第1話 教え子と一緒に暮らす
あーちゃんの凄いところは、何といっても行動力と実行力。
高三の頃に、体育祭で優勝すると決めたら、実行委員になって、クラスをまとめて、本当に優勝させたことがあるくらい。
そんな彼女が、そうすると決めた以上、必ず結果は現れる。
そんなことは、重々わかってはいたのですけど…………。
「いらっしゃい、せんせい」
「お、お邪魔します…………」
その日の夕方にはもう、私は彼女のアパートに連れてこられていた。
元の住まいの引き払いや、引っ越し作業の予定まで、あっという間に立てられて。
あとは私が判子を押せば、問題なく明日から、あーちゃんの部屋で生活ができるようになっている。
………………さすがにスムーズすぎない? なんて疑念は湧いてくるけど、今の私に抗議する権利はない。具体的に言うとお金と立場がない。
よく整理された玄関を抜けて、少し広めのリビングにそっと足を踏み入れる。
「……………………わぁ」
涼し気な水色のカーテンが目につくリビングは、玄関と同じくよく掃除が行き届いていて、あーちゃんの生来のこまめさがよくわかる。派手じゃないけど、落ち着いていて、とても素敵な部屋。…………てか来客の想定がなくて、このクオリティか。
ふっと私のちんまくて、辺りにチラシが散らばったワンルームを思い浮かべると、比較で涙がちょちょ切れそうになる。
「どうしたの、せんせい。座って?」
リビングの小さな椅子を引いて、あーちゃんにそう言われたから、私はおずおずと腰を下ろした。なんだか、こうやって他人様の家にあがるのも、随分と久しぶりな気がする。
思わず、きょろきょろと物色しそうになる欲を抑えながら、居住まいを正す。そしたら、あーちゃんは引き出しから何かを取り出して、私の向かいにそっと腰を下ろした。
「はい、これうちの合鍵ね」
そういって、私の手に、チャリンと音を立てて、キーホルダーもついてない鍵が乗せられた。
少し冷たくて無骨なその手触りを感じながら、私は思わず、少し息を呑む。
「………………? どうしたの、せんせい」
そんな、あーちゃんの声を聴きながら、私はまだうまく現況が飲み込めないでいた。
「…………ねえ、あーちゃん、本当にいいの?」
そう言って顔を上げると、あーちゃんは不思議そうに、そっと首を傾げた。
「何が?」
「本当に…………私なんか住ませていいの?」
手のひらに乗った鍵が、どうしてか、少し重い。
「………………」
「だって、いくら余裕があるって言っても、お金はかかるでしょ? あーちゃんの時間だって減っちゃう。…………それに、もしあーちゃんが好きな人が出来た時、私がここにいたら邪魔になっちゃうよ?」
社会に出て、改めて分かったことだけど。どれだけ綺麗ごとを並べようと、この世界はお金で回ってる。住む場所を借りて、ご飯を食べて、服を着て、保険や年金を払って。
その全てにお金は必要で、それは彼女が沢山の時間をかけて稼いだ、大切なものだ。
本当は、きっと彼女の将来や、共に人生を歩く人のために使われるべきで。決して路頭に迷った、高校時代の教師なんかに使われていい物じゃない。
自分が働けなくなって余計に、その価値の重さを痛感することが多くなった。
「あーちゃんが、優しさで提案してくれたのはわかってるよ。…………でも、やっぱり…………」
だからこそ、教え子にそんな重荷を背負わせる勇気が、きっと私にはなかったのだと思う。
どうにか震える声で、顔を上げる。
ここまで来て、今更って思われるだろうけど、やっぱり言っておかなければいけない気がしたから。
そんな私を、あーちゃんはじっと見つめながら、少しだけ目を細めてた。
「学生の頃から想ってたけど―――」
そうして、すっと私の手の上の鍵に指を添えて、そのまま私の手のひらをゆっくりとなぞってく。それが少しくすぐったかった。
「せんせいってさ、自分のことをすっごく低く見積もってるよね」
静かで落ち着いた諭すような声。それゆえに、私は思わずうぐっと唸るように言葉が詰まってしまう。なんか、同じことを相談員の人にも言われたような…………。
「体育祭の祝勝会の時もさ、自分独りだけ、後片付けとか色々してて。みんなせんせいと一緒にお祝いしたかったのに、私はいいよーなんて言っちゃってさ」
あーちゃんはそのまま、すーっと私の手首に指を添わせて、じっと私の瞳を見つめてくる。澄んだ茶色の瞳が、私の欺瞞を見透かすように、すっと静かに細められていた。
「想像して欲しいんだけど―――」
「ようやく社会で働いて、自分の生活が出来るようになって、どうせんせい、私、立派になったよって褒めに行ってもらおうとしたら」
「肝心のせんせいが、独りで生活に困って、誰も頼らずに苦しんで、何でもないようなフリしてて」
「それで言うわけ、私のことなんて気にしないで幸せになってね―――って」
「そんなんでさ、私が本当に、じゃあ後は自分の人生を楽しむぞ、なんて心から言えると思った?」
すーっと私の腕をなぞり上げた指が、ゆっくりと私の首を伝って、最後に顎に引っ掛けられる。そうして、軽く視線を誘導された先には、あーちゃんのじっと睨むような瞳が私を見据えてた。
