プロローグ あや―②
当たり前のことではあるけれど。
高校生の教え子が、先生の酒癖を知る機会なんて、ほとんどない。
うちの学校の先生たちは、そういう側面をあえて話したがる人でもなかったし。当時の私たちにとって、酒の席というのは、なんだかよくわからない忌避感さえあった気がする。
大人はどうして、平気であんなみっともなく酔っぱらえるんだろうとか、そんなことを思っていたかな。まあ、今でも、変な酔い方する人は、どうかと思うけど。
そういう意味では、せんせいの酒癖は…………ちょっと怪しい。
「うふふ、酔ってないよ? 楽しいだけー、ふふふ」
まず酔ってるのが、すぐわかる。
顔赤い、身体が揺れてる、無駄に笑顔、視線がふらふらとして、声は甘えたように高くなってる。
ちょっとタチの悪い飲み会に放り込めば、30分で誰かに持ち替えられるのが目に見えるようだった。
せんせい、小柄で体力もないから、押し倒すの簡単だろうしなあ……。懐かしの恩師との感動の再会のはずなのに、なんだか段々心配になってきた。
結局、居酒屋を出た後、住所の確認も兼ねて送っていったのだけど。途中で酒を買い足して、そのまま私を部屋に招き入れる始末だし。
あまりに無防備なもんで、さすがに危機感もってと釘を刺したら……。
「私みたいなちんちくりんに、欲情する人なんていません!! よって無事!!」
などと自信満々に豪語されてしまった。絶対、運が良かっただけだ。それか、あまりに無防備だから、逆に周りが気を遣ってきたか。
そんなこんなで溜息をつきながら、招き入れられた部屋をぼんやりと眺める。
酷く小さなワンルームだ、ほぼ新社会人の私が済んでいる部屋より手狭。部屋の隅に置いてあるのは、タンスと本棚だけで、他にものと呼べるものはほとんどない。都会の隅っこの、小さな穴倉の様な場所だった。
机の下に散らばっているのは…………賃貸のチラシかな。バツ印が、何個もついてるけど、どこも安い所ばかりだ。他は……求人のチラシか何かだろうか。
なんとなく察していたけど、あんまり経済的に余裕はなさそう。調子に乗って、さっきの居酒屋で奢ったりしてたけど。後で、せんせいの財布にお金捩じこんどいたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら、部屋の中の小さな座卓にそっと腰を下ろした。どことなく、せんせいの陽だまりのような匂いがして、初めての場所なのに少し懐かしい。
昔は国語準備室で、よくこっそりアイスカフェオレを入れてもらってたっけ。みんなには内緒ねって、いたずらっぽく微笑んで。
そんなせんせいは、いそいそとコンビニの袋からワインを取り出すと、楽しそうにコップに注ぎ出す。
「ワイン飲めるの?」
居酒屋では、さっぱり手を付けてなかったけれど。
「ううん? でも、あーちゃんが飲んでて美味しそうだったから、私も飲めるかなって!」
お元気な答えだ、故に危うい。
「せんせい、大体、失敗する時のやつだよそれ」
なんて私の忠告に、せんせいは、大丈夫大丈夫と無邪気に笑ってた。
そうしてグラスに注いだ、赤紫の液体をじーっと見つめると、そのままぐいーっと飲み干した。案の定というか、すぐうぇーって舌を出している。
「うう、やっぱり甘くない……甘そうな、見た目なのに……」
というか、そんな飲んで大丈夫だろうか。さっき、梅酒1・2杯で出来上がってたけど、この人。どう見ても、アルコール耐性そのものが低そうだけど。
「ぶどうジュースじゃないからね、もっと甘口のやつ探した方がいいよ、数は少ないけど飲みやすいのはあるからさ」
なんて言いながら、私はせんせいが買ってきたワインを自分のグラスに注ぐ。どうせほっといても、せんせいじゃ消費しきれないのが目に見えていた。
「うう…………あーちゃんが大人みたいなこと言いよる…………」
すると、ずびずびと音を立てながら、机につっぷしたあなたは不貞腐れだす。明らかに、更に酒が回ってきてる。どう考えてもワインのせいだねえ。
「そりゃあ、大人ですからね。いつまでも子どもだと思ってると、食べられちゃうよ?」
そう、一応、警告はしてみるのだけど。
「えー、あーちゃんがー? まっさかー」
この鈍感教師は、何も解っていないご様子だ。軽い悪戯くらいしといたほうが、後学のためな気すらしてきたね。
はあ、と私はため息をつきながら、机に突っ伏して少し涎を垂らしかけているせんせいを、そっと見下ろした。
わかってる、この人にとって、私は何時までたっても、教え子の「あーちゃん」だ。親戚の甥や姪を相手にしているのと、何も変わらない。
つまるところ、それは対等に見られていない、ということなのだけど。
「………………? どうしたの? あーちゃん」
だから、あなたの言葉は優しく、穏やかで、慈愛に満ちている。
