プロローグ あや―③
高校2年から3年で卒業するまで。
私の想い出の大半は、あの小さな国語準備室の中だった。
校舎の隅っこにある小さな部屋、本棚と資料が立ち並んで、少ししけった独特の匂いがする、そんな場所。
春から、冬まで、想い返される情景は山のようにあるけれど。
ふっと、最初に想いだすのは、いつも暑い夏の日と、窓から見える、どこまでも突き抜けるような蒼い空。
クーラーの効いた部屋の中、遠くから響く運動部の声を聴きながら。少し外界と切り離されたようなその場所で、せんせいと小さな声でぽつぽつと何かを喋ってる。
「ねえ、せんせい」
「なあに、あーちゃん」
あなたは小さな椅子に腰かけて、マグカップに入れた冷たいカフェオレを私の前に置きながら、静かな声で返事をしてた。
「―――どうして、私を信じたの?」
我ながらひねてた子どもだったから、あの時は、そんなせんせいを困らせるようなことばかり、聞いていた気がする。
「先生が教え子を信じるのは、そんなに珍しいこと?」
あなたはそう言って、優しく微笑んでいただろうか。
「………………そんなこと言ったら、あいつらも、生徒じゃん。せんせいのクラスじゃないけどさ」
だけど、私はそんな答えに満足できなくて、試すように意地悪ばかり吐いていた。
「そーだねえ……、それも一理あるのは、あるかな。だから、あの子たちの言い分もちゃんと聞いたよ? 聞いたうえで、あーちゃんの言葉を信じただけ」
でも、あなたはそんな私に気分を害した風もなく、なんでもないように、そう口にしてたっけ。
「他の先生は信じなかったのに?」
そう漏らした言葉が滲まないように、あえてぶっきらぼうに堪えていた感覚を、私はまだ憶えてる。
「……そうだね―――でも、だからこそ、あそこで誰か一人は、あーちゃんのことを信じてあげなきゃダメだって……想ってたかな」
あなたのそんな、少し寂しそうな、言葉の震えを。
「……何それ、憐み?」
それでも、必死に答えを探そうとしてくれていた、あの些細な一時を。
「うーん…………どうだろ、そう言っちゃうと、少し悲しい気がするけれど」
私はきっと、一生忘れらないままなのだろう。
「………………」
「…………ねえ、あーちゃん」
「なに」
「あーちゃんはさ、4月に私が、階段で資料集を運べなかった時、何も言わずに助けてくれたの、憶えてる?」
「………?」
「…………私あの時ね、独りで凄く困ってたから、本当に嬉しくて。それで、ああ、この子は優しい子なんだなって………………そう想ったんだ」
「………………それだけ?」
「………………うん、それだけ」
そう言って笑うあなたは、ちょっとした秘密を話すみたいに、どうしてか酷く楽しそうで。
それで、なんだか、毒気を抜かれてしまった。
「…………せんせいはさ、あれだね、詐欺とかに引っ掛からないよう気を付けなよ」
「え、それ、どういう意味?」
「国語教師でしょ、自分で考えて」
「えー…………なに? ……騙されやすいってこと?」
そんなどうでもいい、些細なことで、簡単に他人を信じてしまうあなたに。
私が、どれだけ救われたかを。
きっと、あなたは知らないけれど。
※
「ねえ、せんせい」
ふぅっと息を吐きながら、私はそっと床に散らばっていたチラシを手元に引き寄せた。
そこには賃貸や求人が大きな文字で描かれているけれど、書いてあるのは×印ばかり。しかも、賃貸のチェックが点いてるのは、決まって酷く家賃の安い物件。
「…………なあに? あーちゃん」
あなたは、そんな私の言葉に、無警戒に首を傾げてる。脇の甘さは、なんていうか、相変わらずだね。
「昨日ははぐらかしてたけれど、実際、今どうやって生活してるの?」
そうやって私が尋ねると、せんせいの肩はわかりやすくがくんと揺れた。
「え………………えーと…………その」
ちらりと、そのまま床に散らばった書類に軽く目を向けると、医療費や、保険、年金という文字がちらちら見える。まあ、案の定って感じだろうか。
「賃貸のチラシあるけど、引っ越しするの? こっちはバイトのチラシ?」
淡々と、状況証拠だけを、せんせいの周りにゆっくり並べてく。気分は取り調べをする警察官か何かのよう。まあ、この犯人は、ほっといても勝手に自白しそうだけれど。
「うう………………えっと……あの」
「……………………」
もう充分追いつめたので、あえてせんせいの言葉を待つ。するとせんせいは、ぷるぷると小動物のように震えた後、じわりと目に涙を浮かべ始めた。
「実は………………その、私、今…………教師、辞めちゃってて…………」
なんだか、叱られることをやらかした、子どもの報告を聞いてるような気分になってきた。もちろん、生活に関わるから、深刻な話に違いはないのだけれど。
「……うん、知ってる」
ひぃん、とせんせいが情けない泣き声を上げる。というか、本気で隠し通せると思っていたのだろうか。状況証拠はあちこち、自分でばらまいているというのに。
「それで…………その、しばらく働けてなくて…………」
まあ、そこら辺までは、予想の範疇だろうか。私は軽く頷きながら、「ふうん、それで?」とせんせいに続きを促した。
