雨過—Ⅳ
「結論から言ってしまうと、酷く難しいでしょうね」
その日の業務を終えた後、私は今日の顛末を校長先生に報告していた。
「綾辻さんの言う通り、千歳さんへの嫌がらせは、綾辻さんの潔白の証明には成りません。もちろん、心証が大きく変わるのものではありますが、確実な証拠がない以上、推薦の復帰は依然、学校として許容できません」
他に誰もいない応接室の中、校長先生はコーヒーを手に取りながら、静かに言葉を続ける。
「現実的に出来るのは、これ以上、千歳さんへの嫌がらせが繰り返されないよう予防すること。そして、千歳さんが肩代わりしている、不登校生徒の当番を、適切に振り分けること」
校長先生は、努めて穏やかに、将棋の譜面を読み上げるように慎重に言葉を選んでいた。私はそれをただ、手のひらを強く握りしめながら、聞いてるだけ。
「でも、せめて、今、出回ってる綾辻さんの悪い噂を止めるきっかけになるかも…………」
じわりと背中から、嫌な何かが滲んでいく。そして、案の定、私の言葉を聞いた校長先生は、やがてそっと首を横に振った。
「事態が明らかになっても、どの道、それを公表することは出来ません。関係生徒が、二次被害にあう恐れがあるからです。幸い、千歳さんへの嫌がらせは今のところ、収まっています。…………もちろん、これは被害に遭った生徒からすれば、到底納得のいく落としどころではありませんが」
そう言いながら校長先生は、そっと私に手振りでコーヒーを勧めてくる。でも、私はそれをうまく受け取ることができないでいた。
「でも…………それじゃあ」
綾辻さんは、推薦も潰れて、悪い噂を流されたまま。
千歳さんは、委員会での立場を失くして、辛い思いを抱えたまま。
何も―――変わらない。
しばらく、言葉を失う私に、校長先生は何処か悼むみたいに、そっと僅かに眼を細めた。
「――――件の委員会の、顧問の先生をご存じですか?」
え――? と思わず言葉を失う、今回の焦点にある、委員会。あの怪しげな笑みを浮かべていた少女が、委員長を務める場所。
「前年度までの担当は、非常勤の先生でした……が、体調の関係で顧問を担えなくなってから、今は、教頭先生が顧問を代理で勤めています」
瞬間、さっと頭から血の気が引いていくのを感じる。そして、校長先生が言おうとしていることの意味も、同時に理解してしまう。
「…………前回の綾辻さんの一件で、端的に言ってしまえば、教頭先生から古戸月先生への心証は、あまりよくありません。彼女も大人ですから、表には出しませんが、これ以上あなたが刺激を促す話題を持っていくべきではないでしょう」
指が震える。春にこの学校に来てから、たった数か月だけれど、何度も叱責を受けてきた。綾辻さんとの一件があってから、尚のこと、深い溝を感じるようになった気がする。
これ以上、嫌われたら? これ以上、強い言葉を使われるようになったら?
