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◇
その日の日暮れのことだった。塔の最上階に近いリュエルの部屋の扉が、こつこつと尋ねるように叩かれたのは。
「はい」
振り返るだけでリュエルには誰なのかがわかった。しばらく留守にしていた部屋を掃除していたので、窓も扉も開いていたからだ。
「オロフ様」
「ちょっといいかな?」
「ええ、どうぞ」
拭き掃除はとうに終わっていたので、手は綺麗だ。リュエルはすぐに戸棚からポットを出すと「お茶を淹れます」と言って湯の用意に立ったのだが、オロフが制した。
「いや、いいんだ。気を使わないでくれ」
オロフがそう言うなら、そうなのだ。リュエルは無駄な問答をせずに、オロフにこの部屋で一番上等の椅子を勧めると、ポットを元の場所にもどした。その間、オロフはリュエルの部屋を眺める。
「この部屋に入るのは久しぶりだな」
リュエルが笑う。
「また空き部屋になりますけどね」
「うん?」
「私を指名しに来てくださったのですよね?」
「ああ、そうだ」
「ありがとうございます」
丁寧にリュエルが頭を下げたのを見て、オロフは、どうしてか少し残念そうな顔をした。
「嬉しいのか?」
「はい。それに私が行くべきだと思っていましたので」
「なぜ?」
「……私は旅の間に沢山のエヴィアとセレヴィアを見てきました。だから……」
「そうか……」
オロフは微笑を苦笑に変えた。視線を伏せ、ひとり何事か頷いたあと、リュエルの目を覗き込む。
「だが、その先は今は言うな。まして騎士たちには。彼らの生きる目的を奪う事になる」
「……はい」
二人は同じ想いを胸にして、それを奥底に沈める少しの間、言葉をこの場から遠ざけた。
すっかりこの部屋の扉を叩いた時のものに表情を戻したオロフが、目の前で立ち尽くす部屋の主に声を掛ける。
「まあ、座りなさい」
リュエルはオロフの向かいにあった踏み台兼用の切り株の椅子に腰を落とす。
「昨日、一年ぶりに会ったお前を見てすぐに分かったよ。術の力が一段と増したのだと」
「旅の間もオロフ様と共に暮らしていた時と同じように、いえ、それ以上に、これまで学んだことを振り返り、高めようと努力しました。皮肉にも、毎日飽きもせず襲い掛かってくるエヴィアが、ずいぶんと私を鍛えてくれたように思います」
そう言ってリュエルはやっと少し冗談っぽく微笑んだ。だがオロフは頭を垂れた。
「オ、オロフ様!?」
「すまないな。もう私でさえも、戦う力となれば、お前の前には立てないのだ」
「オロフ様、頭を上げてください!」
跪いてそう懇願するが、オロフは一向にそうしようとはしない
「……もしかしたら、お前には辛い運命を任せることになってしまうかもしれない」
「オロフ様……?」
オロフがそんなことをするはずが無いと信じていながらも、よくは分からないが、リュエルには否定する事ができなかった。それで、仕方無しに肯定した。
「……それが私に与えられた役割ならば、突き通すまでです」
オロフが伏していた目を上げる。リュエルの灰紫の変わった瞳とぶつかった。
「ですから、オロフ様。どうかもう頭を上げてください」
「わかった。だが、リュエル……もしもの時は、シアンを頼るのだよ」
「え……? シアン、ですか?」
「彼には、もう私の方から話してあるから」
なぜその名が出るのか。シアンはこの塔では新参者だし、第一、マティアスへの態度を決めかねている。そんな理由や想いが渦巻き、リュエルの顔は自然と渋く歪められた。
オロフが苦笑する。
「そう嫌そうな顔をするな。私は気に入っているんだが? リュエルも面白い人間を拾ってきたものだと」
「お、面白くなんてありません! 彼ときたら私の言うことの逆をわざとやるような人なんです! マティアスに関わることだって、危険だと何度も忠告したのに、ひとつも聞きやしないんですよ!?」
「ふふ。リュエルを困らせるとは、シアンは頼もしいな」
オロフが全く同意してくれないので、リュエルは思いつく限りの反論を試みるが、それも虚しく終わる。
「まあ、いいではないか。それでもついてきたかったのだから。志願兵とみなそう。それにここまで来るのだから、それなりに腕に自信もあるのだろうさ。戦うとなればリュエルに敵うはずも無いが、撒けなかったところをみると、機転と言う意味では彼の方が何倍も上手なのかもしれないな」
「私は……オロフ様のおめがねに適わずに、記憶を消して森の外へ追い返すという結果を望んでいました」
「なんだ、そうだったのか」
上気して真っ赤になったリュエルの頬は、幼い子供がするように、少し膨らんでいるように見えた。オロフは少し笑っている。




