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ようやく、シアンは沼の向こうまで行って回収できる矢を拾い集め終えると、泥を落として矢筒に戻す。それが済むと、ようやくリュエルのそばに戻ってきた。
あれだけ冷たく別れたというのに、シアンはまるで、昨日笑顔で再会を約束した仲かのように上機嫌でそこに立っている。シアンがどうしてもリュエルについていきたい理由を信じる事ができたような気がした今は、心には申し訳なさだけが残っていて、邪険にすることはできずにリュエルは目線を下に逸らした。
「ああ、店のことなら大丈夫だよ。昨日、あの後すぐ行って、リュエルの置いていってくれたお金持って行ったらさ、『あのならず者との縁切り金だと思えば、修理費くらい安いもんだ』って、逆に恐縮してたくらいだよ。俺は普段は日暮れ前に行くからあいつらと直接関わることはなかったんだけど、実は、大分前から迷惑してたみたいだね。料理長なんかフライパンどころか解体包丁抱えて出て行く寸前だったんだよ? 何をしようとしてたんだか……」
こんな物騒な話をしながら、シアンはけたけたと声をあげて笑った。
もちろんリュエルもあの店のことが気がかりでなかったわけがないけれど、リュエルが気まずそうにしている理由を勘違いしたシアンはそう説明し、それが終わると、「そんなことより」と言って口を幾分尖らす。
「リュエル。知らなかったの? ここらがこんなになってること」
「……はい」
シアンはため息と同時に腰に両手を当てた。
「駄目だよー。情報収集はこまめにしなきゃあ」
弁明の余地は無い。これは完全なる油断だ。これまでどんなエヴィアと会っても、こうまで苦することが無かった。リュエルは素直に頭を下げた。
「すみません……。このあたりは昔の住まいに近いため、土地勘が無い訳ではなかったので、つい……」
「住まい?」
「ラクィーズに向かう前、十歳まで、私はあの山向こうにある小さな谷にお師様方と住んでいたんです」
リュエルは腐沼の向うに霞みながらかろうじて見えるいくつもの山の連なりを差した。
名前すら付けられる事の無い山奥の渓谷に魔術師たちの住まいはあり、そこにはいつも、人に慣れたピニークたちが入り込み、住人たちの足元をせわしなく動き回っていた。リュエルは頭の片隅でそんなことを思い出した。
晴れていても薄日しかささない腐沼の湖畔で、シアンがその山並みを目の上に手をかざして眺める。
「……じゃあ、そこがリュエルのこれから帰る場所?」
「いいえ、今は諸事情により大陸の西に越しました」
諸事情とはもちろんあれだ。マティアスの目を逃れる為以外にはない。昨夜の話を聞いたシアンにも分かったらしい。一言二言交わして、リュエルからその大体の場所を聞き出すと、程なく当たり前に頷いた。
「よし、じゃあ俺が案内するよ。どうせついて行くつもりだしね」
聞いて、理由はなんとなく理解はできていたが、納得はできずに昨夜のようにリュエルが声を荒げる。どう考えても危険だ。
「それはお断りしたはずです! 私の周りにはエヴィアが……」
けれどシアンは全く聞いてはいない。
「引き返して新街道に向かう? それともこのまま行く? 新街道って言っても、少し前から仕方ないから使われ始めた、元はただの街道の副道だから、全然整備されていない上に意外と起伏が多いし、どっちしろエヴィアは出るわ、蛇や盗賊が出るわ、しかも通行料を取られるわ……色々面倒だよ? まあ、迷う事は無いけどね。それだけは安心。でもお勧めは、もうここまで来ちゃったら、このまま腐沼を突っ切って、距離的には少し遠回りに感じるけど、少し南に回って古い腐沼に出る。そこにはもう、こんなにはエヴィアはいないから。で、そこの沼辺には渡し守りが住み着いてて、沼を船で渡れるって話だよ。結果的には新街道を行くより速いと思う。もちろんそこに辿り着くまでは、エヴィアはわんさか出るだろうけど。ここらのはできたばっかりだから。でもリュエルほどの腕なら……ね?」
シアンが意味ありげに片目を閉じた。その情報量はリュエルの反論を失わせる。負けた。
「……わかりました。案内をお願いいたします」
一年東に旅していた間変わってしまったこのあたりの事情にも道のりにも、シアンの方がずっと明るい。腕も立つ。それに――確かにシアンには魔術がかかっている。もうリュエルにはシアンを止める言葉を見つけることができなかった。だから最後の確認をした。
「……本当に、私について、マティアスに会うつもりなんですね?」
「うん」
「マティアスは四年前と同じように、あなたに良くしてくれるとは限りませんよ?」
「うん」
シアンは昨日同様に、あまりにもあっさりと答えたが、リュエルはもう咎めなかった。
「……わかりました。でも、まだひとつ、心配な事があります」
「心配?」
それは、何を話しても、それだけは言うまいとリュエルが思っていたことだった。そんなことは露も知らないシアンが目をぱちくりとさせるのを、リュエルはどこか申し訳ないような気持ちで眺めた。
「……あなたの顔は、私が知る『とある方』によく似ているんです」
「え?」
初めこそ驚いたようなシアンだったが、すぐに納得する。
「ああ、そういうこと。なんか俺のことをじっと見てる時あるなあ、って思ってたんだ」
「ええ……」
で、それがどうしたのか? シアンの顔が問いかけた。
「それは……私がこれから帰る場所にはその方をよく知る方々が沢山いるのです。……私は、彼らがあなたをどう迎えるのかわかりません。でもきっと、皆、戸惑うでしょう。それに、あなたがそこに加われば、その顔のせいで、いわれない不利益を被る場所もあるかもしれません。それでも私についてきますか?」
「うん。別にそれがなんだっていうのさ。よく似てようが他人でしょ?」
「それで済ませられれば私も心配してこんなことは言わないのですが……」
「平気だよ。考えすぎ」
神妙な顔のリュエルをシアンは遠慮なく笑い飛ばす。
「……そうですか」
諦めた顔のリュエルは、それでも万一の為の思案を巡らして独り言を漏らした。
「なにか問題が起きた場合はお師様におすがりすることにしましょう……記憶を……」
「え? なに?」
「いえ、なんでもありません」
明らかに物騒な独り言を誤魔化し、リュエルはしばし考え込み、頷いた。
「……わかりました。では、あなたがよく似ているその方の名をお教えします。ジルク・レグリス・ペレス・ラクィーズ。つまり、ラクィーズの第一王子です」
「えっ!? あ、あえっ……!?」
奇妙な音を発してシアンは行き場無く両手を彷徨わす。
「ラクィーズの王族を『腐沼を生み出した罪人』と信じ込む者もあります。私はラクィーズ人です。行動を共にするなら、お気をつけ下さい」
微笑を浮かべながらも、リュエルの灰紫眼が悲しいような切ないような光に揺らめいた。