私は――――。
「人間というのは、やはり何処までいっても、感情を切り離すことのできない生き物です。理不尽に思えるかもしれませんが、大人同士の関係を保つのも、教師として生きていくうえで必要なことではあります、だから――――」
私は、真っすぐ―――――前を見た。
震える指を膝に食い込ませたまま、眼元が喉が熱を零しそうになるのを必死に抑えて。
それでも、校長先生を、真っすぐと見つめ返す。
傷つくかもしれない、酷い言葉を投げかけられるかもしれない。
ただでさえ、どんくさいのに、これ以上教頭先生に嫌われたら、この学校でやっていけるかもわからない。
でも、でも――――。
今、天秤の反対側に乗っているのは、教え子たちの――――綾辻さんや千歳さんの想いそのものだ。
ここで、私が引いてどうする。
「でも―――それでも」
震えそうになる喉を必死に抑えて、ぐっと校長先生の目を見つめ返した。
校長先生は一瞬、微かに眼を見開いた後、少しだけ眉根を寄せた。
もう一度否定されること覚悟して、私は自分の舌を僅かに噛んだ。痛みが少しだけ怖さを紛らわせてくれるような気がしたから。
「私――――それでも何かしたいです」
そうして零した私の声に、校長先生は微かに目を伏せると、ふぅっと静かに息をついた。呆れられているだろうか、聞き分けがないと思われているかもしれない。
でも、今は、それでもこのまま泣き寝入りするようなことだけはしたくない。
ただ、そのまま校長先生は軽くため息をつくと、コーヒーにそっと手を掛けた。
「…………古戸月先生、話は最後まで聞くものですよ」
う…………と、私の声が行き詰る。自分で言っといて、酷い感情論を口走った自覚はあったから。わかってる、校長先生が言うことも、正しいのは。わかってるけど……。
「だから―――教頭先生の顔色を窺って何もしない――――とは言っていません」
え、と思わず、小さく声が零れた。対面の校長先生は、顔の皴をくしゃっと歪めて、どこかいたずらっぽく微笑んでいる。
「古戸月先生ばかりが、嫌われ役をやる必要がないと言っているのですよ。千歳さんの件は、私の方から教頭先生に伝えましょう。千歳さんの担任にも、それとなく様子を見てもらうようにします。件の委員長の彼女も、確か同クラスでしたから、そちらも注意して見てもらうようにしましょう。少なくとも、千歳さんが過剰に担当している委員会の活動はすぐに改善するべきです」
少しぼーっとする私を見ながら、校長先生は、どこかおかしそうに笑いを堪えていた。まるで、愚かさだけが取り柄の若者を、見守っているかのように。
「ふっふっふ、子どもたちが、あなたを慕う理由がわかった気がします」
そうして、その日の面談を終えて、私は学校を後にした。帰り際、教頭先生が少し訝し気にこちらを見ていたけれど、どことなく目線は逸らしたまま。
最後に校長先生言われた言葉の余韻で、私の頬は酷く熱くなってしまっていたわけだけど。
※
ただ、何もかもが解決したわけじゃない。
むしろ失ったものの数の方が、やっぱり多くて。守れたものも、私独りでどうにかできたことは、ほんの一握りもなかった気がする。
それでも、あの後、校長先生が話を通してくれて、委員会の件は少し改善が見えたそうだ。
何日かした後に、千歳さんとすれ違った時、半分泣きながらお礼を言われたから、きっと他の先生が上手く調整してくれたのだと思う。
少し胸の奥が軽くなったような安心感と、それでも無くしたものは返ってこなかったのだという無力感が、交じり合って私の身体の中をぐるぐると回ってた。
それでも、沢山の人の力で、ほんの少しだけ状況はよくなったのだと思う。
綾辻さんの悪いうわさも、一週間もすると、みんな別の話題を話すことの方が多くなっていた。先生方も、綾辻さんに悪い眼を向けている人は、ほとんどいなくなったように思える。
でもわからない、本当に、これでよかったんだろうか。
もっといい方法なかったのかな、まだ出来ることはないのだろうか。
そもそも私自身は、この一連の事件の間、ずっと我儘を喚いてるだけだったような…………。
もっと、ちゃんとした大人にならないとなあって想いながら、今日もまた、お昼寝をする綾辻さんのなだらかな髪の毛を、そっと撫でていた。
ざあざあという音が、窓の外から響いてくるけど、一週間前よりは雨音も少し小さくなってきた。
このまま、何事もなく、晴れ間がやってくればいいのにと。
そう想いながら、眠れる君の隣で、そっと目を閉じた。
さらさらと、指の隙間を髪が通り抜けていく音に耳を澄ます中。
一瞬だけ、ゴロゴロと遠くで、不穏な音が聞こえた気がした。
梅雨明けも、そろそろ近くなった頃。
今朝見た天気予報を、ふっと思いだす。
長く続いた雨の切れ間に―――最後の嵐が来るそうだ。




