↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
教え子のあなたと暮らしてる  作者: キノハタ
回想 雨過

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/37

雨過—Ⅰ

 あのいじめの一件から、一週間ほど時間が流れた。


 HRで何度も、噂を真に受けないようにとは言ったけれど、綾辻さんの教室での扱いは一向に改善していない。


 なんとなく話しかけなくなる。なんとなく遠巻きにする。なんとなく疑いの目を向ける。


 起こっていることは、たったそれだけだったけど。それだけだったからこそ、どうすることも出来ずにいた。


 綾辻さんはあれ以来、お昼休みに勉強をしていない。


 いつも、ふらっと国語準備室にやってきては、そのまま机に突っ伏して、何も言わずに目を閉じる。


 そんな彼女を見ながら、ふっと視線を窓の外に向けると、灰色の雲がどんよりと空を覆ってた。


 そろそろ梅雨明けは近いけれど、まだもう少し、時間がかかる。ぽつぽつと雨が窓を叩く音がした。あと一週間くらいは降り続けるだろうか。


 作業をしていたパソコンをそっと閉じて、私はそんな灰色の景色を背景に、眠る彼女をただ見つめてた。


 早く、晴れるといいのだけれど。


 そんなことだけを願いながら。




 ※




 「はい、どーぞ」


 ことんと、マグカップを俯いてる彼女の傍に、それとなくおいてみた。多分、反応はないだろなと思っていたけれど、存外綺麗な黒髪がもぞもぞと動き出す。


 「…………なに?」


 少し眠気で濁った低い声を聴きながら、私はそっと肩をすくめる。


 「コーヒー、お昼寝前に飲んどくとね、寝覚めが良くなるんだって」


 言いながら、彼女の彼女のマグカップの隣にミルクと砂糖を添えておく。まだ高校生だし、多分、使うよね……?


 しばらく見ていると、お昼寝を邪魔された胡乱な茶色の瞳が、じっとこちらを見上げてくる。ただ、しばらくすると、まあいいかと思ったのか、ミルクと砂糖をもぞもぞと淹れだした。


 そんな彼女を見ながら、私は残っていたコーヒーを自分のマグカップに注いだ。ただミルクと砂糖は、さっきので在庫切れだったらしい。


 しばらくの葛藤の末、素知らぬ顔でそのまま飲むことにした。舌をあまりコーヒーにつけないように気を付けながら。


 「いいの……? こんなの生徒に出して……」


 まだ少し胡乱な声が、そう尋ねてくるから、私は軽く笑って首を横に振る。


 「みんなには内緒ね、ここがコーヒーショップになっちゃうから」


 なんて軽口を叩いてみたはいいけれど、綾辻さんの視線は何言ってんだこの人と言わんばかりに細められてる。……いいもん、教師だからめげないもん。


 そのまま、放っておいたら、また会話が途切れて、雨の音だけが聞こえるようになる。あまり話したくはないんだろう、でも私としては少し気持ちを聞きたいいのも本音だった。


 「あれから…………どう?」


 もしかしたら、何か彼女の心を晴らすヒントが得られるかもしれない。


 「別に…………大して変わんないよ」


 ただ、もちろん現実に、そんな都合のいい答えがあるわけもなく。


 未だに彼女は、あれから何を感じて、何を思ったか、頑なに口を開こうとはしてくれない。


 冤罪に巻き込まれたこと。教室での居場所を失ったこと。そして何より推薦のためにこれまで頑張ってきた努力が、誰かの悪意によって無為になってしまったこと。


 それは17歳の少女の心に疵をつけるには、あまりにも十分すぎる出来事だった。


 そして何よりいたたまれないのは、その傷の深さを推し量る術がないこと。


 心の傷は誰にも見えない。はさみで指を切ったり、転んでひざをすりむいたら、誰にだってどれくらい深い傷かはすぐわかるけど。


 でも、心に抱えた痛みは、当人が口にしない限り、他者が知る術は何処にもない。


 ましてそれが、まだ蛹から羽化したばかりのような、思春期の柔らかい心なら尚のこと。


 「………………」


 綾辻さんはコーヒーを数口啜ったら、またすぐに顔を伏せてしまった。私はそうやって俯く彼女の黒髪に、そっと指を通してみる。


 さらりさらりと、絹糸が流れるような音を聞きながら、優しくゆっくりと、その少しし傷ついた髪を撫でていく。


 こうすることで、抱えた傷が少しでも癒えればいいのだけれど。残念ながら、指では心に触れられない。


 「…………なに?」


 さすがに気になったのか、綾辻さんの視線が、じっとこちらを見上げてくる。私はひらひらと片手を上げながら、そっと肩をすくめた。なんか、人慣れしていない野良猫を撫でてる気分。


