プロローグ せんせい―③
社会に出た後、手放しに笑顔で想い浮かべられる記憶が、私に一体どれだけあるのだろうか。
教師として過ごしたわずかな時間の中ですら、思いだしたくない言葉や痛みは、それこそ山のようにあって。
沢山の理不尽、積み重なる痛みと疲弊、誰かの心無い言葉。
そして、それを何一つ、覆すこともできない無力感。
もう一度、教職に戻りたいかとカウンセラーに聞かれた時に、私は咄嗟に、首を横に振ってしまった。
戻る資格がないと思った。求められてもいないと思った。
でも、何よりきっと、私自身がもう怖くなってしまってたんだ。
あの場所を、あの役割、あのシステムを。そして、そこで何もできない私自身を。
そんな辛い記憶ばかりが想い起こされる、数年間ではあったけど。
それでも、少し自慢できるところがあったとすれば。
こんな私に心を開いてくれた子が、ほんの少しでも、いてくれたことだろうか。
きっと、これからすくすくと、大きな木が伸びていくように、素敵な大人へ育っていく若木のような優しい子ども達。
優しくて、温かくて、繊細で、でも逞しくって。
そんなあの子達の大切な時期に、たった1年か2年の間でも、傍で見守らせてもらったことが。
もう教師を辞めてしまった私にとって、数少ない誇りだった。
あーちゃんは、その中でも、特に優しくて、聡明で、人と痛みを分かち合える子だった。
こんな子と、人生を共に歩める人は、一体どれほど幸せだろうと。
小さな国語準備室での、静かなお昼休み。いつものようにお昼寝をする、あなたの頭を撫でながら。そう想ったことが何度あっただろう。
それを見届けることができたなら、私は満足だと想ってた。
それが、私の幸せだと想ってた…………想ってたのだけど………………。
※
夏の朝陽が、嫌に眩しい、アパートの一室で。
かつての教え子と教師である私達は、お互い下着姿のまま、ベッドの上で向き合っていた。
半ば土下座の体勢を取って、どうやって、あーちゃんへ贖罪ができるかを、私は必死に考えていたのだけれど。
「――――まあ、冗談はこれくらいにしとくとして」
え?
「…………あのさあ、せんせいは昨日酔ってたんだよ? それで私が手を出してたら、不同意性交でしょ。もしそうなったら、せんせいは明日の新聞心配するんじゃなくて、まず私を警察に突き出さなきゃいけないの」
あーちゃんは、布団にくるまったままそう言って、黒髪を軽く振りながら、やれやれと肩をすくめてた。あ…………あれ、これってもしかして。
「そ、それじゃあ…………」
喉の奥から何かが零れそうになるのを感じる。胸の奥が、期待とも、安堵ともつかない何かに震える。
これはつまり、その、まさか。
そうして、淡い希望と、共にあーちゃんの口から漏れた言葉は―――。
「あ、でも、キスはしたから」
「下着姿で抱き合ってたのも、ほんと」
「泣きながら可愛い声出してたのも、ほんとね」
「ただ…………えっちまではしてないよ」
…………………?
