、素早く動く魔物へ剣を当てるのは簡単ではない。
「守るだけなら重装備でも構わん。だが、仕留めるとなれば別だ」
バサルスが右手の人差し指を立てた。
「当てられなきゃ、どれだけ強い剣を持ってても意味はねえ」
「なるほど」
「武闘家は、速さと身のこなしに優れてる。その代わり、防御は弱い」
「そこは知ってる」
「お前は特にな」
「一言多いねん」
バサルスは無視して続けた。
「攻撃をまともに受けりゃ、鎧を着た戦士より深い傷を負う。だから敵の動きについていき、懐へ入って攻撃を当てたら、すぐ離れる」
そう言って、フミタロウの左腕につけた防具を右手で軽く叩いた。
「この装備もそのためだ。攻撃を止めようとするな。急所から逸らして、動き続けろ」
フミタロウは腕防具を見る。
要するに、受け止めて耐える職業ではない。
避けて、入って、殴って、離れる。
言葉だけなら、少し格好いい。
問題は、その動きを四十歳の自分が実際にできるのかということだった。
「というわけで」
バサルスが訓練場の地面を指した。
二本の白い線が、まっすぐ三十メートルほど先まで延びている。線と線の間は、およそ二メートル。
「この間から出ずに、俺のところまで来い」
バサルスは線の終点まで歩いていった。
「それだけ?」
フミタロウが尋ねると、バサルスは右手を開いた。
指の間に、刃を潰した金属製の投擲具が何本か挟まれている。
「……それ投げるん?」
「そうだ」
「危なくない?」
「刃は潰してある」
「当たったら?」
「痛い」
「説明が簡潔すぎるやろ」
バサルスはすでに投擲具を構えている。
「いつでもいいぞ。ここまで来い」
完全にやる気だった。
誰がこの老人の戦闘用のスイッチを入れたのか。
おそらくクリフトスである。
「しゃあないな」
フミタロウは腰を落とした。
「行くで!」
地面を蹴り、一気に前へ出る。
その瞬間、バサルスの右腕が動いた。
金属の投擲具が顔へ向かって飛んでくる。
フミタロウは横へ大きく身をかわした。
二本目。
腰を落として避ける。
三本目には前転。
四本目を跳んでかわす。
「おお、いける!」
「無駄が多い!」
バサルスの怒鳴り声が飛んだ。
「何が――」
着地した瞬間、脇腹へ金属の棒が直撃した。
「ぐあっ!」
体を折ったところへ、さらに一本。
肩、太腿、胸と次々に命中する。
フミタロウは勢いを失い、そのまま地面を転がった。
「痛ってえ……」
刃はないし、刺さりもしない。
だからといって、硬い金属を勢いよく投げつけられて痛くないわけがなかった。
「大丈夫ですか!」
ミルキーが駆け寄ろうとする。
「来るな」
バサルスが止めた。
「まだ終わってねえ」
「いや、今ので一回終わったやろ」
「立て」
「ちょっと休ませて」
「痛いなら、次は当たるな」
「無茶苦茶言うなあ!」
バサルスはもう次の投擲具を右手へ挟んでいた。
「さっさと立て。もう一度だ」
*
一日が終わる頃には、フミタロウの体は青あざだらけになっていた。
骨折も大きな傷もない。それでも体のあちこちが腫れ、歩くだけで痛む。
何十回やらされたのかは途中から数えるのをやめた。
それでも最後の数回だけは、どうにか二本の線を外れずにバサルスのところまでたどり着けるようになっていた。
「今日はここまでだ」
バサルスが投擲具を革袋へ戻す。
「明日も朝からやる」
「明日も?」
「当然だ」
「今日一日で、十分学んだ気がするけど」
「気のせいだ」
バサルスはミルキーへ顔を向けた。
「嬢ちゃん。悪いが、このへたれ武闘家を治してやってくれ」
「はい」
「へたれは余計やろ」
言い返してみたものの、今日だけで何十回も地面を転がされたあとでは説得力がない。
ミルキーがフミタロウの前へ膝をつき、両手を胸元へかざした。
淡い光が広がるにつれ、腫れと痛みが少しずつ引いていく。
「ごめんなさい。見ていて痛そうでした」
「いや、ミルキーちゃんが謝る必要ないで」
「でも……」
