雨過—Ⅲ
ある日の放課後、国語準備室に向かってふらふらと歩いていた頃のこと。
途中の階段で、どこかで見たことのある顔とすれ違った。
…………誰だっけと考えて、ああとすぐに思い出す。
あの委員長に詰められてた子じゃん、そういえば、あれからどうなってるんだろうね。なんて思考をしながら見ていたら、ちょっとだけ、目が合った。
人形みたいにおっきな瞳が見開かれて、あわあわと何かしら口がしばらく動く。でも、結局言葉はみつからなかったのか、ぺこっと頭を下げてから、彼女は足早に通り過ぎて行ってしまった。
なんだろう、余計な気を遣ってないといいけれど……なんて思いながら、国語準備室のドアをがらりと開けた。
「どぎゃわっ?!!」
瞬間、ハムスターを踏み潰したみたいな声が、少し下の方から響いてくる。
私はしばらく唖然とした後に、何故かドアの前に立っていたらしい、小さな教師を見下ろしながら声をかけた。
「…………なにしてんの、せんせい」
あまりに驚きすぎたのか、思いっきり尻もちついてるし。それとなく手を伸ばして、若干涙目になってる、せんせいはどうにか立ち上がらせる。
………………そういえば、こんな校舎の隅っこに、あの子は何の用があったのだろう。ここは放課後は部活でしか使わない科目室か、ここみたいな準備室くらいしかないはずだけど。
……………………まさかね。
「………………綾辻さん、どうかした?」
せんせいは、きょとんと首をかしげて私を見てる。そういえば、この人はなんでわざわざドアの傍に立ってたんだろ。
「…………別に」
余計な気を回してないといいけれど。なんて考えながら、私はため息をついて、そっと、いつもの机に突っ伏した。
雨の音が遠くに聞こえる。今日は、確か夜まで振るんだって。
ただ夕方の時間は、さすがにそう眠くはならない。
誰かが、そっと息を整える音がする。
でも、私は気付かないふりをしていた。
※
「そういえば、珍しいね、放課後ここに来るなんて」
あれから数十分程経って、せんせいは思い出したように、そんな言葉を口にする。
「…………別に、帰ってもやることないだけだから」
いつもは大体、勉強か家事ばかりしていたけれど、今日はそれもあまりやりたい気分じゃなかった。お父さんは、しんどかったらしばらく外食でいいって言ってたし。…………暇を持て余すほうが、余計に色々考えてしまう気はするけれど。
「ふーん、先生とじゃんけんでもして遊ぶ?」
なんて、人が憂鬱な気分になってる隣で、随分と能天気な声が響いてくる。
「…………しない、ていうか、せんせいは仕事してなよ」
明日の授業の準備なのかなんなのか、机で書類を広げているせんせいを尻目に、私は窓に落ちてくる雨粒をぼんやりと眺めてた。
「ぐう…………正論パンチ…………」
正論一つで怯む教師も、どうかと思う。
「…………ていうかさあ―――」
なんとなく、流れで口を開きかけて、だけど続きは言葉にならなかった。
――――さっき、あの子と何話してたの?
そう、あてずっぽうで尋ねてみてもいいのだけれど。
別に、あの子がここにいじめの相談しに来たとも限らないし、仮に来ても、それはもう私がどうこう言える話じゃない。だって、今更、委員長の悪評を広めたところで、私にメリットも何もないし。消えた推薦は、どの道帰ってなんてこないから。
「…………ていうか?」
途切れた言葉の行方を不思議に思ったのか、背後でせんせいが首を傾げる気配がした。
「…………なんでもない」
そういって、ふっとせんせいの方を横目で見たら。
「…………ふうん、そーなの?」
どうしてだろう……なんというか、酷く生暖かい瞳が私を見つめていた。若干、頬も緩んでいるというか、本当になんなんだろう。
「…………何、なんか言いたいことでもあるの?」
思わず、自分の声が剣呑な響きになるのを感じるけれど、せんせいの微笑みはちっとも揺るがない。なんというか、ニヤニヤしているようにさえ見えてくる。
「うーうん? 別にー、綾辻さんはいい子だなーって想ってただけー」
あからさまに含みのあるそんな声に、私は思わず眉間に皴が寄るのを感じる。
「今の話で、どこにそんな要素があったの……?」
なんて、不機嫌気味に声を向けても、せんせいの表情は揺るがない。どころか、まるで思い出し笑いでもするように、楽しげにくすくすと笑いだしてた。
「ふふーふ、さーて、どこでしょー」