「あの、あーちゃん?」
「うん? なに、せんせい」
「私経験ないから、あんまりわからないんだけどさ……」
「うん」
「それは―――――――えっちと何が違うの?」
大人がほぼ裸で抱き合って、キスしたら、それはえっちと呼ぶのではないのでしょうか。
「……大事なとこは触ってないよ?」
「そういう問題かなあ!?」
わかんない、世の中ではこれくらいお遊びの範疇なのだろうか。いやしかし、教職時代にやってたら、ほぼ間違いなく懲戒免職なわけで。
やっぱり、明日の紙面に載る気がしてきたよ………………。
あうあうと、思わず零れる涙が抑えきれない。
「………………なに、私と一緒に寝たのが、そんなに嫌だったの?」
そうして、まだ立ち直れない私を、あーちゃんは少しぶっきらぼうにねめつけてくる。顔はほんのり紅くて、酷く不満そう。
「違うよ!! あーちゃんと同衾して、嫌がる人なんてこの世界にいません!!」
なので、思いっきり否定した。我ながら、寝起きとは思えないでかい声が出てびっくりしたけど。否定するべきところはしっかりと否定しなければいけないのです。
「…………そ、そう。じゃあ、なんでそんな泣いてるの?」
「だって、あーちゃんの、大事な心と身体に傷を…………」
それはまるで、世界にたった一つしかない果実にうっかり爪で触れて、傷をつけてしまったような罪悪感。
ああ、可能なら昨晩に戻って、過去の私を鉄パイプで殴り飛ばしたい。そしてタイムパラドックスで、そのまま消滅したい。
そうやって、私が頭を下げながら、ひたすらめそめそしていると、あーちゃんは軽く息を吐きながらぽんぽんと頭を叩いてくる。
「…………私のことは、気にしなくていいよ、嫌だったらしてないし。…………っていっても、せんせいは、気にするんだろうけど」
うう、優しい。優しくて余計に涙が出てくる。ぽんぽんとあやす指使いが、心地が良くて、これじゃあ、なんだか私の方が子どものようだ。
「うう…………ほんとにごめんね、あーちゃん………………」
そうして、涙をずびずびと啜る私に、あーちゃんはそっと優しく微笑んだ。うう、相変わらず、心の奥は誰よりも優しい子だよ、あーちゃんは。そう思考した、直後のこと。
「うん、じゃ、せんせい――――スマホ出して?」
ひゅっと、肺から息が抜けるような音がした。
どうしてだろう、そうやって告げたあーちゃんの声が、どこか有無を言わせぬ響きを含んでいたからだろうか。
「あ、あの………………」
それは、被告が逃げられないよう、事故の時に免許証出す的なあれでしょうか…………。
「せんせい?」
あーちゃんの顔は酷く笑顔だ。笑顔がゆえに、抗えるものではないと、本能が訴えかけてくる。いや、もう抵抗するのはよそう………………罪は償うためにあるのだから。
「ご…………ご査収ください」
私は床に落ちていた自分のスマホを拾い上げて、両手に乗せたまま、そっとあーちゃんに献上する。
「ん、ロック解いて」
あーちゃんは、それを無造作に受け取ると、自分のスマホを開きながら、淡々と操作をはじめる。
「………………はい」
暗証番号を入れて、無防備になった私のスマホを、再び献上した。一体何が行われるのでしょうかと、尋ねる権利すら、もはやない。
そうして、あーちゃんはしばらく私のスマホと自分のスマホを両手で操りながら、ふむふむと唸ったのちに、何気なく私の手に再びスマホを乗せた。
同時に、ピロンと小さな音がして、私のスマホの画面が光る。
『あや』がスタンプを送信しました。
アプリを開くと、デフォルメされた猫のアイコンから、同じ柄の猫のスタンプが送られてきていた。
『よろしく』と気まぐれそうな猫が、画面の中で欠伸をしている。
ちらっとあーちゃんの方を窺うと、どこか満足そうにこちらに微笑みを向けていた。
「………………」
そのまま、口で返事を返してもよかったはずだけど、私は何となくそのまま自分のアプリからスタンプを飛ばし返してみる。
『よろしくお願いいたします』と頭を下げる、ハムスターのスタンプが、猫のスタンプの下にぴょこっと表示される。同時に、あーちゃんのスマホから、ぴこんとまた一つ音が鳴っていた。
二人でなんとなく、目を合わせて、何とも言えない表情になる。
どうしてか笑いだしてしまいそうな、なんだか少し恥ずかしいような。
彼女が高校生の頃は、公私混同になるからと、個人的な連絡先の交換はしてこなかった。
だから、少しむずがゆいような、そわそわするような不思議な感覚がする。
場違いだけど、なんだか嬉しくなってしまうのは…………私の連絡先に入っている人が、あまり多くないからだろうか。
なんて、力のない笑みを浮かべかけたころ。
ぽひょっと音が鳴って、あーちゃんからまたメッセージが来た。
……………………?
