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「千年も前の話ですね……」
「そうだな」
リュエルが言った言葉に、マティアスは、まるでイメージの世界からの続きであるかのように自然に、兄のように答えた。多分、それで、リュエルの意識もそっち側に持っていかれた。マティアスを兄、と呼ぶことに抵抗が無かった。
「兄様……。あの後、兄様によって取り出されて、術により生かされた二つの眼球となっても私は、干からびてもずっと見ていました。生きていた頃、兄様が私をずっと見てていてくれたように。……兄様はどこぞで拾った赤子の眼窩に、マグァの呪術……肉体同士を繋ぎあわす合成術を用いて、私を詰め込んだのですね」
「そうだな」
「だから私の目は遠目が利き、夜目が利き、暗闇ではほのかに光るようなのですね」
「ああ、呪のせいだ。弟子たちと同じに、意図してではないが強化されている。どんなに忌まれても、私はお前の目の色が好きだった」
リュエルは頷く。もう思い出して、知っていた。だから他のどの部分でもなく、目を選んだのだと。マティアスがラクィーズでよく身につけていたシャーン織の肩掛けも、リュエルの目に似た薄紫色だった。
「オロフ様の下へと弟子入りしたのは、均一化には記憶の処理も必要だったから……」
「そうだな。彼は天才だった。私が千年かけても生み出せなかった術をたったの百年足らずで生み出したのだからな。所詮、私の術の多くはマグァの叡智の借り物……」
マティアスが過去に見せていたオロフへの尊崇は偽りではなかった。本当に、そして今も、マティアスは同様の念を抱いているのに違いない。オロフの死に対してだろう、今更ながら深く頭を垂れた。
その間もリュエルは、現在から、徐々に時を遡って解くように、今見た景色までを辿っていく。それは記憶を確かにすると言う作業でもあった。
「兄様は名を変え姿を変え、時代をさすらった。ある時はカハ、ある時はピアトー、古い時代にはレヴェロと呼ばれたこともあった。そしていつしか、兄様のその腕の斑が、魔術の才の証として、レヴェロの斑と呼ばれて尊ばれるようにもなった」
「愚かな事だ。これはただの浮腫。アザですらない。術の大きさに対する代償を見誤り、贄では足りずに自らに降りかかった呪に深く侵された印だというのに」
今は呪術を使う者はいない。千年も前に廃れたのだ。レヴェロと名乗っていた八百年も前のマティアスが、それまで下火であった魔術を体系化したからだと言われている。あまり盛んでなかったのはきっと、個人の力で行使する魔術は、贄という外部のものを力に変える呪術に比べれば、効果の範囲も威力も小さいせいだ。
それでも呪術が廃れたのは、その大国であったマグァが滅んだことが、実際は真の理由なのかもしれない。マグァとともに多くの術と術士が失われた。だから誰もレヴェロの斑の意味をわからなかった。
マティアスの斑、浮腫が右腕を中心に右側に広がっているのはそのためだ。右が利き手だからだ。そこで呪と接する。
「兄様。私の最期の儀式の後、珍しく優しい言葉で、王が兄様を招いたのでしたね。双子の兄妹だから、と。最期の別れをさせよう、と。儀式の間は屍となりつつある可哀想な贄たちに囲まれながらも、王と私と兄様だけになった。王は兄様を信頼していたから、護衛を下がらせた。きっと兄様はそうなることを読んでいたのでしょう。王の腹に腕を貫通させた兄様にはためらいがなかった」
「ああ。マグァはそれで滅びの道を歩み始めた。王には百人も子供がいたからな。跡継ぎを巡って争いが起きた。なにより、地震で風が変わり、気候が変わった。敵国を滅ぼしはしたが、あれからマグァの大地は乾き始め、作物が育たなくなった。火山の噴煙で大地に陽が届かなくなった。ひどい飢饉や暴動で、ついに人も獣も大勢死んだ」
「……混乱に乗じて国を命からがら抜け出した兄様は、そして、マグァの呪術をご自分にも行使した」
リュエルは涙をうっすらと浮かべてマティアスを見つめる。
「兄様は、私の亡き骸……つまり死者と肉体を合成された……」
マティアスはゆっくりと瞼を伏せる。
「……私は恐ろしい……。死者と交われば、どんなに肉体が衰え、病もうとも、魂はその檻からでることはできない。いいえ、肉が削げ落ち、鳥についばまれ、頭蓋ひとつとなってもです」
マティアスの当時の気持ちは想像がついた。眼球を取り出し、エンラータを再び生み出す用意はしても、だからといって、その他の部分を捨て置くことができなかったのだろう。
当時の術はオロフの忘却術を伴わない。いわば、肉体のみの均一化だ。だからかえって悪い。
それは魂が帰るべき場所への地図を捨てる事。本来の法をわざわざ捻じ曲げ、自らを生きながら地獄に叩き落す事だ。
「死ぬわけにはいかなかった。この世界の生き物全てを、平らかにするまでは。最良の方法だった」
答えるマティアスの右腕を、リュエルはふと見た。幼い頃、オロフの庵で共に暮らしていた頃よりもアザ、いや浮腫が広がっている。涼しい顔をしているが、マティアスの肉体は悲鳴を上げているに違いない。生きながら腐敗し続けているのに違いない。リュエルはついに涙を零した。
「兄様、あなたは賢く優しく、曲がった事が大嫌いで、それにとても意思の固い方でした。その心が、千年もの時間を経ても、あの時の想いを揺るがせなかった。ですが、もうそれは捨ててください。兄様の理想は……」
リュエルはそこで言葉を切った。どんなに間違っていても、それは自分だけは言ってはいけない気がしたのだ。
だがそれを、マティアスが繋ぐ。
「それを捨てるということは、お前を捨てるということだ」




