プロローグ あや―①
せんせいは、自分の名前が嫌いだった。
だから、仲のいい生徒ほど、あえて名前を呼ばずに「せんせい」とだけ呼んでいたんだ。
「あー、古戸月先生な、少し前に辞めたぞ」
「―――え?」
だから、馴染の数学教師にそう言われた時、私は一瞬誰のことだか、解らなかった。
解りたくなかった―――と言ったほういいのかもしれない。
高校を卒業後、大学に入って何年かして、ふと母校を尋ねた時のことだった。
「ほら最近流行ってるだろ………鬱……じゃなくて、なんだったかな。とりあえず、心を病んじまったらしい」
「……………………」
その言葉が、上手く飲み込めない。こころをやんだ、と、口を動かしてみるけれど、まるで知らない国の言葉みたいだった。
「何かと真面目な人だったろ、だから色々としんどかったらしいぞ」
「………………連絡先とか、わかりませんか」
震える声で、せめてもと、その足跡を辿ろうしたけれど。
「個人情報だからなあ……でもまあ、退職後に引っ越したらしいから、そもそも、もう誰も分からないんじゃないか?」
「……………………そう……ですか」
そうやって、どこか虚ろな声を零す私を、数学教師は少し心配そうに窺っていた。
蝉の音が嫌に五月蠅い、ある夏の日のことだった。
※
なんで、気付かなかったのだろう。
なんで、言ってくれなかったんだろう。
ずっと、隣に居たのに。
なんて、考えてみたところで、答えは簡単に解ってしまう。
きっと、私達に気を遣わせないようにしてたんだ。
あの頃は、私もちづるも、自分のことで手一杯で、余裕がなかったから。
わかってる、あの人は、そういう人だ。
優しくて、他人のことばかり気にして、自分のことはいっつも後回しで―――。
わかっているから、気持ちの置き所が、何処にもなかった。
だって、約束してたのに、大人になったら、もう一度って――――。
酷いよ、こんなの、あんまりだよ。振るなら、ちゃんと振ってよ。
そんな言葉が、誰にでもなく、零れそうになったけど。
でも、同時に頭の奥から、焼けるように何かが沸き出していた気がする。
怒っていたのだと思う。せんせいの苦しみを見過ごした沢山の人に、学校の構造に、沢山の無関心に。
そして、何より自分自身の鈍感さに。
あの国語準備室で、いつも隣に居た、あの時間。
あの時から、先生の心は、痛みに苦しんでいたのかもしれないのに。
それを何も知らずに、ただ甘えていた、あの時の自分を。
何より、誰より、蹴飛ばしてやりたくて仕方がなかった。
結局、その後、ちづるや他の同級生に連絡したけど、せんせいの音沙汰すら見つからなくて。
あれから数年、私も就職して、独り暮らしも始めて、少しずつ大人になっていって。
もう一度、あなたと出会うことなんて、とっくに、諦めていたはずなのだけど。
都心の駅ナカの書店で、その小さな後姿を見つけた時に。
どうしてか、すぐわかってしまった。
あの夏、本棚に囲まれた準備室で、私を撫でてくれたあなたの面影が。
7年もの時間が過ぎ去ったあとでも、当たり前のようにわかってしまったから。
その後姿を、あなたの声を。
私は未だに時々、夢の中で想い描いていたから。
「もしかして、せんせい?」
声をかけた時、喉は微かに震えてた。
人違いだったらどうしよう、ただ私が誰かに都合のいい幻想を重ねているだけだったら。
そう思ってはいたはずなのに。
振り返ったあなたの顔が、まるで何一つ変わらない、あのころのままだったから。
そんな疑念は瞬きの間すらなく、どこかへと吹き飛んでしまった。
ずっと、もう会えないと想ってた。
こんな広い世界の中で、あなた、たった一人を見つけることなんて。
何処までも広がる砂漠の中で、いつのまにか落とした小さな宝石を見つけようとするようなもので。
ずっとできっこないと―――想っていたのに。
「………………あーちゃん?」
声を聴いた瞬間に、足は勝手にあなたに駆け寄り始めて。
気づいた頃には、あなたのことを、ただうわごとの様に呼んでいた。
時間でも止めたみたいに、7年の時を経ても、さっぱり変わらないあなたのぬくもりを。
私はただ縋るように、抱きしめていた。
蝉の音も、雑踏の音すら聞こえない。
酷く熱い、都会の、夏の日ことだった。
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