 「いやあ、ほら、人に撫でられるとストレス低減効果があるって言うし…………」


 なんて理屈でお伺いを立て見るけれど、綾辻猫はお気に召さないご様子。ぐるると唸られたので、あえなく、なでなでタイムは終了と相成った。


 「そういうの、普通に今はセクハラだと思うけど?」


 あげく、そんなことを言われてしまう。


 「ええ……そうなの? 今の子って難しい……」


 私の時代じゃこれくらい…………別になかったな。そもそも私が、あまり人に撫でられた記憶がない。


 「せんせいと私じゃ、そう大して変わんないでしょ……」


 そう言いながら、綾辻さんはふんっと鼻を鳴らす。その後、何度か視線で隙を窺ってみたけれど、その度にぐるると警戒の唸り声が飛んでくる。あらあら、すっかりご機嫌を損ねてしまった。


 こんな些細なやり取りで、少しでもこの子気持ちが軽くなればいいのだけれど。


 仕方ないので、自分のお仕事に戻ろうとした、そんな頃。


 ふっと気になって、さっき綾辻さんを撫でた手をじっと見る。


 …………そういえば、噂に聞いた事があるよな、なんて考えながら。


 10代の少女からは、甘い匂いがするとかなんとか。


 腐っても私もかつては少女だったはずだけど、残念ながら、自分の匂いというのはわからない。同級生も、そんな匂いが分かるほど接近したことはなかったし。


 大人になった今ならわかるかもと、手に残った綾辻さんの残り香に、そっと鼻を向けてみる。


 すんすんと、軽く息を吸い込むと、最初は自分の手の少し汗っぽい匂いしかしなかった。でも、段々とその奥から、ふわりとどこか甘い匂いが漂ってくる。


 柔軟剤や洗剤とも少し違う。淡い優しさの中に、少ししょっぱさが混じった、独特の甘い香り。


 ふむ…………ふむ………………。


 なるほど……これが…………若さの匂いか!


 しかも嗅げば嗅ぐほど、頭の奥がなんだかふわふわしてくるような、どうにも安心してしまうような……。


 そうして、綾辻スメルを堪能すること、およそ十数秒。


 「何してんの………………?」


 気付けば、隣にいた綾辻さんが、信じられないものを見るような眼で私を見つめてた。


 「え…………綾辻さんの匂いを嗅いでるだけだけど…………」


 返答してから、脳内の倫理観が僅かに首を傾げ始める。あれ、今の発言、ちょっとアウトか…………?


 「………………え、きも」


 どうやら、ちょっとではなかったらしい……。


 「いや、ちょっと待って。誤解しないで欲しいんだけど、決してやらしい意味で嗅いでたわけじゃないの。そう、ただこれはほんの、知識欲的なサムシングで嗅いだだけであって、いい匂いだなって思いはしたけれど、それは決して邪な欲望があったわけではなくてですね―――」


 まずい、さすがに、誤解を解かなければと、今更焦ってはみたのだけれど。


 「そっか―――つまりせんせいは、匂いフェチの変態ってこと?」


 おかしいなあ、誤解が深まっていってる気がする。


 などと、嘆いたところで、一度落ちた信頼は、もはやどうにかなるものではなく。


 「いや、だから、あのこれは、その――――」


 「ふーん……そっか、どおりで変によくしてくれると思った。最初から、こういう目的があったんだ、ふーん…………」


 「いや、その本当に誤解で、だからえっと…………」


 「そういえば、せんせいはさ、生徒に嘘をつかないのが信条なかったっけ?」


 「………………」


 「しょーじきに、感想言って?」


 「………………大変素敵な、香りでした」


 「ふーん…………エロ教師」


 がはっと、口からコーヒーが吐血の如く吹き出していく。


 結局、その日はずっと、帰るまでエロ教師呼ばわりされていました。


 でも、教育委員会に突き出されなかっただけ、温情だったのかもしれません。


 ただそうやって、私を弄る綾辻さんの表情の奥に、ほんの少しだけ……明るい何かが灯ったように見えたのは。


 私の気のせいではなかったと、そう思いたい、今日この頃です。


 帰りのHRで、綾辻さんのねめつける様な視線を直視できなかったのは、内緒だぞ!














 ※



 その日も私は、どうにか教頭先生の小言を乗り越え、ヘロヘロになりながら授業を終えた。


 そして、放課後の事務作業をしようと、国語準備室へと足を延ばしていた、そんな頃。


 ちょっと疲れていたからだろうか。


 私は背後から高速で迫りくる影に、気付くことができていなかった。


 その影は、音もなく私の背後から忍び寄ると、そのまま私の肋骨あたりに飛び込むように頭を突き刺してきた。


 「おぼふっ!!??」


 ただ、その事実を私が正しく認識できるのは、およそ数分後。


 足の踏ん張りも効かず、突撃犯と一緒に無惨に廊下を転がるのが、およそ数秒後。


 「こ……こ、古戸月先生!! と、とっても大事なお話があります!!」


 爆音じみた、そんなご挨拶が私の鼓膜に届くのに、およそコンマ数秒。


 彼女の名前が千歳 ちづるだと知るのは、およそ数十分経った後のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。