雨過—Ⅴ
「じゃあ、次―――種島さん、読んでもらっていい? そう、蜘蛛の糸を掴んだところから」
窓の外で降りしきる雨を見ながら、せんせいの声が教室に響くのを聞いていた。
そろそろ夏場も近いはずだけれど、長雨のせいで、六月の終わりは少し肌寒い。
少し離れた席の種島が、たどたどしく、蜘蛛の糸を這いあがる罪人の物語を音読していく。っていっても、有名な話だから、オチは誰しもわかっているけど。
最後には罪人がまた欲をかいて、蜘蛛の糸は断ち切れる。一度、罪を犯した人間が、都合よく報われることはない。
だって人間、性根はどうせ、そう簡単に変わらない。
そんな事実を噛みしめながら、私はふぅっと一つ息を吐く。
「こら、ちゃんと授業聞きなさい」
そうして、窓の外をぼーっと見ていたら、つんっと後頭部を指で押された。ちらっと背後を振り返ったら、ちょっと流し目こっちを見ているせんせいと目が合った。
こういう、からかいを授業中に挟むと、大体小さな笑いが起きるものだけど。教室はどことなく、困ったような曖昧な空気で満たされる。
せんせいはそれをわかっていないのか…………わかったうえで、あえて自然に振舞おうとしてるのか。定かではないけれど、あまり効果は出てなさそうだ。
「え、えーと…………じゃあ、次は綾辻さん。糸を登って下を見下ろしたところからね?」
仕方なく、私が席を立って教科書を持ち上げると、ひそひそと小さな声が遠くで聞こえてくる。
一度、罪を犯した人間が、都合よく報われるなんてことはない。
だって、そんなこと、誰も望んじゃいないんだから。
どことなく、心配そうに私を見る、せんせいの視線を感じたまま。
私は、教科書の中の、決まりきった結末を読み上げていく。
やがて、罪人を救い上げるはずだった、その糸は。
ぷつんと、呆気もなく、断ち切れた。
※
「ねえ、せんせい、なんか今日荷物多くない?」
「ふふふ、気付いてしまったかな、なんとせんせいお勧め小説セット(私物)だよ?」
その日、また放課後の国語準備室に顔を出したら、せんせいは、両手で抱えるくらいの本の山と一緒にドヤ顔していた。
「…………私、あんま小説読まないよ?」
読んでも、精々、参考書とか課題図書ばかり。
「まあまあ、どうせ時間はたっぷりあるのだから、退屈な時にでもちらっとどう?」
そう言いながら、せんせいはどこかいたずらっ子のように、にぃっと笑う。
さすがにそこまで言われたら、と一応、本の山から一つ手に取ってみた。最近流行りのやつなのかな、装丁は結構新しい。
「あと…………出来たらでいいんだけど、読んだら感想聞きたい……な? 小説の話できる人がいなくて…………」
「……まさか、そっちがメインじゃないよね?」
「……………………はは、まさか」
そう訝し気に尋ねると、せんせいは明後日の方向へと、視線を震わせながら目を逸らしてた。人はここまで、視線を泳がせられるものなのかと、逆に感心してしまう。
……色々大丈夫かな、この公私混同教師。
なんて思考を挟みながら、ぺらぺらと先生に渡された小説を適当に捲っては、次の小説に手を伸ばす。
「…………綾辻さん、読むの速くない?」
「あらすじを、ざーっと見て、良さそうなの見繕ってるだけだよ。…………あー、これは割と面白そうかも?」
巨大ハムスターが日本を侵略する小説を、山から取り出しながら、私はぺっぺと選別作業を繰り返す。しかし、せんせいのチョイスはてんでバラバラだ。ミステリー、青春、恋愛、スポーツ、今時の転生系とかまで入ってる。
「ジャンルはねー、色々持ってきたんだ。綾辻さんが、どれ気に入るかわかんないから、選択肢は多い方がいいでしょ?」
そうやって、シールで飾った筆箱を見せる小学生みたいな表情の、せんせいを横目で眺めながら、私はフーンと答えを返す。なんだか、妙に癪だったのは、我ながらひねくれすぎな気もするけれど。
そういう反抗心とか、いたずら心が湧いてきたせい……ってわけでもないけれど。私の手はある小説でぴたりと止まる。そこに描かれていたのは、社長令嬢と従者の禁断の恋愛を描いた小説。ただし…………従者は、私と同じ年頃くらいの少女。……いわゆる、そっち系の小説。
「ふーん、せんせい、こんなの読むんだ」
なんて指摘をすると、せんせいの頬はみるみるうちに紅くなって、あわあわと手をバタバタさせ始める。もうちょっと、素知らぬ顔してた方がいいと思うよ。
「え、えっと、あくまでジャンル的に…………ね? よ、世の中にはいろんな趣味がありますから…………。文学的にはとてもいい作品なので、こう偏見なく見てくれたらいいなぁ…………なんて」
「別に、フィクションと現実を混同する気はないよ、ただこういうのも読むんだって言っただけ」
大慌てのせんせいに、あえて素っ気ない声を返すと、真っ赤な頬がみるみるうちにしぼんでいく。うん、仕返し完了。別に何をされた訳でもないけどさ。
「そ…………そうだよね、綾辻さんは賢いから、そこらへん区別はついてるよね……あはは」
「そうだね、ま、せんせいは変に否定しちゃうから、余計にやましい感じになってたけど」
最後の追い打ちをそっと決めると、せんせいは鯉みたいにぱくぱくと口を動かしたまま、顔を覆って蹲ってしまった。そうしないと、顔から火でも吹き上がるのかもしれない。大人は大変だねと、他人事で私は欠伸を漏らす。
