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まだ草葉に露の残る早朝、リュエルは一晩世話になったサハタの町の宿の扉を押し開いていた。肩には眠そうな小さな獣を乗せ、薬やわずかの硬貨などのごく少量の荷物の入った鞄を肩にかける。
街の外門をくぐると、湿気を含んだ空気がリュエルを出迎え、頬を冷たく撫で、薄い外套をひらめかせた。視界の先には朝霧に霞む森が、ずっと遠く、遥か西まで続いている。その中を割り開いて、道端を大小の石が縁取る東西街道が、点になるまでまっすぐ遥か遠くまで延びていた。
昨日の夜、あらかたのエヴィアは殲滅したと思ったのは間違いではなかった。その日の旅は順調に進んだ。今日はエヴィアが少ないと、同じ道を行く旅人たちが話している。今日サハタ周辺を旅する者は幸運だ。
ところが日が天頂に差し掛かる頃、それは終わり、リュエルにとっては思わぬものに足止めされることになった。
「おかしいです。一年前に通った時はこんなではなかったのに……」
今、リュエルの目の前には、森ではなく、腐敗臭を発する緑に色づいた空気が漂い、油を浮かべて気味悪く照かる、うねる地面がどこまでも広がっていた。広大な腐沼に街道が埋まってしまっているのだ。あたりはエヴィアに荒らされたのだろう。比較的新しげな爪あとのついた大木がいくつも沈みかかりながらも、まだ顔を覗かせていた。その中に隠れるように大理石造りの老齢の男を模した像が半身を埋めている。
「八百年前に生きたと伝えられる大魔術士レヴェロの巨像……間違いありません。ここはその生誕の地として各地から巡礼者が訪れたトエヌの町……でもこの有様は一体……」
町どころか人が居た気配すらここには無い。ただ淀んだ異臭を放つ空気が停滞する。
「まさか、ここ半年ほどの間に新たな腐沼が発生して街が沈んだのでしょうか……なら、まだどこかにエヴィアが潜んで……」
そう言いかけた時だ。予想通り、それが現れた。リュエルの足元の沼の中からだ。初め、泥の山のように表面が盛り上がり、即座にリュエルの頭上まで伸び上がる。
「……っ」
リュエルは素早く後ろに飛びのくと、魔術を行使した。きらきらと結晶面を輝かせた水晶のように澄んだ氷を、泥の山とリュエルの間に壁のようにそびえさせる。
泥山はそれに当たって勢いよく跳ね返り、また泥の中に沈んだ。そうして今度は様子を伺うかのように、ゆっくりと、泥を滴らせながら立ち上がってやってくる。
覆っていたものが流れ落ちてよく見てみれば、それは泥の塊ではなく、魚と蛙、それに猿を混ぜたような生き物だった。身を起こして二足で歩くその身の丈は、人間のように様々で、リュエルより背の高いものもいれば、膝ほどのものもあった。だが共通してぬめるようなゼリー質のむきだしの瞳が、せわしなくぎょろぎょろと左右に動く。
「泥に隠れて細部まで観察できないのが有り難いですね」
リュエルが皮肉って微かに笑う。その異形の生き物が周りの泥の中からあぶくのようにいくつもいくつも現れたから余計だ。さらに上空からは女の悲鳴のようなかん高い声を響かせるエヴィアが近づいて来つつあるようだった。その輪郭すらまだ確認できる距離にないが、おそらくは鳥に近い形をしているのだろう。リュエルは囲まれつつあった。
「各個を倒せない事はありませんが……」
リュエルが一匹を倒して一歩進めば、さらに奥地から倍のあぶくが立って、水生の猿のような生き物が増えていく。きりがない。先に進むことができない。
「どうやらここのエヴィアには生殖機能が備わっているようですね」
エヴィアの発生自体が魔術に起因するもので、現在、大陸中を探しても、その全貌を把握するのは術者のマティアス一人に違いない。そもそもそんな魔術由来のものが生態系など持ちえるのかも謎なのだが、たいていのエヴィアには生殖しないらしかった。だがここのものは数からして違うようだ。
この水生エヴィアが姿どおり蛙や魚の卵のようにして増えるのならば恐ろしい事だ。この底の見えない沼にはどれほどのエヴィアが潜んでいる事になるのだろう。
頭にそんなことがよぎり、さすがのリュエルも一歩、後ずさった。だが、すでに沼地にいくらか入り込んでいたため、リュエルの後方も、今はすでにぬめるエヴィアたちがひしめいていたのだった。
リュエルといえども迂闊に踏み込んではならない場所がある。ここがきっとその場所だ。
少女の額から珍しく冷や汗が一筋流れる。シアンを助けた時よりも今はエヴィアの総数は少なく見えるが、その十倍は泥の中で機をうかがっていると思っておいて間違いがないだろう。
「シアン……」
その名を呟いたのは、ふと、昨日の話がよぎったからだ。エヴィアの動きを鈍くする術をマティアスにかけられた、と。今ここで、本当にそんな現象が起きれば、と。
リュエルは自嘲する。
「私も愚かしいですね、そんなものに頼りたいと一瞬でも思うなんて……それに、着いてきたいと言った彼を置き去りにしたのは、他でも無い私です」
考えを振り払うように首を振るが、昨日の事がやはり思い出された。何度思い出してみても、酒場での自分の行動は軽率だった。多くの人々に迷惑をかけた。とりわけシアンに申し訳が無かった。
その人を冷たく突き放して来たのはもちろん呆れたからでもあったけれど、その身を心配たせいだった、と。
そんなことを考えていたせいだろうか、彼に呼ばれた気がした。
「……ル……」
「!?」
リュエルははっと肩越しに後ろを振り返った。だがそこには吐き気を催すような外観のエヴィアどもしかいない。
「シアンがいるはずがありません」
リュエルはもう一度自嘲する。
だが空耳ではなく、それは本当に聞こえていたのだった。今度ははっきりと耳に届く。
「リュエル! やっぱり! 女の子が一人で旧街道のほうに向かったって聞いたから、もしかしてって思ったんだ」
「シ、シアン!?」
腐沼の浅いところの泥を派手に跳ねらせ、栗毛の馬にまたがったシアンが駆けて来る。だがそこにもエヴィアは潜んでいるのだ。
「おっと!」
馬が足をつっこんだ沼の中から幾本もの汚らしいエヴィアの水かきのついた手が伸び上がり、馬もろとも騎手を泥の深いところに引きずり込もうと掴み倒す。だが、シアンは曲芸のように器用に馬の背を蹴って飛び上がり、リュエルのそばにわずかに顔を出す、まともな固さの地面に着地した。