私がどれだけ、きつい言葉を吐こうが、どれだけ生意気なことを口にしようが、あなたにとっては子どもの駄々だ。
受け容れることこそすれ、言葉通り真に受けることは決してない。
それに救われたことが、あの頃は、何度もあったけど。
「ねえ、せんせい」
どうしたら、あなたが築いたその透明で分厚い壁を、打ち破ることが出来るのだろうか。
「さっきも聞いたけどさ――――まだ、約束憶えてる?」
居酒屋で、一度目の問いを告げた時は、はぐらかされた。
でも、憶えていないはずがない。もし忘れているのなら、人はあんなに切なそうな顔で『なんのこと?』なんて言わないから。
ふっと、時間が止まったような錯覚がする。
あなたは、お酒で紅くなった顔を私に向けたまま、息を飲んでいるようでもあった。
ねえ、せんせい。本当に忘れている人は、そんな顔しないでしょ。
でも、やがて、何かがその喉の奥へ、ゆっくりと落ちていく。
そうして、やがて、せんせいは、ふっとその眼を細めると、静かに優しく口を開いた。あの国語準備室で、何度何度も聞いた、その声色で。
「ねえ、あーちゃん。あれから………………好きな人とか出来た?」
「出来てない―――」
即答した。迷いも、惑いも、一片も残さずに。
そんな私の答えに、あなたは困ったような笑みを浮かべる。
「そっか……でもね、きっと、いつか素敵な人と出会えるよ」
「……………………」
「あーちゃんは、気遣いが出来て、優しくて、賢くて、私の自慢の教え子ですから」
「…………………………」
「きっとね、素敵な未来が待ってるの。あーちゃんに相応しい、優しくて、しっかりものの素敵な人がね、きっとどこかであなたのことを待ってるの」
「……………………………………」
「だから――――…………………ね?」
あなたは少しだけ、目線を伏せた、寂しそうに、切なそうに。
それでも、優しい笑みを崩さぬままに、そっと言葉を紡ぎ続ける。
「………………私ね……今日、本当に楽しかったの」
眼を閉じて、手を合わせながら、まるで何かに祈るみたいに。
「ここ数年で、間違いなく、一番幸せな日だったよ。大人になったあーちゃんにまた会えて、一杯お喋りして、一緒にお酒まで飲んじゃって」
私はそんなあなたを、何も言わずにただ見つめる。
「あの国語準備室で、一杯悩んでたあーちゃんがね。立派な大人になって、すっごく綺麗になって、私よりもお酒に詳しくなって。それでも、優しさはそのままで」
胸の奥で、何かがじっとその時を待っているかのように。
「本当に、嬉しかったの。あーちゃんみたいな素敵な子の、人生にちょっとでも関わらせてもらったことが。それだけで私は、本当に―――幸せだったの」
あなたの声は淀みなく流れていく、なのにどこか熱と震えを孕んでいるようでもあって。
「きっとね―――――もう思い残すこともないくらい」
どうしてか、その瞬間に瞼を閉じたなら。
あなたは、そのまま、ふっと消えてしまうような錯覚がした。
わからない、その言葉の意味が、その比喩に込められた感情が。
なんてことはない言葉なのかもしれない。国語教師だったあなたは、そういう少し大げさな比喩を、好んで使うことがあったから。
そう、わかってはいるのだけれど。
『鬱……じゃなくて、なんだったかな。とりあえず、心を病んじまったらしい』
その時の私は。
『何かと真面目な人だったろ、だから色々としんどかったらしいぞ』
どうしても耐えられなかった。
「ねえ、せんせい」
「………………なあに、あーちゃん」
そういって、あなたは優しく笑う。あの頃と、何も変わらぬように。
だから――――。
「好きだよ」
揺さぶれ。
「―――――――」
あなたの呼吸が、ふっと止まる音がする。
「あの頃から――――ずっと」
指先が、微かに震えてる。
「ずっと――――忘れたことなんてなかったよ」
そんな姿が、あの夏の日の残像と重ねっていく。
「ねえ、せんせい」
だから、あの時と変わらぬままに。
「まだ―――『あや』って呼んでくれないの?」
固まったままの貴女に向けて、私はそっと指を伸ばした。
たとえこれが、叶わぬ恋でも、構わない。
今度こそ、あなたを私の傍に繋ぎ止められるのなら。
私は、ただそれだけで、よかったの。
そんな言葉を、口にする度胸はないけれど。
私は言葉を失ったままのあなたに、そっと微笑んだ。
「ねえ、せんせい」
「今から見るのは、悪い夢だよ」
「せんせいは、なんにも悪くなんてないからね」
そして、私はあなたの頬に、そっと静かに指を添わせた。
今夜、私は――――あなたを犯す。
たとえ、そうすることで、あなたへ取り返しようもない傷をつけることになったとしても。
もう二度と、あなたを失わないで済むのなら。
たとえ、あなたに一生、恨まれたとしても。
私は、それで、構わない。
――――――なんて勇気が、あればよかったのにね。




