第11話 せんせいと図書館へ
カタンカタンと、都会の街を行く電車の中から、外の景色を眺めてた。
立ち並ぶのビルの向こう、突き抜けるような青い空が、遠くどこまで広がっていく。
路線が橋に差し掛かって、少しだけ電車が揺れた。すると、せんせいの身体が隣で軽く傾いたから、そっと手を添えて倒れないように受け止める。
混んでるって程でもないけど、ぎりぎり席には座れないくらいの、都会の土曜の昼下がり。
「ありがと、あーちゃん」なんてあなたの言葉を聞きながら、私はそっと頷いた。
カタンカタンと音がする。小さな電車が、私たちを川の向こうの図書館まで連れていく。
何処にでもある日常の風景だ。でも、ついこの間まで、どんな代償を払っても、決して叶えることのできない光景だった。
わかってる、これが儚い夢のようなものだということは。またいつか、不意の理不尽で奪われてしまう安寧だということは。わかってるけど。
それでも今はただ、ここにある当たり前を慈しむ。せめて、こんな静かな時間が、あなたの記憶の何処かに残るようにと。
抱えるその傷の痛みを、ほんの僅かでも、忘れさせてくれればいいと。
そんな、他愛もないことを考えながら、目を閉じた。
カタンカタンと音がする。隣では、まだ少しふらふらと揺れる、せんせいの気配がする。
静かな、とても静かな時間だった。
まるで広がる蒼空が、音をどこかへと飲み込んでしまったかのような。
カタンとまた、電車が少しだけ揺れる。
私の腕に、揺れるあなたの温もりが、またほんの少しだけ重なった。
※
「というわけでやってきました、図書館です!」
市の中心にある、大きな図書館を前に、せんせいはでーんと胸を張る。まるで自分が建てたとでも言わんばかりだ。
「そーだね、私ここ初めてきたかも」
出版関係の仕事をしている割には、存外、縁がなかった。学生の頃は、よく地元の図書館に顔を出していたのだけれど。まあ、大体、自分で買うようになったからかな。
「ふふふ、先輩として案内してしんぜよう。まずは図書カード作らないとね―――」
なんて、せんせいは上機嫌に先導を始めるので、とことことその後ろをついていく。なんかコロボックルに森の案内をされているみたいだなと思ったけれど、多分怒られるので口にはしなかった。
外のうだるような直射日光から、クーラーの効いた館内へと足を進める。図書館独特の静かで、些細な音が響くような残響を聞きながら、せんせいと二人で受付まで行って図書カードの申請書を受け取った。
手続きは意外とそんなに時間はかからないらしい、ちょっと間を置いたらすぐ出来あがるそうだ。せんせいと小声で、どうしよっかと目配せをする。
結局、当初の予定通り、気ままに本棚を見て回ることにした。
そうやって、何があるのかなって、近くの児童書のコーナーを見ていたら、せんせいは何やら慌てて受付と何か話してた。なんだろって……ああ、借りてた本を返しているのか。そういえば、トートバッグを肩にかけていたっけ。
そんなせんせいが返却を終えてから、二人して、とりあえず小説のコーナーに向かった。わかってたことではあるけど、いつも目にしてる細心のトレンドが並んだ書店の本棚とは少し違う。新しいのも古いのも混じったまま、作者順にずらっと並べられたそれに、ふむと私は少し唸った。
さて、何読みたいかな、流行のやつは大体読んでるから、逆に普段読まないような昔の本がいいのだろうか。
見知った作者の、私が生まれる前の作品を指でなぞりながら、うーんと唸ることはや数分。
ふと気づくと隣でせんせいは、じっと私のことを見上げてた。
それから、ぱくぱくと何やら口を開けているけど、残念ながら声を抑えすぎてて、聞こえない。
仕方ないので、軽く頭を下げたら、耳元にそっとせんせいの顔が寄ってきた。
そういえば、あーちゃん、本読むようになったの?
風の音が草を揺らすような、そんな小さな声を聴きながら、私はまあねと頷いた。
誰かさんのお陰で、本を読む習慣はついたから。大学入ってからは、毎週なんか読んでたよ。
そういえば、私、高校あがるまで、本なんて参考書くらいしか読んでなかったんだよね。そんなやつが、今や出版社で働いてるんだから、何があるわからないもんだ。
そ、そーなんだ……。
そう呟くせんせいの顔は、何故だか紅い、なんならちょっと照れている。人の匂いを嗅いでいるときは大して照れてない癖に、その差は一体何なんだろう。
なんて、思考をしながら、いくつか本を見繕って、二人で空いてる席に腰掛けた。
せんせいのほうは一瞬さっと傍を離れると、ものの数分もしないうちに、いくつか本を両手に抱えて戻ってきてた。あらかじめ、読むものの辺りがついてた感じかな。
そうして、なんとはなしに、二人で座りながら、本を読み始めた……はいいのだけれど。
なんとなく、違和感を感じて、せんせいが持ってきた本をちらりと眺める。
『世界の菌類、意外な生態』『図解で解る、カエルの生き方』『家猫を飼いたいあなたへ』
……………………?