揶揄いがいあるよなあ、この人、なんて思考をしながら、さっき手にした令嬢と従者の話をそっと分けておいた本の山へと入れた。…………とりあえず、これくらいは読んでみようかな。
なんて思考しながら、とりあえず、最初に手にしたハムスターの話のページをめくる。手に取っといてなんだけど、1ページ目からハムスター視点だ、大丈夫かなこの小説。
そうして、しばらくそのまま小説に目を落としていたら、ふっと隣から視線を向けられていることに気が付いた。ちらっとそちらを窺うと、せんせいがどこか優しい微笑みを私に向けていた。
「なに…………?」
「ううーん? なーんでもないよ?」
若干、素っ気なく問いただしても、せんせいの表情は揺るがない。それどころか楽しそうに、ふんふんと身体を揺らしだす。
なーんだかなあ、なんて若干座り心地の悪い椅子を揺らしながら、私は小説へと視線を戻した。ハムスターは人間への逆襲を誓っていた、ヒマワリの種はいい加減飽きてきたらしい。
そうしてしばらく、私がページをめくる音だけが響く、国語準備室の中。
不意にゴロッと、外から不穏の音が鳴りだした。
窓の外に目を向けると、ほとんど黒に近い灰色の雲が、あたりを暗く覆い尽くしてる。そして、戦慄くような不穏な音は、その雲の向こうから響いているように聞こえた。
「ねえ、せんせい」
せんせいの方を振り向かないまま、私はそっと口を開く。
「そういえばさ、あの声のでかい子の件、なんか進んだ?」
そう尋ねると、背後ふっと短く息を呑む音がした。
ただ、その呼吸はやがて静かに整えられると、穏やかな声でせんせいはその問いの答えを返す。
「うん、詳しくは言えないけどね、上手くいってる……と、思うよ」
そうやって、あなたが口にした響きの中には、祈りと実感が混ざったような、不思議な息遣いが滲んでて。
「へえ、そうなんだ…………」
きっと、その言葉は嘘じゃないのだろう。
せんせいは、そういう誤魔化しはしない人だから。
だから、きっとあの子の件は、なんやかんや上手くいっている。
―――だから、まずいんだ。
※
『ねえ、あなた―――綾辻さんよね。隣のクラスの』
『確か、推薦希望だったよね?』
そうやって、私に告げてきた時の、あの委員長の―――あいつの顔を思い出す。
その顔に、怒りと、憎しみを、ペンキでぶちまけたかのような。
自分の立場とプライドだけに、絶対的に固執している、そんな表情。
あの後、噂話に耳を傍立てたり、移動教室の時に隣の教室を軽く覗いてみたけれど。確かに、せんせいの言う通り、上手くいっている感じはする。
接近禁止令があるから、ちゃんとした情報収集は出来ないけれど。どうにも教師たちがあの声の大きな子と委員長を離したり、委員会での扱いも改善されようとしているみたい。このままいけば、あの子は安心して学校で過ごせるようになる。
と、順風満帆にいけば、いいのだけれど。
教師たちの扱いを見て、周りの生徒たちも段々と気付き始めてる。
決定的な糾弾はされてない、でも、真綿で首を絞めるように、じっくりとあの委員長の逃げ場は失われてる。そして、それはつまり、取り巻きに不満が溜まるということもである。
昨日、廊下でたまたますれ違ったあいつの顔は、どこか酷く、焦りや怒りともつかない何かで染まってた。
あの手の手合いが、このまま何事もなく、心を入れ替えて大人しく過ごす?
―――そんなわけないでしょ。
私にたった一回、言いくるめられたくらいで、報復を考える様な奴だ。
このままだと、あいつは十中八九、何かする。
蜘蛛の糸は、いつだって無惨に千切られるものだ。
私の一件で、終わってたらそれでよかった。いや、あの事件で私が黒にならなかった時点で、その兆候は出てたのかもしれないけれど。
でも、せんせいはさらにそこから、状況をひっくり返してしまった。あいつが秘密裏に、いいようにできていた委員会っていう巣を、せんせいが結果的に暴いてしまった。
あいつは、危うい時期に、無駄なリスクを取るほど馬鹿じゃない。
でも、自分の立場やプライドを傷つけられて、ただ黙ってられるほど聡くもない。
そして、次あいつが何かするときは、また誰かが傷つく時だ。
証拠も、アリバイも、全部関係なく。
ただ、相手を貶めるためだけに、取り返しのつかないことをする。
そうなってから、裁いたんじゃ、きっと遅い。
だって、積み上げたものを壊すのは、あまりに簡単だから。
なのに再び積み上げようとしても、もう二度と戻せない。
そして、多分、次の標的は―――――。
この一連の騒動の中で、あいつの思惑を、ずっと崩し続けてきた元凶は。
私はちらっと、隣で軽く欠伸をうつ、能天気な教師の顔を見た。
自分がしてきたことの、意味も価値も、因縁すら知らないあなたをじっと見ていた。
さて――――私は、どうするべきだろう。
※
昼休み、国語準備室に向かう最中に、ふと見覚えのある背中を見つけた。
せんせいと同じくらいの背丈、どことなく落ち着きのなさそうな足取り。
だから、私はその首根っこを、咄嗟にぐっと摑まえた。
「ふえ―――?」
対面のその小さな背中は、少し驚いたように身体を震わせているけれど。
今は、有無を言わせず、こっちを向かせる。あまり、長話もしてられないから。
「あんた、千歳さんだっけ?」
「ちょっと―――手伝って欲しいことがあるんだけど」
そんな私の言葉に、千歳 ちづるは、どこか目を白黒させたまま、おっかなびっくり私を見上げてた。




