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気づくとそのマティアスが目の前にいた。一瞬前まで岩皿に囲まれた台座のような場所にいたのに。リュエルの顎を、イメージの中の若かった頃とは違って、すっかり細り、衰えてしまった浮腫の浮いた手で掬い上げる。
「あの時お前を救えなかった私は、だが、今ようやく、こうして生きながら永遠の安寧を手に入れるところまで辿り着いた」
マティアスが陽炎のように揺らめいた。今度は錯覚ではない。マティアスの術でもない。
もしかすると、マグァの時代にすでに死者と交わり、千年もの時間を経た呪術に犯された体は、すでに物質として存在している力は薄くなっていて、今にも四散してしまいそうなのかもしれない。
「時満ちて、我が手に帰る日を待っていた。お前はトゥキや愛弟子たちのように私の物。同じ血肉を分かった我が最愛の妹にして、最初の創造物。弟子たちに与えた名を真似るなら『強力なる魔力』。完全なる均一化には、お前と言う存在が無くては意味が無いのだ。それにお前のその、私と同等量にいつかなるべき膨大な力が必要なのだ。それがこの均一化を成し遂げる術の贄なのだ」
マティアスと指で接する顎の先が異様に冷たい。もうその肉体は死んでいるのに違いない。いや、死者と交わった時点で、もう生死もない。この世界に在っていい存在ではない。ただ哀しみが、千年の間、闇を彷徨うマティアスを保ち続けた。
「さあ、共に世界を癒そう」
低いマティアスの声と共に轟音が鳴り響き、洞窟が揺れた。たくさんの岩皿は、落下してきた鍾乳石や岩盤によって全て砕かれたばかりか、中で育っていただろうエヴィアも、最期には崩落してきた天井にもろとも押しつぶされた。あの古木の塔と同じに、ここもマティアスの術で作られた洞窟だったのだ。
リュエルは咄嗟に身をかがめて頭を外套で覆う。立っていられない。術で落下物を防いではいるが、このままではマティアスと共に生き埋めになってしまうだろう。そう覚悟もした。だが、洞窟の揺れが止まる。
「……?」
立ち上がり見渡すと、洞窟だったものは、今は主要な通路だけとなって、まるで水晶のように透き通っていた。見上げるとカルデラ湖の湖面がはるか上の方に揺らめいている。ずいぶん洞窟を下って来たはずなのに、それが見えるということは、なんて透度の高い水だろうか。横や足元を見ても同じで、入れ物となっている椀のような山の内側の地層がよく見えた。そこに日が差して真闇の洞は、光り輝き、人々が想像する神々しい天上世界のようになる。
呆気に取られるリュエルの傍には、先ほどと変わらずマティアスが佇んでいた。囁く。
「この水に見えるものは、『原初の水』。先ほどまで岩皿を流れ下っていたものだ。そして、お前たちが腐沼と呼ぶものの元だ」
「えっ!?」
「この水は、接する者同士を足し合わせる。これこそがマグァの合成の呪と、オロフ様の忘却術との集大成。肉体と精神を溶かし、混ぜ合わせる」
「原初の……水……」
そうだ。初めからマティアスはそう言っていた。
「西から常時吹き付ける強い風により、この呪の水は少しづつ飛ばされた。風の織り機によって大陸各地に運ばれた。そこに出来た水溜りに、あるいは霧に生き物が触れ、近い距離にいたものが均一化された。均一化は足すが、割らない。ふたつを混ぜ合わせても、ふたつではなく、ひとつにする。生き物には根本的な部分で同じ構造が含まれる。同じ部分は切り捨てられる。その余った不要な屑が腐臭を発する泥となり、腐沼が生まれる」
それがこの世界の異変のからくりだったのだ。
その光景を、ほんの少し前にリュエルは実際に見ていた。湯気のように湖から絶えず湧く霧が、風に乗って東へと運ばれていくのを。あの時、それを綺麗だと思った自分は馬鹿だとリュエルは思ったが、唇を噛むほどの情熱も湧いてこなかった。
「ふふっ……。千年生きても人間は人間だということだ」
マティアスは自嘲した。大陸各地に腐沼を生んだのは意図したことではなかったらしい。四年前のラクィーズでのことも含まれていただろう。
「だが、そのおかげで分かったこともある。不完全な均一化が、お前たちがセレヴィアやエヴィアと呼ぶようなものをつくるということだ。これがお前の力を育てるのに、ずいぶんと役に立った。こうして今、諸国を足止めするのにも。弟子たちもずいぶん遊んだようだしな」
マティアスはこの輝く透明の洞の主にふさわしい威厳ある落ち着きを見せながら、両手を広げる。
「私とお前がここに沈み、呪に贄として力を供給しながら均一化して産まれた存在は、お互いの力を融合させ、再びこの原初の水を利用して際限なく膨大な力を吐き出すだろう。それはこの山の窪みの中で臨界し続け、いつまでも新たな原初の水を作るだろう。あふれ出し、大陸を覆い、ついには、この世を清浄で完璧な原初の海で満たすだろう。それは腐沼すら溶かし、産まれた均一化された生き物たちすら再度、いや、何度も何度も均一化するだろう……そうして最後には、この世の生き物はひとつのなだらかな液体のようなものとなり、幸福に包まれたまま、永遠に地の上を漂うのだ。エンラータ、心配は要らない。お前が愛した『彼』も一緒だ」
リュエルと常に行動を共にしてきたトゥキがマティアスの目だったのだ。リュエルのことは全て知っている。今更『彼』のことについて驚くべきことはない。それに、すでに抵抗する気など失せていた。だが、均一化の行く末を改めてはっきり説かれると、リュエルは青ざめ、後ずさりを始める。
「兄様……あ、あなたが私の為と言うその世界……私は、そんなものは望んでいません」
マティアスはそれを追って一歩足を踏み出して詰め寄る。
「本当に?」
リュエルが下がればマティアスも一歩進み、また下がれば、また一歩……。リュエルの背中は透き通る水晶の、冷たい壁面にぶつかる。
「お前が、お前こそが、真に幸福な世界を望んでいたではないか。贄とされてもいつも笑っていた。それは、幸福を望んでいたからだろう。誰よりも強く。笑う事で、自分は幸福だと思い込もうとしていた」
マティアスの言葉でリュエルは再び閃光のように記憶を蘇らせた。エンラータとして生きた時代。蔑まれ、恐れられ、遠巻きに伺う人々のひそひそ話と視線。家族と会える時間は限られ、何もない部屋での孤独の毎日。外に出されたと思えば呪術による苦痛。
エンラータは誰よりも幸せを、心の安息を欲っしていた。




