3
シアンの情けない声を無視し、見せるその背をどんどん小さくして一向に止まる気配のなかったリュエルだったが、二本の樺の木の手前で唐突にその足を止めた。振り返る。
「シアン。そんなに怖がることはありませんよ。もう少しで全て分りますから」
リュエルがそう言って、本当にすぐのことだった。また歩き始めた少女の後をついて、そこから二、三歩、リュエルが先ほど足を止めた樺の木の間をシアンが通り過ぎた途端のことだった。
「――えっ?」
シアンが驚いたのも無理が無かった。急に景色が変わったのだ。
そこに広がっているのは一面の爽やかな青空。その下には光を受けて硝子のように煌めく水面。美しい森の湖畔の景色だった。視界を常に遮ってきた暗い森の梢一本無い。
なにより目を引いたのは、巨大な木の存在だった。湖畔のそばに立ち枯れたような不思議な木が一本立っている。それが何故不思議なのかというと、その大きさが木とは言えないほど大きいからだった。まるで塔のように高く、幹は太い。
そんな場所ではなかったはずだ。間違いなく、一歩前までは目の前には、まだ延々と続く森の闇が広がっていた。
「えぇっ?」
シアンが飛び跳ねたような動きを織り交ぜて、機敏に後ろを振り返った。そこには今まで歩いてきた深い森がごく自然にあった。二人は唐突に森を抜けて、その終わりの場所にいつの間にか立っていたのだ。
シアンが目の前の光り輝く景色と、背後の不気味な森とを見比べるように、何度も振り返ってはまた前を見た。その間中、何度も瞬きを繰り返し、最後には目を擦った。
その反応があまりにもおかしかったので、リュエルはつい笑ってしまった。
「ふふっ。だから言ったでしょう? もう少しだって」
「い、いやっ。でも……だって、まだ森はまだまだ続いて……」
「じゃあ、一歩戻ってみてください」
訳が分からない、という顔をしながらも、シアンはリュエルに言われた通りにそろりと後ろ足に一歩下がった。すると視界から湖畔の景色とリュエルは消え、また出口の見えないうっそうとした森の景色が広がった。シアンは慌ててまた一歩踏み出した。
するとまた、明るい陽の差す湖畔の中にシアンは立っていた。再び現れた景色の中でリュエルが先ほどの微笑みのままで迎えてくれた。まるで、舞台の垂れ幕を落としたかのような瞬く間の変化だ。
「そこが境界になっているんですよ」
リュエルはそう言って、シアンの足元、森の出口近くの二本の樺の木のそれぞれの根元を指す。しかし、そこにはなんの目印らしい物はない。樺の木だって何の変哲も無い。
シアンを見ると、まるで分かっていないのだろう、ぽかんと口を開けたままになっている。気づいて、リュエルは付け足した。
「ああ、すみません。許可を受け、鍵を授けられた者には、そこがほのかに光って見えるんです。森の中にはいくつかそういう場所があって、順番に通ってくると、こうやって湖畔に辿り着くことができるんです」
「きょ、許可? 鍵?」
「はい。この森にはお師様が結界を張っているんです。エヴィアも動物も、人をも拒みます。部外者を立ち入らせないためです」
「って……じゃあ、もしかしてこの森が迷いやすいのってもしかして……」
「はい」
リュエルが頷いた。その術の為だ。
「はあー……」
疲れきった深いため息をついてうなだれたシアンは、そのまま固まってしまった。
魔術なんてものは一般人には縁遠い。それを操る魔術士も同様だ。リュエルがその一人だとは分かっていたが、果てしない世界の違いを感じでもしたのだろう。
少女はいつものように多くを語らず、着いて来いとでもいうような素振りをして、遥か天空までそびえる奇妙な木の方に向かっていく。リュエルにとっては、魔術はあって当たり前のものだ。
「私たちは古木の塔と呼んでいます」
この木はやはり、塔なのだ。