私はちらっと、自分が持ってきた本と見比べてみる。大体は、有名どころの作家の、昔の小説だ。エッセイとかも混じってるけど、それも結局小説家が書いたもの。
ねえ、せんせい。
そっと囁くように、熱心にキノコの生態図を見るあなたに、そう声をかけた。
…………? どうしたの、あーちゃん。
そうやって、あなたは不思議そうに首を傾げた。そんな姿さえ、私からすると、かなり違和感がある。
小説読まないの?
そもそも、現国の教師だったせんせいに勧められて、私は小説を読むようになったのだ。私の記憶の中では、せんせい自身も読書が好きで、国語準備室には資料と称して小説のハードカバーがよく積まれていたっけ。
なのに、今、せんせいが持ってきたのは、大体、小説とは呼べない図鑑や実用書ばかり。まあ、国語の授業じゃ評論文とかもあったから、別におかしくはないのだけれど。
せんせいは、あ、と一瞬、素の声を出すと、少し曖昧な笑みを浮かべる。
そうして、しばらく何かを口にしようと、唇を小さく動かしていたけれど、やがてそっと首を横に振ってしまった。
そんなあなたを、私はただじっと見つめていることしか出来なくて。
それから数十分、お互い何も言わぬまま、それぞれの本と向き合うだけの時間が流れた。
同時に私は、些細で、至極当たり前のことを想い出す。
あれから―――7年も時間が経ったんだ。
それだけの時間があれば、何かが変わる。誰だって、ずっと同じではいられない。
せんせいも、私も。
あの頃より、随分と本を読むのも早くなった自分の変化を感じながら、曖昧な表情で図鑑に目を落とすあなたを見ていた。
どうしてか、少し寂しいような。
その訳を知りたいような、知ることが躊躇われるような。
そんな、曖昧な迷いが、胸の中で静かに脈打つのを、ただ感じてた。
きっと、何もかも同じではいられない。
いられないのは、わかってるけど。
でも、それでも――――せめてと。
そんなことを、考えながら。
※
「………………小説は、何時からかな…………読めなくなったの」
少し時間が経って、図書館に併設されたカフェに着いた時、せんせいはふっと何気なくその言葉を口にした。
「ずっと大好きだったんだけどね、なんだか気付いたら、ページをめくるたび胸が苦しくなるような気がして」
何気なく、小さく、まるで机に置いていた観葉植物が、偶然枯れたことを話すみたいに。
「仕事を辞めてから、段々ともっと辛くなって…………。なんでだろうね、どうしても、教師だったころのことを思い出すからなのかな…………」
そっと、寂しそうに、でもなんてことではないかのように。
「だから、最近はほとんど読めてないんだ…………」
そう言いながら、せんせいは少し目を細めて、窓の外を見た。夏のうだるような日差しがそこに確かにあるのだけれど、クーラーの効いたカフェの中からは、そんな暑さは切り取られてしまったみたいに、どこか遠くに感じられた。
「…………そっか」
そう呟きながら、思わず少し目を閉じる。
せんせいと一緒に暮らし始めて、そろそろ一週間。
まだ、私は今のせんせいのことを、そう多くは知らない。
何を思って、教師を辞めたのか。
どんな病気で、今どんな施設に通っているのか。
どれくらいすれば治るのか、そもそも治るものなのか。
7年という時間で開いた溝は、確かに、私の知らない何かをせんせいの中に形作ってる。あるいは、何かが欠けてしまったのかもしれない。
…………まあ、当時の私が、せんせいのことを本当の意味でどこまで知れていたかは、正直、怪しいとこだけれどね。
注文した二人分のアイスカフェオレが、カランと氷の音を立てて、私達の間に置かれた。
一緒のベッドで眠っているけど、わからないことはまだたくさんある。身体はすぐ隣にあるのに、時々せんせいの心は、ここじゃないどこかを彷徨っているような気さえする。
そうして、ふっと気を抜いてしまったら、その手が簡単に私の指をすり抜けて、どこか遠くへ消えていきそうな………………。
「あーちゃん…………?」
少しぼーっとしていた私に、せんせいは心配そうに首を傾げる。
そんなあなたを見てると、喉の奥がぎゅっと、何かに掴まれたよう感じがした。
「ねえ、せんせい」
教えて、全部。
何が苦しくて、何が辛くて、何に傷ついたのかを。