「実際、痛かったけど」
フミタロウは横目でバサルスを見る。
「かなり」
「明日からは、もう少し当たらなくなる」
バサルスは平然と言った。
「上手くなればな」
「腹立つ言い方やな」
だが、一日中投げつけられて分かったこともあった。
最初のフミタロウは、一つの攻撃を避けるために大きく跳び、派手に転がり、全身を使って逃げていた。
確かに最初の一撃は避けられる。
しかし、そのぶん次の動きへ移るまで時間がかかる。
バサルスはフミタロウがどこへ着地し、どちらへ逃げるのかを先に読み、その場所へ二投目、三投目を放っていた。
大きく動けば動くほど、次にできることが減るのだ。
そこで最後の数回は、必要な分だけ動くよう意識した。
頭を少し傾ける。肩を引く。半歩だけ横へずれる。完全に避けられない時だけ、腕防具で軌道を外へ逸らす。
そうすれば体勢を崩さず、すぐ次の一歩へ移れる。
「……やっぱ、すごいんやな」
フミタロウが呟く。
「何がですか?」
サンキチが尋ねた。
「じいさん」
「誰がじいさんだ」
「聞こえてたんかい」
片手で投げているにもかかわらず、バサルスはフミタロウの逃げ道を完全に支配していた。
タイタン狩りという名は、ただの昔の評判ではないらしい。
*
宿へ戻ると、フミタロウは食堂の卓へ突っ伏した。
「フーさん」
女将が酒瓶を持って近づいてくる。
「今日は飲まないのかい?」
「今日はええわ」
「珍しいねえ」
「飯食って寝る」
酒を飲む元気すら残っていなかった。
女将はフミタロウの腫れた頬や腕を見ると、納得したように頷いた。
「ああ。バサルス様に稽古をつけてもらったのか」
「知ってるん?」
「そりゃ知ってるよ。昔は王国中で知られた魔物狩りだったからね」
「タイタン狩りやろ」
「そうそう」
女将は、今度は感心したようにフミタロウを見る。
「でも、バサルス様が直接人を鍛えるなんて、ここ何年も聞いてないねえ」
「そうなん?」
「よほど気に入られたんじゃないかい?」
「絶対違うと思う」
フミタロウはクリフトスを見る。
「クリフトスさんが頼んだから、特別に受けてくれたん?」
「正確には、私ではありません」
クリフトスは紅茶のカップを卓へ置いた。
「ミルムのクラウド様との縁でしょう」
「知り合いなんですか?」
サンキチが尋ねる。
「若い頃、一緒に魔物を討伐したことがあるそうです」
「クラウドさん、戦えたんや」
「現在も聖堂の守り人です。治癒術や結界術については、今でも高い技量をお持ちですよ」
「へえ」
フミタロウは少し意外だった。
魚の燻製に夢中になっていた穏やかな老人と、タイタン狩りのバサルスが並んで魔物と戦っていた姿は、すぐには想像できない。
「まあ、実際にじいさんから気に入られてんのはミルキーちゃんやけどな」
「そんなことありませんよ」
ミルキーがすぐに否定した。
「皆さんがいなければ、私は何もできません」
「ええ子やなあ」
フミタロウはわざと爽やかな笑顔を作り、親指を立てた。
「明日もミルキーちゃんが見てくれてると思ったら、頑張れるわ」
「明日から、ミルキー様とサンキチさんは座学です」
クリフトスが淡々と言った。
「え?」
「魔法理論と魔力制御を学んでいただきます」
「俺は?」
「バサルス様と二人です」
「なんですと?」
フミタロウは顔を上げた。
「あのじいさんと一日中、二人きり?」
「はい」
「勘弁してくれよ」
今日ですら、ミルキーたちが見ているから何とか耐えられた部分がある。
明日からは観客すらいない。
「それ、もう特訓いうよりスポ根やん」
「スポコン?」
クリフトスが首を傾げる。
「気にせんといて」
フミタロウは再び卓へ突っ伏した。
*
「今日は昨日と同じだ」
翌朝。
訓練場に着いたフミタロウへ、バサルスは昨日と同じ二本の白線を指した。
「ただし、条件を一つ増やす」
「なんや?」
フミタロウの両手は、背中側で縄によって縛られていた。
「いやいやいや」
