第2話 せんせいと一緒に暮らす
「…………ねえ、あーちゃん、本当にいいの?」
そんな言葉を、せんせいが口にした時、躊躇いがなかったかと言えば嘘になる。
まだ私も社会に出て二年目のぺーぺーだけど、誰かの人生を背負うということが、口で言うほど簡単じゃないのはわかってる。
お金も、時間も、感情も、きっと文字通り、その誰かに私の人生を半分をあげないときっと背負いきれない。
独りで気ままな時間は無くなるし、お金も適当に使うわけにはいかなくなる。生活のことで喧嘩する話もよく聞くし、万が一私が倒れたら、今度こそせんせいは路頭に迷う。そんなプレッシャーが多かれ少なかれ、これから私の肩に乗ることになる。
じゃあ、止めるか―――って問われたら、すぐに首は横に振ってしまうのだけど。
お腹の奥は不安と恐れで、びくびくと震えてる。この決断が、本当にせんせいのためになるのかもわからない。
ただ、それでも、もし今、手を離してしまって。
それで、今度こそ二度と会えなくなったら――――。
きっと、私は死ぬまで後悔し続ける、そんな気がするから。
だから、怖くても、不安でも、私はもうこの人を手放さない。
たとえそれが、どれほど独り善がりだったとしても。
今だけは、迷わないと決めたから。
「あーちゃん?」
少しぼーっとあなたのことを見ていたら、せんせいは不思議そうに首を傾げた。
なんでもないよと首を横に振って、私はそっと立ち上がる。
「今日は早めにお風呂入って、寝ちゃおっか。せんせいも、疲れたでしょ?」
一昨日の残りのカレーを二人で食べてから、私がそういって伸びをすると、せんせいはおずおずと頷いた。
なんだか、そうしていると、せんせいの方が子どもみたいだ。高校生の頃には、あんなに大人びて見えていたのが、ちょっと不思議に想えてくる。
「せんせい、お先どーぞ?」
私がそう言って、首をかしげると、せんせいは少し顔を赤らめながら、こくこくと首を上下に振っていた。また、妙に緊張してるなあ…………なんか変な勘違いしてそう。
ただまあ、あえてそこには突っ込まずに、私はそのまませんせいにお風呂場の使い方だけを教えた。そして、リビングに戻ってから、ソファに顔から勢いよく突っ伏した。
ドアの向こうで、ザーとシャワーが流れだす音を聞きながら、ちょっとだけ目を閉じる。
これで、本当に良かったのかな?
そんな答えはきっと、誰に聞いてもわかりはしないけど。
「これで―――よかったんだよ」
そうやって呟く言葉は、まるで何かに祈るみたいで。
クッションに顔をうずめたまま、私はただ流れるお湯の音だけに耳を澄ましてた。
そして、ふっと目を閉じると、遠く向こうで蝉の音が響いているような気がした。
あの夏の国語準備室で、青空を見上げながら、ずっと聞いていた、あの音みたいな。
ただ、しばらくしてから、それがシャワーの音の淡い残響だと気付いてしまう。
だって、ここは都会のど真ん中、アパートのそこそこ上の階。
こんな真夜中に、蝉の音が聞こえるわけがない。
そんな事実に、どうしてか、少しだけ可笑しくなった。
眼を閉じると、またせんせいがシャワーを浴びる音が聞こえてくる。
※
「あーちゃん」
せんせいが、鍵の場所を教えてくれてたから、私は昼休みになるといつも国語準備室にこっそり顔を出していた。
当時の私は、クラスに居場所がなかったから、せんせいが気を利かせて隠れ家として使わせてくれてたんだ。
売店で買ったお昼ご飯を食べて、クーラーの音を聞きながら、湧いてくる眠気に目元を擦る。
そうして、そのまま古い机に突っ伏して、本と木の匂いを嗅ぎながら、少しだけ眠ってしまう。
どうせ、お昼休みが終わる前には、あなたが起こしてくれるから。
そんな、半分甘えを含んだあのお昼寝の時間が、当時は何より心地が良かった。
「あーちゃん、起きて」
そうして、決まって、そんなあなたの優しい声で起こされる。
肩にそっと優しく触れて、揺りかごをあやすみたいに、そよそよと揺らされながら。
瞼を擦って、ふっと目を開けると、少し濡れた髪のせんせいが私を覗き込んでいた。
なんで、せんせいがここに居るんだろう…………って、違う、私が連れてきたんだ。
一瞬、いつもの夢だと勘違いして、危うく変なことするとこだった。
「あれ……私、寝てた?」
ぼんやりと鈍る頭を上げながら、クッションからゆっくりと身を起こす。
せんせいは少し火照った頬のまま、きょとんと首をかしげると、少し可笑しそうに笑った。
「ちょっと眼を離すと、すぐ眠っちゃうの変わってないね。…………私がお風呂入ってる間だから、そんな長く寝てないと思うよ?」
ちらりと時計を見てみると、確かにせんせいの言う通り、ほとんど時間は経ってなかった。逆に眠いやつだね、これは。
なんて、欠伸を噛み殺しながら、私は顔を上げる。そこらへんでようやく、せんせいの姿を、脳がちゃんと処理し始めてた。
こっちにせんせいを連れてくるとき、かさばるから衣服は最低限しか持ってこなかった。どうせ後で宅配で送ればいいし。
だから、今日の分の下着はくらいはあったろうけど、パジャマは私のを貸す約束だった。でもまあ、私とせんせいでは、結構背丈が違う。
なので、目の前にいるせんせいが着た長袖のパジャマは、指の先を隠すくらいにでろんと伸びていた。ズボンも丈が余ってて、胸元もちゃんと締めきれてなくて、鎖骨がちらりと覗いてる。
小さな体躯で、身の丈に余る服を着ていると、ますます幼さ際立つというか、控えめに言って、無理に大人の服を着た子どもに見えてくる。
ただ、それがみっともないわけじゃなくて、なんとも言えない可愛さと、庇護欲を醸し出していて。お風呂上がりで火照った頬と、少し眠そうにとろんとした瞳が、余計にあどけなさに拍車をかけてる。
「………………そういう需要があるのもわかるな」
なんて独りで頷く私に、せんせいは不思議そうに首を傾げてた。
「……? えと、とりあえず、お風呂、先貰ったよ?」
そうやって報告するあなたに頷きながら、私はそっと腰を上げる。
「うん、私もシャワー浴びてくる。眠かったら先にベッド行ってて? ドライヤーとか、置いてあるの適当に使っていいから」
言いながらあなたの少し濡れた頭をぽんぽんと撫でておく、するとあなたは少し顔を紅くして、ううっと撫でられた部分に手を当てていた。
どうしたんだろ、子ども扱いされて元教師のプライドに傷がついたかな。
なんて思いはしたけど、まだ眠気に鈍る頭では、上手い慰めが思いつかなかった。
ただ、せんせいは、しばらく呻いた後、いそいそとドライヤーを探しだしたので、まあ大丈夫かと息を吐く。
しかし、こうしていると、まるで私が保護者でせんせいが子どものようだ。まあ実際、経済的には、今は私の方が保護者なのだけど。なんか背徳的だなあ。
なんてことを考えながら、脱衣所に行って無造作に服を脱ぎ始める。
ただ、途中で、ふっと脱衣籠の中に、私のとは違う小さな白い下着が見えて。
それで、思わず少し固まってしまったのは、内緒ということにしておこう。
私、本当に、せんせいと一緒に暮らすんだなって。
今更ながら、実感したりしたけれど。
それも、内緒にしておこう。