そう言いながら、何気なくせんせいの指が、私の頬に伸びてくる。そして、猫の喉を撫でるみたいに、首元をそっとなぞり上げるように触れてきた。
思わず背筋がぞくっとして、反射的にせんせいに藪にらみ気味な視線を向けても、向こうはさっぱり気にした様子もない。暴れる野良猫に、優しくチュールでも差し出しているような顔してやがる。くそう、なんだこの変な余裕。
ただ、そうやってじたばたしているうちに、さすがに私も諦めがついてきた。そして、さっきの子がせんせいに喋ったであろう内容にも、大体察しがついてきた。
「…………さっきすれ違ったけど、あの声のでかい子になんか言われたの?」
それは半ば、自白めいた台詞だったから、せんせいの笑みは余計に穏やかなものになってしまったけれど。どうせバレてるっぽいから、気にしても仕方がない。
「ふふ、相談内容は守秘義務があるので、教えられないのだ…………でもまあ、多分、綾辻さんの想像してる通りかな」
そう言いながら、せんせいは私の頬を、うりうりと指で撫でまわしてくる。出来るだけぶすっとした表情を浮かべておくけど、あんまり意味はなさそうだった。
それにしても、私の想像通りねえ…………。
「…………じゃあ、今更、どうにもなんないよ?」
ぼそっと漏れた声は、風船に孔を開けたナイフみたいで。目の前にあったせんせいの微笑みは、すっとその色を失くしてしまう。
「だって、校長先生言ってたじゃん、グレーな時点で、もう推薦はどうしようもないって。それに、やってないって証明は何よりも難しいって。何言われたか知らないけど、多分、私のことはもうなかったことに出来ないんでしょ?」
例えば、あの子の証言で、委員長のいじめが発覚したとして。
でも、それは私とあの美香って子のペンケースの事件とは、また別件だ。
壊れたものは、もう二度とは戻らない。無くした信用とか、広まった噂も同じ。
「あの子が嫌がらせ受けてた件は、どうにかしてあげたらいいかもだけど……。多分、委員長のやつ、しばらく尻尾は出さないよ。あいつら半端に頭は回るから」
仮に、何かボロを出しても、教頭があの調子じゃあ、ちゃんと追及されるかもかなり怪しい。
解ってる。それはそれで正しい立ち回りなんだろう。強い奴にくっついて、その力を利用すること自体は、多分どこでも大事な立ち回りだし。
「要するに、まあ、これは私が馬鹿だっただけって話だからさ」
正しいからどうとか、間違ってるとか、許せないとか。
その程度の感傷で、無駄なリスクを犯した私が、何より悪いのだから。
「だから、せんせいもこれ以上余計なことは―――」
―――しなくていいよ、と。
そう口に仕掛けた瞬間に。
ふっと、何故か―――。
雨音が一瞬、遠くなったような錯覚がした。
「――――そうだね」
静かな、とても静かな声だった。
降りしきる雨の音に、掻き消されてしまいそうなほど。
なのにどうしてか、鼓膜の奥にずっと残り続ける様な。
「推薦は……もう、どうにもならないのかもしれない。起きてしまったことを、なかったことには、きっともうできないから」
せんせいは、何かを悼むように、そっと眼を閉じていて。
「だけどね、それでも頑張ったら、何かは残るかもしれない。ここで諦めて、受け容れてしまったら、本当に何もかも失ってしまうかもしれない」
でも、その手のひらは、ぎゅっと握りしめられていて。
「だからね、もうちょっとだけ…………頑張ってみようと思うの」
私はそんなせんせいを、何も言えずに見つめてた。
きっと、世界はせんせいが想うほど、優しくは出来ていない。
努力は平気で無駄になるし、性格悪い奴の方が強いし、お金がないと何も始まらない。
窓の外で響く雨音は、止む気配すら、ちっともしなくて。
でも、それでも、あなたはどこか寂しそうな表情のまま、そっと私に微笑んでいた。
「そう…………勝手にすれば」
そうやって、ぶっきらぼうに返した言葉に、力はちっとも籠ってなんていなかったけど。
わからない、これからどうすればいいんだろう。
どうしたら、これ以上、苦しい思いをせずに済むのかな。
ただ、そんな答えを、私はこの時、どこにだって見つけることができなくて。
そんな私の隣で、あなたはじっと、寄り添うように微笑んでいた。
でも、今にして思えば。
そんな答え、あなたも知るはずがなかったんだろう。
降りしきる雨は、まだ止まない。