そうやって、全部教えて、今度こそ、私の傍から離れないでと。
………………そう、告げられたらいいのだけれど。
わかってる、そんなの私の独り善がりだ。病気の原因になったような苦しい過去を想いださせるなんて。相手の傷口に指を突っ込んで、無理に開こうとするのと何も変わらない。
だから、きっとまだ、それを尋ねることは許されない。
「せんせいの好きな『――――』の作者、新刊出してたよ。この前、確か賞取ってた」
あえて、何も気にしてないかのように、いつも通りの声を出す。喉の奥の微かな震えを、欠片もおくびに出すことはないように。
「あー、そうなんだ。……そういえば、本屋でちらっと見たかも」
「結構、衝撃展開だったよ。私、その日、家で椅子から転げ落ちたから」
あなたは、私の言葉にふむむと唸るように腕を組んだ。トラウマと、好奇心がせめぎ合っているのかもしれない。
「そ、そういわれると、気になるような…………」
「どうせ読まないんなら、内容説明してあげようか?」
私のそんな言葉に、せんせいはハッとなると、慌ててぶんぶんと首を横に振っていた。私はそれを見て、思わずふっと笑ってしまう。
「そ、それはダメ……! い、いつか、いつか読むかもしれないから…………」
「ふうん…………じゃあ、止めとこ。割と凄い展開だったけど」
そうやって、過剰にネタバレを嫌う癖は、あの頃から何も変わってなかった。
「うぐぐ…………いや、本当に読むかな……? でも、うぐ、うーん…………」
「ていうか、小説読まないんなら、本屋には何しに行ってたの?」
「え? えーと…………その、実は、漫画は、何故か普通に読めるんだ…………。だから、図書館でも借りてる本の半分くらいは、漫画なんだよね…………」
「あー、なるほど、私のおすすめ教えてあげよっか?」
「え、あーちゃん、漫画も詳しいの?」
「そりゃあ、今は―――社で編集の卵してますから、流行りのは大体、眼を通してますよ?」
「…………え、ちょっと待って、さらっと凄い事言わなかった? え? ―――社? 超大手では? え?」
「おすすめはねー…………あ、でもその前に、せんせいの趣味聞いた方がいいかな、今、どういうの読んでるの?」
変わってしまったことは、お互い、きっとたくさんある。
知らないことは、実は前から沢山あって、それがさらに7年かけて随分と積みあがっているのだろう。
「え、うえ、ちょっと待って? 私、処理が、追いついてない」
「…………ふふ」
それでも、そうやって慌てるあなたの姿は、あの頃から何も変わらない。
ていうか、そうだ。私、出版社に入ったこと、せんせいに自慢してやろうと思ってたんだった。
高校生の頃は、選択肢にもあがってなかった進路だったけど。誰かさんに小説のことを沢山仕込まれて、ここまで立派になりましたよ…………なんて。
いつかあなたに報告できたらと、あてもない妄想を繰り返していたものだけど。
思ったより、なんか軽いカミングアウトになってしまった……まあいっか。
面白半分で会社の名刺をあげたら、私の顔と交互に見比べて、せんせいは目を白黒させていた。なんかこういう動画なかったっけ。リスに生まれて初めて、マカダミアナッツかなんかを食べさせるやつ。
そうして、その後、しばらく「え、ほんと? いや、でもあーちゃんなら…………」と困惑を続けるせんせいの姿を、私は笑いながら見つめてた。
きっとまだ、その傷には触れるべきじゃない。
きっとまだ、わからないことが沢山ある。
その全てを知ることは、もしかしたら、一生懸けても叶わないかもしれないけど。
それでも、ほんの少しでも。
いつか―――いつか聞くことができたらいいなと。
そんなこと想ってた。
ガラスの向こうで、夏の真っ青な蒼が広がる、あるカフェでの出来事だった。
※
「あ、やば」
「…………? どうしたの、あーちゃん」
「ちづるから連絡来てたの、気付いてなかった。ごめん、せんせい、ちょっとだけ電話してくるね?」
「…………え、ちづるって…………あの、『ちーちゃん』?」
「そ、あのちづる。千歳 ちづるだよ?」
「え? …………え?! ええええ???!!!!」
その後のせんせいの反応が、今日一ビックリしてたのは、さすがにちょっと悔しかったけど。