そう言って、懐かしそうに塔を見上げながら歩くリュエルの後を、慌ててシアンも追った。地面にはうねるいくつもの太い根が走り、深い土手となっている。集会でもできそうな草のまばらな箇所や、遠くの方には粗末だが小屋らしいものや、山羊のようなものが草を食んでいる影があった。
リュエルが塔だと言った樹木の肌は乾燥したように白茶けていて、生木のようなしなやかさはまったく感じられない。それであるのに、どうして倒れないのか。塔として成り立つのか。不思議なほどだ。森に魔術がかかっているのと同じように、これも術のなせる技なのだろうか。そんな疑問が当然浮かぶはずなのに、リュエルの傍を歩くシアンは問うことも忘れたのか、ただその巨大な枯れ木を一緒に見上げていた。
そこにまた、森で聞こえたあの奇妙な笛のような高い音が響く。
「うわっ……この音……! お化けがっ……!!」
シアンがさっきと同じように、また飛び上がった。
リュエルがくすくす笑いながら、無言のまま、何本もの枝が突き出る幹の最上部をシアンに指し示した。恐る恐る、シアンが指し示された場所を観察する。そこには、いくつかの朽ちて空いたらしい穴がある。どうやら音はそこから鳴っていた。ここに住む誰かが結びつけたのだろう深緋色の吹流しが、真横にたなびいていた。
「ええ、そうです。外観を隠したり道を封印したりはしていますが……音だけは遮蔽していませんから。……不気味に聞こえたみたいですが、分かってみれば何のことは無いでしょう? ただの風の音です」
お化けではない、と直接言わなかったのはシアンの尊厳に対するリュエルの配慮だ。
「……あ……うん。そうだね。ほんと、ただの風の音だわ……」
「ええ。……でもこの音、初めから風のせいだと知っていましたから気にしていませんでしたが、人払いにはちょうどいいみたいですね」
幾分顔を赤らめたシアンは、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ふふっ。じゃあ行きましょうか」
なんだかリュエルの笑顔が多い。
本人も自覚していた。ここに帰ってくると、やはり気持ちが落ち着く、安心するのだ。それは住み慣れた場所だからでもあるし、それにやはり……。
「あっ、リュエル。誰か出迎えに来てくれたみたいだよ」
シアンの言うとおり、古木の塔の根元に、先ほどまでは見あたら無かったいくつかの人影が現れていた。中から出て来たらしい。だが、その数がどんどん増える。シアンがすっとんきょうな声を上げた。
「えぇぇー!?」
最終的にその数は両の指を折るだけでは足りなくなっていた。百人か二百人か、瞬く間に黒い人だかりが塔の前に出来上がっていた。
リュエルは思い出した。師、それに仲間が集まる隠れ家、そうシアンに説明していたが、人数の事までは言っていなかったことを。すっかりシアンは目を丸くしてしまっていた。それにシアンにとっては一瞬前まで呪いの森という評判を真に受けていた場所だということも、多分拍車をかけた。
今更言葉で説明するのも無意味な気がして、リュエルはあえて何も語らないまま、シアンを伴って、出迎えてくれた中の一人の前に立った。壮年に入りかけたくらいの、落ち着いた雰囲気を漂わす背の高い男だ。シアンも背が高い方だが、この男はもっとだ。
「ただいま戻りました。お師様……オロフ様」
リュエルがそう言って跪くと、オロフと呼ばれたリュエルの師は、聖人のような優しい微笑を浮かべた。
「おかえり」
その発する声は、別に大きくもないし特徴あるものでもないが、不思議なことに耳を傾けさせられる何かがあった。人前で話すことに慣れている人間のものだ。その男に髪を撫でられると、リュエルは嬉しそうに立ち上がり、その広げた腕の中にすっぽりと納まった。
「よく帰った」
周囲が見つめる中、二人はそのまましばらく動かなかった。




