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灰緑色のどこまでもなだらかでなめらかな液体状のものの上を、リュエルは流れていく。
シアンの言った通り、南に下った沼辺には船守りの爺が住み着いていて、その櫂に操られる小船に乗りこみ、一行は腐沼を渡っていた。
かつて丘と森、浅い谷を伴った川が流れていたと言うこのあたりだが、全てが沼になってしまった今では、地形に煩わされる事無く、直線的に目的の方角に進む事ができた。正規のルートを進むよりも早く目的の場所に帰ることができるだろう。シアンの言う事は正しかった。
船守りによればこの辺りはラクィーズが滅びて間もなくできた古い腐沼だという。少し前まで鬱陶しかったエヴィアの影は、今はひとつとしてなかった。聞こえるものは櫂が規則的に沼を掻く音ばかり。見えるものは二階調の灰色。一本線を引いて塗り分けたように、ただ平らな灰泥の湖面が、薄灰色の空の下にどこまでも広がっている。エヴィアたちがいないのは喜ぶべき事のはずなのに、まるで死の世界に足を踏み入れたかのような錯覚をリュエルは覚え始めていた。
まさかそれを察したわけではなかろうが、がりがりにやせ細った年老いた船守りが、しわがれた声で笑った。
「こんな場所によもや来客とはのう。船守りをしていて今日は最良の日じゃ」
ではなぜこんな場所で一人で船守りなど? そんな疑問がリュエルの頭に浮かんだが、滅入る景色のせいで問うことすら億劫になっていた。見る物は思うよりも心理に影響する。こんな沼だらけの土地で正気のまま生きていける気がリュエルにはしなかった。
足元に目をやれば、出会いの一件を忘れたトゥキとシアンが共に、仲良さげに寝そべり小船の床の大半を占拠している。眠っているわけではなく、泥の上を流れる独特の感覚を楽しんでいるようだった。確かに、匂いさえ気にしなければこの船の流れは心地よい。とても不思議なのだが、腐沼の水は粘り気がありながら、その上を小船が行くとなれば非常にさらったとした進み心地でもあった。通常の水の上よりも船は摩擦や抵抗を受けずに滑らかに進む。か細い老人の操る櫂でも、船は何の不自由も無い。
それは腐沼に浮く、気色の悪い液体のせいもあるかもしれない。火をつけると嫌な匂いをさらに強くしながら、ばちばち音を立てて燃える油質のものだ。貧しい者たちは蝋燭の代わりにこれをすくって使うと聞いたこともある。旅人が止むをえず、野宿の際に使うこともあるとも聞く。
こんなものが浮くとなれば、腐沼を構成しているのはやはり単純に泥というわけではなさそうだ。リュエルは瞳に淀みを映しながらそんなことをぼんやり考えていた。またリュエルの手持ち無沙汰を察したわけではないだろうが、爺が口を開く。
「このあたりにはのう、かつてテチカという街があったんじゃ。ほれ、そこを見てみい」
爺が針金のような指で指し示した辺りに目を凝らすと、泥の湖にほんの僅かな小島のようなものが顔を出しているのを見つけることができた。何かに似ている。返答を待たずに爺が答えを明かす。
「ありゃあなあ、そのレヴェロ様じゃ」
興味深そうな顔になったシアンが、トゥキを抱きかかえて身を起こす。
「レヴェロ……って、レヴェロ像のこと?」
「さよう」
街を守る魔術をかけられるレヴェロ像の形はどこもたいがいは共通していて、まだら色の右手で杖を高く掲げる姿で作られる。右手がまだら色なのは、レヴェロにはそこに幾つもの痣があったからだと伝えられているからだ。今でも、右手に痣がある者はレヴェロに習って『大魔術師になれる素質がある』と迷信されるほどだ。沼にほとんどが沈んだそこのレヴェロ像も、確かに、よく見れば同じ特徴を持っている。
爺が櫂を漕ぐ。
「あれはテチカの十五代目のレヴェロ様じゃった。……あれを作ったのはわしの息子でなあ、よく出来た大工じゃった。可愛い三人の孫娘もいた。アマリア、サーラ、リンデ……。あの日、沼ができ、エヴィアが現われたのは、本当に僅かな時間のことでなあ……」
リュエルは意図して老人の顔を見なかった。この爺がこんな場所で一人、来る当てなどない客を待ちながら船守りをしている理由が見えた気がしたからだ。櫂は震えもせずに、今までどおりに沼を掻く。
「わしゃあなあ、ここらを墓沼と呼んでおるんじゃ」
その言葉を最後に、幸いにも爺は、二人が船を降りるまで、それ以上口を開かなかった。




