第16話 教え子に寄り添う隣
『あやは、私の恩人ですから!!』
まだ二人が学生だった頃、ちーちゃんはそう大きな声で宣言しては、あーちゃんに呆れた顔で口を塞がれていた。
なーんて、ぱっと見嫌がっていても、そんな明るいちーちゃんの姿に、あーちゃんも確かに救われていたんだと思う。
あの誰しもが、失ってばかりだった冤罪事件の中で、それでも救われたものが確かにあったのだという、証明でもあったから。
そして、そんなちーちゃんがあーちゃんを見つめる目が、時折、酷く―――淡く―――滲んでいたのを。
その奥に、とても真っすぐで、煌めいた―――特別な色が潜んでいたことを。
私はあの頃から、ずっと気づいてた。
二人きりの時に、『ちーちゃんは、本当にあーちゃんのことが大好きだね』って言うと、彼女は顔を真っ赤にして、大慌てで誤魔化していたっけね。
そんな、彼女をみるたびに、ああ、きっとあーちゃんは大丈夫だと、そうこっそり安心していたのを覚えてる。
こんな真っすぐで素敵な子が隣に居るなら、きっとあーちゃんは大丈夫。
たとえ失ったものが多くても、いくら転んでつまずいたとしても。
きっと、これからも、二人で一緒に歩いていける。
きっと―――――私がいなくても。
そう想って、そう願ったことが、あの頃、一体どれくらいあっただろうか。
願うたび、温かくて、優しくて、心地よい、安心にも似た情動が湧いてきたことが。
なのに、ぎゅっと、胸の奥が、どうしようもなく震えた瞬間が。
一体、何度、あったのだろう。
「ねえ、あや」
「最後に一つだけ聞いていいですか?」
それでよかった。
「まだ、せんせーのこと、好きですか?」
私は、それでよかったの。
「うん―――好きだよ」
それでよかった―――はずなのに。
酔いと眠気で、靄がかかったような意識の中で。
指先に触れて、そっと絡まる感触を。
私は、手放すことも出来ないで。
君との縁に、ただ縋ってた。
こんなこと、許されていいはずがない。
社会が、倫理が、規範が、世間の声が。
そして、何より――――あーちゃんの幸せを願うなら。
こんな想いは、決して――――。
決して――――抱いていいはずがないのに。
「起きて―――せんせい」
暗い海の中にいるような、曖昧な意識の狭間で君の声がした。
「ねえ―――帰ってきたよ」
誘われるまま、そっと目を開けてみると。
君が、少し寂しそうな微笑みを浮かべたまま、私のことを覗いてて。
差し出された手に引かれるまま、ゆっくり足を伸ばしたら。
身体はタクシーからすっと降りて、やがて地面に着地する。
見上げた先にあるのは、君の帰るべきところ。
そして、今は私が間借りさせてもらっているところ。
背後でタクシーが去り行く音を聞きながら、どこか覚束ない足取りのまま、君と寄り添って歩いてく。
真っ暗な深夜のアパートの中、カツンカツンと、無機質に足音が響く中。
君と二人で、手を繋いだまま。
わからない、本当に私は、ここにいていいんだろうか。
彼女の隣に居る価値が、それだけの理由が、本当に私にあるんだろうか。
カツン、カツンと音が響いてく。
クーラーの効いた、真夜中のアパートのエントランスは、どことなく肌寒くって。
だけど、君と繋いだ手が重なる場所だけは、どうしようもないほどに温かい。
だから、だろうか。
この手を離すことができないのは。
それとも、ぎゅっとその手を、強く握ったら。
そっと優しく、握り返されるからなのかな。
わからないよ、私には何も。
ねえ、あーちゃん、わからないの。
私、どうしたらいいのかな。
※
「せんせい、起きてる? お風呂入れる? …………って、さすがに無理そうか」
「………………ん」
「まあ、いいや、明日はいれば。せんせいは先に眠ってて?」
「…………あーちゃんは?」
「…………ん-、私はそんなに酔ってないから、シャワーでも浴びてこよっかな」
「………………私も」
「ん? せんせいも入る? じゃあ、先に――――」
「私も…………一緒に、入っていい?」
「……………………」
「………………その、あーちゃんが……いやじゃなかったら」
明かりもついてない、暗い寝室の中、君の表情は見えないまま。
それが少し怖かったわけじゃないけど、思わずぎゅっと君の指先を握ったら。
「ねえ、せんせい―――」
ふっと、あーちゃんの声が、耳のすぐそばで囁きかけるように響いてきた。
「いつか――――」
そんな鈴みたいに透き通った彼女の声が。
「いつか、本当に襲われても――――知らないよ」
その時は、酷く恐ろしい響きを伴っていたはずなのだけど。
私の胸は、どうしてか、ドクドクと脈拍を鳴らしながら。
同時に、酷く、熱くなっていくような、そんな気がした。
「―――うん」
そうして頷いた、私の声が、その時は。
深い暗闇へ呑まれていくように。
やけに遠くに聞こえた気がする。