肩越しに自分の手を見ようとする。
「これ無理やろ」
「腕を使えば、体の軸が崩れた時に誤魔化せる」
「誤魔化させてくれよ」
「今日は足と体幹だけで避けろ」
「転んだら手ぇつけへんやん」
「転ぶな」
「説明が昨日より雑になってるで」
バサルスの右手には、すでに投擲具が並んでいた。
「いつでも来い」
「絶対楽しんでるやろ、このじいさん」
*
半日後。
フミタロウは地面に倒れていた。
昨日作られた傷はミルキーの治癒魔法できれいに消えていたが、その代わり今日一日で、それ以上の傷が新しく増えている。
両腕が使えないため、転倒すれば顔や肩から地面へ落ちる。
起き上がることすら一苦労だった。
「おい」
バサルスが歩いてくる。
「生きてるか?」
「一応……」
「俺は治癒魔法を使えん」
腰袋から小瓶を取り出した。
「ポーションならあるが、いるか?」
フミタロウは顔を上げた。
「いる」
どうにか体を起こし、差し出された瓶へ口を近づける。
その瞬間、バサルスが右手を持ち上げた。
ポーションが遠ざかった。
「何してんねん」
「一本、五十ゴールドだ」
「は?」
「五十ゴールド」
「この状態にしたん、じいさんやろ!」
「稽古代はもらってねえ」
「汚いぞ!」
「いらねえなら、しまう」
「待て!」
高い。
明らかに高い。
しかし今のフミタロウには、ものすごく必要だった。
需要と供給という言葉が、ここまで腹立たしく感じたことはない。
「……分かった。あとで払う」
「毎度あり」
バサルスは嬉しそうに瓶を渡した。
「いつか絶対、一発くらい殴ったるからな」
「そのために鍛えてんだろ」
「そういう意味ちゃうわ」
ポーションのおかげか、それとも腹立たしさが力になったのか。
午後には、フミタロウは両手を縛られたまま終点までたどり着けるようになった。
「よし」
「終わり?」
「次」
バサルスが地面の線を引き直す。
二本の間隔が半分になった。
「一メートルだ」
「今日の条件、一個だけやなかったん?」
「午前の条件は終わった」
「詐欺師か」
それでも夕方までには、フミタロウは一メートル幅の線も何とか突破した。
*
日が沈み始めた頃、バサルスは訓練を終え、草地へ腰を下ろした。
フミタロウも少し離れたところへ座る。
「まあまあ、やるじゃねえか」
「褒めることもあるんやな」
「少しは物になるかもしれん」
「かなりきついけどな」
「楽に強くなれるなら、誰も苦労せん」
「まあ、そうなんやろうけど」
フミタロウは自分の両手を見る。
「俺しか近接型おらんから、やるしかないんよ」
ミルキーは回復魔法と風魔法。
サンキチは火を中心とした魔法。
クリフトスは魔法と音楽による支援。
敵が近づいてきた時、一番前に立つのは自分になる。
「なら、まだまだ鍛えねえとな」
「ああ」
珍しく、それ以上の軽口は出なかった。
二人はしばらく黙って夕日を眺めた。
城壁の向こうへ沈んでいく光が、訓練場の草を赤く染めている。
先に口を開いたのはバサルスだった。
「俺は、大切なものを守れなかった」
フミタロウは横顔を見る。
いつもの意地の悪い表情はなかった。
「お前は、そうなるなよ」
「それ、どういう――」
問いかける前に、バサルスは立ち上がった。
「明日からは攻撃訓練だ」
それだけ言い残し、町へ向かって歩いていく。
フミタロウは追わなかった。
聞いても、今は答えないだろう。
ただ、その一言だけは妙に耳へ残った。
*
翌日。
訓練場の中央には、見慣れないものが立っていた。
高さは人間より一回り大きい。
青く半透明の人型をしているが、表面は水かゼリーのように柔らかく揺れ、体を動かすたび全身が波打っている。
顔にあるのは、丸い目と小さな口だけだった。
「じいさん」
フミタロウはそれを見上げる。
「何これ?」
「俺が考案した、打撃訓練用スーパーゴーレムだ」
バサルスは胸を張った。
「ポヨンくん」
青い巨体が、その場で小さく跳ねる。
