第3話 教え子と一緒に眠る
化粧台の近くに置いてあったドライヤーで、濡れた髪をぶぉーっと乾かす。
火照った身体を、少し冷たい風が撫でていく。そんな心地を感じながら、髪を乾かし終えて、私はそっとドライヤーのスイッチを切った。
ふっと静かになった部屋の中、エアコンや冷蔵庫の音が、漫然と響くその向こう。
ジャーっと、ぴちゃぴちゃっと、少し向こうであーちゃんがシャワーを浴びてる音がする。
…………大学生で独り暮らしを始めてから数年、他人が家にいるという経験があまりなくて、なんだかそれだけで落ち着かない。
どころか、今私は、あーちゃんの家に転がり込んでいるわけで。目に映るもの、手に持つもの、その全てが見慣れないものばかりだから、どうにも不思議な感じがする。
…………よくよく考えたら、私、他の人のお家にお泊りとかしたことなかったなぁ。
そんなことを考えていたら、ふわぁとあくびが溢れてた。
眠いなら、先に寝ててもいいとは言われたけれど、果たして家主がいないのに勝手にベッドに行くのもいかがなものか。
なんて考えながら、むむむと唸ってみるけれど、意識は正直少し危うい。
だって、今日は起きたらあんなことがあって、お引越しもして、その末にあーちゃんのお家まで来たのだから。そりゃあ、疲れるのは当然のことではあるけれど。
しばらく、ふらふらと揺らぐ意識をに抗ったけど、このままだと、結局床で寝てしまいそうだ。そうなると、またあーちゃんに要らぬ手間を掛けさせてしまう。それなら、自分で行った方がまだましかな…………。
寝る前のお薬だけ飲んで、脱衣所の前を通り過ぎるとき、なんとなくドキドキしながら、あーちゃんの寝室らしき場所の扉を開く。
「おじゃましまーす…………」
当然、家主には聞こえない、そんな声を何故か出しながら、私はおずおずとあーちゃんの寝室のライトを点けた。
パチッと音が鳴ると同時に、眼の前に現れたのは、リビングと同じ、よく整理された小さな寝室。枕元の近くには、こじんまりとした本棚があって、他に目立った飾り気はない、なんかいかにもあーちゃんらしい。
なんとなく、ドキドキしながら、自分のものではないベッドにそっと足を進める。柔らかいシーツと、ふわふわのベッドの感触は、当然私の物とは違うけど、どうしてか不思議な安心感がある。
ぼふっとあまり音を立てないように、ベッドの中に倒れ込んで、少しだけ息を吸った。すると、ああ……と思わず声が漏れてしまう。
―――あーちゃんの匂いだ。
今日、朝、隣で眠っていた時に、嗅いだ匂い。彼女が高校生の頃、眠る頭を撫でている時にも、ほんの少し漂っていた、あの香り。
甘く、柔らかく、少しだけしょっぱいような。
そんな、彼女の首元からよく漂ってくる、懐かしい匂い。
すーっと息を吸うと、そんな空気が私の肺をゆっくりと満たしていく。なんだか身体の中に、あーちゃんの一部を取り込んでいるような、ちょっとえっちな感じがする。
いや、実際、あーちゃんの皮脂や汗の成分を、匂いを通して、取り込んでいるのだ。それはつまり、あーちゃんを取り込んでいると言っても過言ではないような…………。
どうしよう、やっぱり、なんかえっちな気がしてきた。教師の頃にやってたら、減給くらいは食らってそう。
なんて益体のない思考をしながら、少し逸る自分の鼓動をどうにかコントロールしようと試みる。…………ただでさえ、最近寝れてないのに、こんなことで無駄に自律神経を乱してどうする。いや、しかし、この状況は…………。
などと葛藤を繰り返していた頃のこと。
―――ガチャっという音がした。
そして、丁度まさにあーちゃんの枕に顔をうずめていた私の身体は、心臓が跳ね出たかと思うくらい揺れ飛んだ。
思わずごふっと枕に顔をうずめながら、むせてしまう、耳の奥で脈がバクバク音を立てているけれど、どうしてこんなに動揺しているのでしょうか。やましいことをしていたからですか、そうですか。
そうして、そのまま必死にあーちゃんの枕から顔を離して、ばっと寝室の入り口を振りかえる。でも、そこにあーちゃんの顔はない。
………………あれ、どうやら音がしたのは浴室の方だったらしい。
でもそっか、まだお風呂から出ただけだよね。そりゃそうだよね。
ごしごしと布が擦れる音がするから、身体を拭いているのだろうか。
そんな情景を一瞬頭の中で想像しかけると、同時に今朝見た彼女の下着姿が重なりかける。なので、私は必死に頭を振って、そんな妄想を振り払った。
そうして、あーちゃんに気づかれぬうちに、私はそっと枕を元の位置に戻しながら、膝を丸めてベッドの端っこへと縮こまる。今の私はダンゴムシ。やましいことは何一つしていません。
もう手遅れじゃろと、脳内の神が啓示を下してきたけど、私は預言者じゃないので聞こえません。
そうして、そのまま白々しく、ベッドの上で丸々こと、およそ数分。
「あれ、何してんの?…………せんせい、そんな姿勢で」
きぃっと寝室に顔を出したあーちゃんは、不思議そうに首を傾げてた。
「………………」
