第15話 せんせいを忘れられない
高校を卒業して、それぞれの進学先に進んでも、ちづるとは定期的に会っていた。
なんて言っても、4回会う機会があったら、3回はちづるの方から声をかけてくれてたっけ。美味しいお店を見つけました、ここに行ってみたいです、噂のあれを見てみたくって……なんて何かと理由をつけて。
私は人を誘うのが苦手な方だったから、多分、そうやって繋がりを保っていてくれたんだと思う。
せんせいが学校を辞めたと知った後も、都度都度理由をつけて、ちづるは私の顔を見に来てくれた。
「ねえ、あや…………まだ、せんせーのこと、好きですか?」
そうして、そんな質問を、大体、年一くらいで想いだしたように尋ねてくる。
決まって私は、上手く顔も上げられないまま。
「うん」
と、小さく頷くだけだった。
そんな私の答えに、ちづるはいつも、どこか寂しそうな微笑みを浮かべてた。
本当はきっと、何処かで忘れてしまうべきだったのだと思う。
せんせいが行方をくらましてから、3・4年は時間があった。
普通、それだけの時間が経ってしまえば、こんな沢山の人が行きかう街の中、もう出会うことは二度とない。
どこかの偉いカウンセラーが、人生はすれ違い交差する線路のようなものだと言っていたっけ。時々誰かと並んで走り、交じり、離れて、やがて遠くへと見えなくなっていく。それが人生なんだって。
だから、私の未熟な心が生んだ、慕情と、執着は、実を結ぶこともなくやがて想い出になっていくはずだった。
でも、それもきっと、言ってしまえばよくある話だ。だって、長い人生で初め抱いた想いを叶えて、添い遂げる人なんて、世の中にいったいどれだけいるというのだろう。
だから、多分、私は早々にこの想いを諦めてしまうべきだった。
でも、結局、私は今日に至るまで―――またせんせいと出会うまで、この気持ちを棄てられなくて。
蒼くて、透明で、だけど傷だらけな、ガラス玉みたいな、この想いを。
あの夏の日から、私はまだ、手放すことができないでいる。
そして、そんな事実を、ちづるに尋ねられるたび、確かめ合う。
迎えのタクシーに乗り込んで、私達は、先に近場だったちづるのアパートへと向かってた。
信号待ちの間に、私の隣に居たせんせいは、気付いたら目を閉じて静かな寝息を立てている。
そんな様子をちづると二人で見つめながら、何も言わないままの時間が、少し流れてた。
「よかったですね、あや…………本当に」
やがて、ちづるは、そっと静かに声を零した。どこか何かを抑えているような、そんな不思議な響きの声を。
「うん」
私がそう小さく返事をすると同時に、ぶぅんと音を立てて、タクシーがまた夜の街を走り出す。後部座席にせんせいと二人で並びながら、そんな私たちを助手席のちづるは、どこか寂しそうに微笑んで見つめたままで。
やがて、メインストリートを少し通り過ぎて、街の外れまでやって来た辺りで、タクシーが静かに停車する。何度か送ったことのある、ちづるの住むアパートだ。
ガチャっとドアを開けて、ちづるは軽やかなステップで車から飛び降りる。
念のため玄関くらいまでは送って行こうと、私もそっとドアを開けて身を乗り出すと、ちづるにずいっと手で制された。
「ここまで来たら、私はもう大丈夫です、それより、せんせーを早くお部屋まで連れて帰ってあげてください」
そうやって、笑う表情はいつものちづるだ。何も変わることはなく、明るく、健気で、真っすぐで。
「…………大丈夫? 結構、酔っぱらってるように見えるけど」
事実、顔はちゃんと紅いし、足取りも少しおぼつかない。まあ、楽しくなって、ステップを踏んでるだけなのかもしれないけれど。
「いえいえ、今日は言うほどは飲んでませんから。なにせ、こう見えてセーブしていたのです! せんせーが酔ってしまっても、ちゃんとお送りできるように!」
そうして、ふんっと背を伸ばして、ちづるはにぱってピースを作る。セーブねえ、そこそこの量は飲んでいた気がするけど、まあ言わぬが華かな。
「さっすが、大人になったじゃん」
そうやって褒めると、ちづるはえへえへと照れながら頭を掻いていた。昔から、照れるとわかりやすいのは変わらない。
そうしていたら、背後で少しむずがるような気配がした。二人でそっと車内を振りかえると、どうにもせんせいが寝返りを打っていたみたい。
二人でしーっと唇に指を当てながら、少しだけほくそ笑み合う。
「じゃ、またね」
そうして、ちづるに手を振りかけた、その一瞬。
ふっと、何か。
上手く言葉に出来ない何が、そのちづるの表情に浮かんだ気がした。
そんな何かに、私はうまく反応できなくて。
「ねえ、あや」
「最後に一つだけ聞いていいですか?」
その後に、何が、問われるか。
どうしてかすぐにわかってしまった。
「まだ、せんせーのこと、好きですか?」
だから、いつものように。
私は静かに頷いた。
「うん―――好きだよ」
声にすると同時に、誰かがふっと息を呑むような音がした。
ちづるのものだろうかと、目を向けてみるけれど、目の前にあるのは静かに眼を閉じる、穏やかな表情だけ。
だって、その答えは、お互いずっと分かっていたはずだから。
「…………ふふ、それでこそ、あやです」
そうして、ちづるは視線を伏せたまま、そっと静かに笑ってた。
その声の奥に残った、微かな震えを、抑え込もうとするかのように。
「……では! 今日はありがとうございました! 本当に楽しかったです!! せんせーが起きたら、またご飯に行きましょうってお伝えください!!」
だけど、次の一瞬にはいつものちづるに戻ってた。明るくて、真っすぐで、健気な、私の友人。
「…………うん、またね」
そうして彼女に手を振りながら、私はタクシーのドアをそっと閉めた。そして、運転手に目的地を伝えると、やがてタクシーは静かに走り出す。
ふっと振り返ると、暗がりの向こうで、ちづるがぶんぶんと手を振っていた。
私たちが見えなくなるまで、バックミラーの中で、懸命に飛び跳ねながら。
静かに、静かに眼を閉じた。胸の奥で、微かにざわめく痛みに近い何かを、そっと堪えるように。
本当は、こんな想い忘れるべきだったのかもしれない。
子どもの頃に抱いた初めての慕情が、須らくそうであるように。
泣いて、嘆いて、眠って、笑って。
転んだ傷が、やがて癒えて、消えいくように。
本当は、忘れてしまうべきだったのかもしれない。
でも、結局、私はそうはできなくて。
「ねえ、せんせい」
好きだよ、なんて言っても、今のあなたは眠っているけど。
「…………また三人で、ご飯に行こうね」
眠るあなたの手に指を絡めて、タクシーが走る音の中、そっと小さく呟いたら。
きゅっと、あなたの指が、微かに私の手を握ってた。
小さな、小さな、音がする。
あなたの、息づく音がする。