ぽよん。
「見たまんまやん」
「覚えやすいだろ」
「名前のセンスないな」
「うるせえ」
バサルスはポヨンくんの腹を右手で軽く叩いた。
青い表面が波のように揺れ、すぐ元へ戻る。
「こいつに攻撃力はない」
「ほな安全なん?」
「向こうからはな」
ポヨンくんは何もせず、ただ立っている。
「だが、打撃には非常に強い」
拳でも蹴りでも体当たりでも、受けた衝撃を柔らかな全身へ逃がしてしまうらしい。
「こいつに打撃でまともな損傷を与えられなきゃ、武闘家として先はねえ」
「いきなりハードル高ない?」
「やってみろ」
「じいさんは?」
「用事がある」
バサルスはさっさと歩き始めた。
「夕方には戻る」
「教えへんの?」
「考えろ」
それだけ言うと、本当に訓練場から出ていった。
「またそれか」
フミタロウはポヨンくんへ向き直る。
丸い目と目が合った。
「まあ、やってみるか」
腰を落とす。
「とうっ!」
腹へ拳を打ち込んだ。
ぽよん。
拳が柔らかな体へ深く沈み、そのまま押し返される。
「あちょっ!」
今度は蹴る。
ぽよん。
「うおおおお!」
連続して拳を叩き込む。
ぽよん、ぽよん、ぽよん。
「全然効かん!」
少し距離を取り、助走をつける。
「これならどうや!」
全力の飛び蹴り。
ポヨンくんの体が大きく後ろへ飛んだ。
「おっ!」
地面へ落ちる。
ぽよん。
さらに弾む。
ぽよん、ぽよん。
何事もなかったように立ち上がった。
「何やねん、これ」
傷一つついていない。
拳の速度を変えてみる。
当てる場所も変える。
下から打つ。横から打つ。踏み込んで殴る。
何をしても、衝撃は柔らかな体の中へ吸収されてしまう。
「……分からん」
昼を過ぎる頃には、完全に疲れていた。
フミタロウはポヨンくんの腹へ両手を当てる。
もみもみ。
「ほんのり冷たいな」
柔らかい。
適度な弾力もある。
手触りは、かなりいい。
「これ、抱き枕にしたら気持ちよさそうやな」
ポヨンくんの腕を抱えてみる。
もちもちしていた。
「……いやいや」
フミタロウは我に返った。
「攻略法を考えな」
もう一度、腹を押してみる。
もに。
「欲しいな、これ」
*
夕方。
訓練場へ戻ってきたバサルスは、ポヨンくんの腹を揉んでいるフミタロウを見つけた。
「何してる」
「攻略法探してる」
「抱きついてるだけに見えるが」
「無理や。全然効かん」
「やっぱり駄目だったか」
「できると思ってた?」
「思ってねえ」
「ほな一日何しててん、俺」
バサルスは答えず、ポヨンくんの前へ立った。
「今日は終わりだ」
「攻略法教えてくれるん?」
「見てろ」
右拳を腰のあたりへ引く。
大きく構えたわけではない。
力を溜め込んでいるようにも見えなかった。
「ふっ」
短い呼吸とともに、拳がポヨンくんの腹へ打ち込まれた。
鈍い音が響く。
だが、フミタロウが殴った時とは違い、柔らかな表面はほとんど揺れなかった。
「え?」
次の瞬間。
ポヨンくんの内部で何かが弾けた。
青い体が内側から大きく膨れ上がり、一気に砕け散る。
「まじかよ」
透明な欠片が地面へ降り注いだ。
自分が一日中殴り続けても傷一つつかなかった相手を、バサルスは右拳一発で破壊した。
「何したん?」
「考えろ」
「またそれか」
「明日も同じだ」
バサルスは背を向けた。
地面に散った青い欠片は、少しずつ集まり始めている。
どうやらポヨンくんは再生するらしい。
フミタロウは自分の拳を見つめた。
速く殴るだけでは駄目だった。
力いっぱい押し込んでも、柔らかな体に吸収される。
バサルスの拳は、それとは違った。
表面を大きく揺らさず、その奥へ何かを通したように見えた。
何となく方向は分かる。
どうやればいいのかは、まったく分からない。
「ほんまに先長いな」
隣で再生を終えたポヨンくんが、小さく揺れた。
ぽよん。
結局、この日の成果は一つだけだった。
ポヨンくんの手触りは、非常によかった。