「さ、最近、ようやく、リハビリ施設的なところに通えるようになったんだけど…………」
「……だけど?」
大体、話の流れが読めてきたなと考えながら、私はいよいよ、本格的に叱られた子どもみたいになってきたせんせいをじっと見る。
「その…………えっと…………あの」
「………………」
えらく躊躇うな…………と、しばらく待つけど、言葉の続きは出てこない。まだ何かがせんせいを躊躇させているのだろう。まあ、なんとなく、想像はつくけどさ。
なんてぼんやり考えながら、チラシを何枚か捲っていたら、その下に銀行の通帳が挟まっていた。さすがに勝手に覗きはしないけど、ああ、と思わず納得する。
「………………えと」
「――――貯金でもなくなった?」
そう尋ねると、せんせいの肩は、思いっきりびくんと揺れた。なんて正解がわかりやすい反応だろう。
ちらっと通帳を指さして、軽く「見ていい?」と尋ねてみる。さすがに、せんせいももう観念したのか、すごすごと頭が下げられた。
ちらっと捲った通帳の中身は、案の定というかなんというか。ただ引き出されたマイナスだけが並び続けて、一番下にある現在の預金は、あと1・2か月まともに暮らせるかどうかってとこ。
せんせいが仕事を辞めたって聞いたのが数年前。そこまでの貯金と、失業保険とか傷病手当とか諸々考えたら辻褄はあう。そして、それがそろそろ限界だということも。
「…………実家とか戻らないの?」
最終日に夏休みの宿題をやってなかったことがバレた子どもみたいになってるせんせいに、そう尋ねると、しょぼんと顔が俯けられた。
「仕事を辞めた時に、両親と喧嘩しちゃって…………戻りにくくて」
なるほど、見事な八方塞がりだね。
というか、改めて思うけど、なんでこの人昨日私に奢ったんだろう。なんなら、私が奢ったほうがよかったまであるじゃん。
はあと、こっそりため息を吐く。ここに至るまで、ほとんど人を頼ってないあたりが、なんというか私のよく知るせんせいって感じだった。
人に迷惑を掛けたくないって、優しさなんだろうけど。心配する身にもなって欲しい。
「なるほど、わかった」
既に体感、小人くらいのサイズまで意気消沈しているせんせいを見ながら、私はさてどうしようかなと考える。
最初はまあ、ちゃんと連絡先を確保して、定期的に会う約束をとりつけてくらいに考えていたけど。これはそれだけだと足りなさそう。
せんせいだって立派な大人なわけだし、あまり人の人生に過度に干渉するのはよくないけれど。でも、この人、私達の誰にも連絡もせずに、消えた前科があるしなあ…………。
しばらく通帳を手の中で弄びながら、うーんと唸る。
ただ、悩んだふりはしてるけど、心の中では、半ば結論は決まっているような気がした。
このまま、じゃあ元気でねってお別れして、またしばらくしたら音信不通になって、そっからずっと死ぬまで会えない。
そんなのはもう、まっぴらごめんだ。
「ねえ、せんせい」
「………………うう、なに、あーちゃん」
ほぼ半泣きになっているせんせいに、私は何気なく、口を開いた。
「―――――じゃあ、うちに住む?」
「へ―――――?」
せんせいの口が、ぽかんと開く。
「幸い部屋は空いてるし、私もせんせい一人くらいなら養えるから」
「え―――――あ――――――――」
段々と、その頬が赤く染まってく。
「引っ越しも手伝うし、罪悪感あるなら、期間限定とかでもいいからさ」
「だ―――ダメだよ、私なんかが、あーちゃんにそんな迷惑…………」
そうして、あなたが咄嗟に拒むのは、なんとなくわかってた。
ゆっくり理屈で問い詰めてもいいけれど、どうせ最後には「私独りで頑張るから」なんて逃げられるのが眼に見えている。
だから、この瞬間だけは、躊躇っちゃダメ。
無言であなたの前に、私はスマホをすっと差し出すと、再生ボタンを無造作に押す。
『あーちゃん! 私だって、ホントはあーちゃんのことが! あーちゃん! あーちゃん!! あ――――――』
室内に大音量で響くのは、昨晩あなたが酔いつぶれて告げた、そんな声。高くて、どことなく甘い響きが漂った、普段のせんせいからは絶対に聞けないような嬌声。
「ねえ、せんせい」
「私が『自分が不利になる証拠』だけ、残してると、ホントに想った?」
対面の先生は、顔を真っ赤にしたまま、口元を震わせながら固まっている。
「今、せんせいが頷いてくれたら、これ間違って消しちゃう気がするんだけど」
「ねえ、せんせい、もう一回聞くね?」
「―――うちに住まない?」
そんな私の、最後の一手で。
「……………………はい」
せんせいは、顔をトマトみたいに真っ赤にしたまま、小さく頷いた。
うん、満足。
湯気が立ちそうなほどに、指先まで震えてるあなたを横目に見ながら、私は役目を終えた音声を、そっと削除する。
本当は、個人的に残しておきたい気持ちもあったけど。
まあ、仕方がないね。
隣でぷるぷると、真っ赤に震えるあなたの姿を見ながら、私は、こっそりと微笑んでいた。
「言ったでしょ? 逃げられると想わないでねって」
「ひゃい………………」
というわけで、私達、今日から、一緒に暮らすことになりました。