送付されたのは、何かのファイル。音声……だろうか。少し長めで、まだダウンロードが済んでないけど。
「あーちゃん、これなに?」
そう尋ねながら、ふっと顔を上げたけど、あーちゃんの視線はこっちに向いてない。
さっきまでの、温かさがどこか鳴りを潜めたように、少し目線を細めて、じっと自分のスマホを見ている。
「言ったでしょ、『証拠がある』って」
そうして、告げられるあーちゃんの言葉は、どこか無機質で。まるで、感情を意図的に込めないようにしているかのようで。
「それ、昨晩、私がせんせいに迫った証拠」
ふっと、時間が止まったような錯覚があった。
「さっきも言ったけど、酔ってる相手に手を出してたら、最後までしてようが、してまいが犯罪だから」
「それ持って警察行ったら、せんせいは、いつでも私を訴えれらるよ」
「だから、気が向いたり、やっぱり嫌だと思ったら、いつでもそうして」
「私、言い逃れなんてしないからさ」
そうして、軽く肩をすくめながら、あーちゃんはそっと視線を落とした。
静かに、落ち着いた表情で、まるでなんでもないことのように。
私は思わず、手元のスマホに映った、音声ファイルをじっと見る。
…………そっか、いくら私が罪悪感を抱こうが、この件は社会から見るとあーちゃんが加害者なのだ。
もし、本当に私がその気になったら、あーちゃんは一つもいい訳ができない。…………いい訳ができないように、自分で証拠まで残してる。
もちろん、自分に不利なことをしたからと言って、社会に罪が許されるようなことはない。法というシステムは、そう甘くは作られてない。
彼女は今、紛れもなく過ちを犯してて、それを罰せられることまで受け容れている。
そんな事実を理解して、私ははあ、と一つ息を吐く。
「ねえ、あーちゃん」
そういうとこは、何も変わってないね、この子は。
「嘘吐くの―――やっぱり、下手だね」
ふっと、息を吐きながら、私は彼女が送ったファイルをスワイプする。
そうして、紅い印が付いたボタンをタップした。
「………………ちょっと、せんせい、今何したの?」
あーちゃんは、どこか怪訝そうな表情でこっちを見てくる。だから私は軽く肩をすくめて、やれやれと息を吐いた。
「え、証拠のファイル消しただけだよ? ――――要らないから」
まあ、元データはあーちゃんの、スマホにあるんだろうけど。それでも、私のスマホに残しておく意味はない。
「いや…………なんで? 自分のやってること解ってる?」
困惑したように眉を寄せる彼女を見ながら、私は電源を落として、スマホをぽいっと枕の方に投げてしまう。それからぐーっと伸びをすると、身体がバキバキと運動不足の音を立てていく。
「だって、あーちゃんが、そんな一方的に相手を傷つけるようなことするわけないし。…………ってなったら、証拠も多分、自分が悪者に映るように撮った偽物とかでしょ? そーいう悪いとこで真面目なの、ほんと変わってないよねー」
ふぅっと息を吐きながら、肩の力を少し抜く。うん、なんだかようやく落ち着いてきた。いつものあーちゃんらしいところを見たからだろうか。唖然としたままのあなたの表情すら、今は懐かしくて微笑ましい。
だから、私はそっと微笑んで、
「どうせ、私の方が色々と滅茶苦茶して、結果的にああならざるおえなかったんでしょ? それなのに、私が傷つかないよう自分が悪者になろうとするの、いかにもあーちゃんって感じだよね」
ちっちと指を振りながら、いつかの頃のように、年上らしい笑みを浮かべてみる。
「せんせいには、お見通しなのだよ? あーちゃん」
もちろん、それが嘘であれ事実であれ、褒められたことでは決してない。
だけど、私はあなたの、そういう所が好きだった。
そうやって、多くの人に認められる形でなくても、確かに誰かを想う。洞窟の奥にぽつんとある、陽だまりのような、そんな温かさが好きだった。
だからこそ、そんな嘘、私には通じないのだと、いたずらっぽく笑って見せると。
あーちゃんはバツが悪そうに眼を逸らしたまま、ぽそっと小さく呟いた。
「かっこつけちゃってさ…………にぶちんせんせいの癖に」
そんなあなたの憎まれ口すら、今は懐かしい。
そうして、朝日が差し込む中、二人で笑っていると。
あの夏の国語準備室、小さな部屋で過ごした情景が。
ほんの少し重なって見えた気がした。
――――だからだろうか。
後から想うと、少し油断してしまったような気がする。
そっと伏せられるあーちゃんの視線が、まだ微かに光っていたことに。
彼女が床に落ちていたチラシを、そっと手元に引き寄せていたことに。
この時の私は、さっぱり気が付いていなかったのだから。