「う…………うにゅ…………」
は、恥ずかしさと気まずさで、その眼がうまく見れない。だから視線をどこかに逸らそうとするのだけれど。視界の橋では、じっとあーちゃんの視線が私のことを捉え続けてる。
「…………だからね、せんせいが笑ってくれないと、私この先、心からちゃんと幸せになれないの、わかった?」
なんだか、お説教を受けているかのよう。教え子に幸せの何たるかを諭されている、思わずしょんぼりと肩を落とすと、はあと小さくため息を吐かれてしまった。
「まあ、でも…………本当にイヤならいいよ、断って。どうせ、もう証拠は消しちゃったわけだし」
そう言ったあと、私の手から鍵がチャリっと音を立てながら、そっと静かに持ち上げられる。
「せんせいの人生だもん、無理強いはよくないよね」
鍵が小さくふらふらと、私の前で揺らされている。あーちゃんの指に、ぶら下げられて。
「せんせいには、せんせいの都合があるわけだし」
そう告げるあーちゃんは口元を手で隠していて、表情はうまく窺えない。
「でもね、せんせい。せんせいは、どうしたいの?」
そんな彼女の静かな問いに。
私は、少し顔を俯けてしまっていた。
※
「あーちゃんはあれだねー、自分の幸せを軽く見積もってるとこがあるよね?」
ある夏の日の、静かな国語準備室の、いつかの光景。
そこで私が口を開くと、あなたは資料集に顔をうずめたまま「はあ?」と、不機嫌そうに胡乱な瞳を向けてくる。
「なに、せんせい、お説教?」
そんな彼女の問いに、私はうーんと唸りながら、首を横に振る。
「そうじゃなくて…………なんていうんだろ、勿体ないというか?」
私がそう言いながらぴんと指を立てると、余計にガラの悪い視線を頂いた。相手が優しいあーちゃんだとわかっていなかったら、ちょっと泣いてたかもしれない。
「だって、あーちゃんは、あれでしょう? ちーちゃんのことを守りたくて、悪者になろうとしたんでしょ?」
だけど私も負けじと、指の二本目を立てて、さも当然のように言葉を続ける。「買い被り」と反論が聞こえてきたけど、聞こえないふりをすれば意味がないのだよ、あーちゃん。
「だけど、それであーちゃんが泣いたままだったら。ちーちゃんはその後、ちゃんと笑えなくなっちゃうと、せんせい想うのです」
そうして、構わず持論を展開する私を、あーちゃんはやれやれと肩をすくめながら見つめてた。「能天気教師がなんか言ってる」なんだと、こんにゃろう。
「それに……能天気教師だって、あーちゃんがちゃんと笑ってくれないと、心配で夜も眠れないのです」
「何それ、どうせ嘘でしょ…………」
「嘘じゃなーい!! 昨日だって、心配で4時間半しか寝れてないんだよ?!」
「そこは嘘でも、一睡もできなかったとか言いなよ…………」
「あーちゃん、大人になるとね…………徹夜とかできないの!! 特に夏は体力がやばいの!!」
「はあ、で、何の話? これ…………」
「そうだねぇ―――まあ、要するに――――」
そうやって、繰り返したやり取りは、ドラマで見るような、涙を誘う感動のエピソードとはとても言えなくて。
その日の夜は、結局また、ああいえばよかったかなって反省会をして、上手く眠れなかった気がする。
我ながら、拙いお説教で、きっと想い出の中のどこかへと、消えてしまうような、そんなやりとりだったはずだけど。
「ねえ、せんせい。せんせいは、どうしたいの?」
眼の前のあなたの瞳は、何かを試すように細められている。
言葉にはしてないけど、あの頃のやり取りを、思い描いているのは多分、私だけじゃない。
うう、これが因果応報というやつですか。
少し俯きながら考えるけど、心はうまく定まらない。
わからない、私はどうしたいんだろう。
教え子に迷惑をかけてまで、隣に居るべきなのだろうか。
それでも、生活の苦しさは覆しようがない。渡りに船なのも確かではある。
だけど………………。
そうやって、上手く答えを見つけられない私を見ながら、あーちゃんはそっと静かに微笑んだ。
「ねえ、せんせい」
『ねえ、あーちゃん』
「こうするべきとか、ああしなきゃ、みたいなのは一旦置いといて」
『こうしなきゃとか、ああするべき、みたいなのは一旦置いといて』
「せんせいが、本当にしたいことだけ教えて?」
『あーちゃんが、本当にしたいことだけ教えて?』
そう言って、あなたはぽとりと、もう一度私の手元に鍵をそっと落としてきた。
私は――――私は一体、どうしたいんだろう。
胸の奥で何かがつっかえたように、上手く言葉になってくれない。
「そうだなあ…………じゃあ、せんせい、一つだけ教えて?」
「私と一緒にいるの…………いや?」
でも、そんな彼女の問いにだけは。
迷いなく、答えられた気がした。
「ううん」
「――――いやじゃないよ」
そう言って、首を横に振る私に向けて。
あーちゃんは、優しい笑みで、そっと頷いてくれていた。
それを見つめる私の手の中で、小さな鍵は確かな重みを持って、そこに佇んでいた。