当の私は、何を説明しても、ボロを出す気がしたので、黙ることしかできません。答えは沈黙なのだよ、あーちゃん。
「…………なんか、やましいことしてた?」
だというのに、あーちゃんは視線を細めて、じっとこちらを見定めてくる。おかしい、何もボロは出していないはずなのに。
仕方ないので、そのまま身体を丸めて、よりダンゴムシになりきることにする。心までダンゴムシになれば、きっとバレないはず。そんな態度こそが、やましいことをしていたと白状するのと同じ……なんて事実には目を瞑ることとする。
「…………なーにしてんだか」
そして、あーちゃんは、冷や汗を垂らしながらまるまる私の方へと、寄ってくると、つんつんとおでこを突っついてくる。ちらっと顔を上げると、どこかいたずらっ子のような瞳が私を見下ろしていた。
そうしてそのまま、おでこをつんつんとつつかれ続ける。
ぐ、ぐぬう。まじで、子どもにつつかれてるダンゴムシみたいになってきた。
結局、数分、そのままつつかれ続けて、耐えきれずに私は丸めた身体を解除して人間へと戻された。なぜかひーひー息が荒れてるけど、そんな私を見ながら、あーちゃんはどこか可笑しそうにくすくす笑ってた。
「せんせいは、相変わらず、ちょっと変だよねぇ」
そんな教え子の台詞に、ぐっと息が詰まる感覚がする。おかしい、そういうのは教師側の常とう句じゃなかろうか。
なんて私が懊悩をすること、およそ数秒、あーちゃんはひとしきり笑い終えると、ベッドからすっと立ち上がった。
「あれ、あーちゃん?」
まだ、やることあったのかなと首をかしげると、あーちゃんはぽんぽんと私の頭を撫でてくる。
「じゃ、おやすみ、せんせい。私、リビングの方で寝てるから。何かあったら呼んで?」
そうして、彼女は何気ない調子で寝室から出て行こうとする。
「え、どういうこと?」
そもそも、ここはあーちゃんのお家で、ここはあーちゃんのベッドではないのですか。
だから、咄嗟に出て行こうとするあーちゃんを、呼び止めてみたのだけれど。
「………………いや、そりゃあ。だって、うちベッド一つしかないし」
そう言いながら、あーちゃんはそっと肩をすくめてた。
え? ってことは、あーちゃんはこのまま、リビングか何処かで寝て、私は家主のベッドでぬくぬくと眠れということですか?
さすがにそんなことができるほどの図々しさは、持ち合わせがないのだけれど。
「…………うーん、じゃあ、私がリビングで寝るよ。あーちゃんがベッド使って?」
仕方ないと、もぞもぞとベッドから這い出して、ベッドをあーちゃんへと明け渡す。だけど、あーちゃんはふぅっと軽くため息をつくと、窘めるように私を見下ろした。
「ダメだよ、せんせい、あんま眠れてないんでしょ? 私は、若いから多少平気だよ」
そう言いながら、あーちゃんばベッドをぽんと叩いた。
「ダメだよ、あーちゃん。住むとこまでお世話になってるのに、そんなことさすがにさせられないよ。だから、あーちゃんがベッドで寝て? 私は床でもなんでもいいから」
負けじと私も、ベッドをぺしっと叩く。
「「……………………」」
しばし、二人で睨み合い、しかし、ここで譲るのは、さすがに元教師の沽券に関わる。教え子を床で寝かせるなんて、言語道断。
よって、私はここで退かない。もうお薬が効いて結構眠いけど、引けない戦いがここにある。
それに、あーちゃんには明日もお仕事がある、なので早めに休んでもらわなければならない。よってここは電光石火。兵は神速を貴ぶのです。
「じゃあ、せんせいは、どうすればいいっていうの?」
「そんなの、一緒に寝ればいいじゃん!!」
そんな私が出した選択は、シンプルイズベスト。寝る場所が一つしかないのなら、二人で寝ればいいじゃない。心の中のマリーアントワネットも、そうだそうだと頷いております。
「………………」
「……………………?」
しかし、対面のあーちゃんの顔は、酷く呆れ顔。ほんま、このぼんくら教師は、とでも言わんばかりの表情をしております。おかしい、これは名将の一手だったはず。
「あのさあ、せんせい…………」
「なんだい、あーちゃん…………」
なので、あえて堂々と腕を組んで、何を言われようと毅然とした態度を取ることを決意する。
…………予定ではあったのですが。
「…………昨日、襲われかけた自覚ある?」
そんな、あーちゃんのため息交じりの、呆れた声に。
「……………………」
私は何も言葉を紡げず、腕を組んだまま固まって。
「………………どうせ忘れてたでしょ?」
「……………………むにゅ」
ただ、情けない鳴き声を、漏らすことしか出来ないでいたのでした。
「まあ―――別に私はいいけどね?」
「………………にゅう」
そうして腕を組んだまま、いやに熱い頬の火照りを感じる私を。
あーちゃんは、つんつんとおでこをつついて遊んでいたのでしたとさ。
「にぶちん教師」
「…………にゅにゅにゅ」
ぐぬう、今だけは、言い返す言葉が何も湧いてこぬ。
どうせ、いつもそうだろうとか、悲しい事実は言ってはいけない。




