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教え子のあなたと暮らしてる  作者: キノハタ
回想 出会い

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22/36

出会い―Ⅶ

 カチャリと、小さな音を立てて、私の前にコーヒーの入ったマグカップが置かれた。


 あの後、せんせいと一緒に校長室に連れていかれて、私の思考はどこか曖昧なまま、そんな情景をぼんやりと眺めてた。


 不安と、驚きと、困惑と、不思議な…………安堵と。


 たくさんの感情が、短い間に怒涛のように通り過ぎて、心の置き場がまだつかめないでいた気がする。


 そんな私を、さっきまで必死に声を上げていたせんせいは、どこか心配そうにおろおろしながらを窺っていたっけ。さっきまでの、啖呵も度胸も、一体どこに吹き飛んでしまったというのやら。


 そんな私たちの前に、白髪の校長先生は静かに腰を下ろすと、どこか厳かな調子で喋り始めた。


 「一つ、大切な……それゆえに、後回しに出来ない話をしなければいけません」


 その声色はとても静かで、まるで湧き上がる感情という感情を、ぐっとこらえているような響きをしていた。


 隣でせんせいが、ふっと息を呑む音を、私はどこか漠然と聞いていたっけ。


 「結論から言いますと、綾(・)辻(・)さ(・)ん(・)の(・)推(・)薦(・)は(・)事(・)実(・)上(・)取(・)り(・)下(・)げ(・)ら(・)れ(・)る(・)こ(・)と(・)に(・)な(・)り(・)ま(・)す(・)」


 え、と隣でせんせいが声を漏らす音がする。逆に私は、ああと小さく頷いただけだった。そりゃ、そうかって思ってたっけ。


 「此度の一件の結論は、結局のところ保留です。誰か加害者で誰が被害者か、確たる根拠を誰も持ち合わせてはいない。学校としては、あなたと被害生徒、どちらが本当のことを言っているのか、判断する術が残念ながらありません。そして、『何かをしていない』というのは悪魔の証明で、非常に立証が難しい物です」


 校長先生は、そうやって、滔々と言葉を続ける。意図的に、落ち着いて聞こえるように調整された、低く穏やかな声。


 「こういった、グレーの状態になった生徒を、学校として推薦することは残念ながらできません。もし推薦が決定した後に、悪い真相が明らかになった時、あるいはその生徒がグレーであることを推薦先に追及された時、我々は何の言い逃れも出来ないからです」


 隣でせんせいが、ぎゅっと手を握って、何かを口にしようとした。でも、そんなせんせいにむけて、校長先生は、ゆっくりと手のひらを出して制止した。そうして、静かに首を横に振る。


 「これは残念ながら、独りの意思で覆したり、変えられるものではありません。なぜなら、もしそのような最悪の事態になり、この学校の推薦そのものを疑われた時。不利益を被るのは、他の推薦を希望したたくさんの生徒であり、これからこの学校で推薦を希望するたくさんの生徒だからです。たった一人の潔白のために、何十人何百人の進路を賭けることは、この場の責任者として、到底承認できるものではありません」


 沈黙は校長室の中を、重く行き場もなく通り過ぎていく。横目に見たせんせいの表情は、今にも校長先生に噛みつきそうだったから、私は無言でその袖を引っ張っておいた。そうしないと、本当に校長先生に詰め寄りだしそうだった。


 「教育者としての不甲斐なさに、言い訳のしようもありません。綾辻さんの立場からすれば、理不尽だと怒りが湧いて当然です。許してほしい……と口にするのすら、烏滸がましいでしょう。ただ……申し訳ありませんでした」


 そうして、言葉を終えると、校長先生は静かに頭を下げた。いつも壇上で見ていたその年老いた教師の、小さくこじんまりとした姿を見ながら、私はぽすんと背中をソファに預けた。


 なんとなく、わかってたことではある。


 理屈で考えれば、単純だ。そりゃそうだよね、逆の立場だったら、私だってそうしてる。


 たった一人の進路と、これから続く何十何百人の進路。


 どっちが大事かなんて、比べる意味すらない、小学生だってわかる算数だ。


 解ってる、納得もしてる、異論なんてどこにもない。


 むしろ、こうやって正面切って謝って貰えているだけ、誠実でさえあると思う。嘘と言い訳で隠して、なあなあで推薦を有耶無耶にすることも、恐らく出来たはずだから。


 はあ、と息を一つ吐く。


 同時に、何かが零れてた。


 ああ、と声を漏らしてみる。


 ぼたぼたと、何かが落ちていく。


 あ、と喉が震えた時に。



 ふっと、隣を見てみたら。



 どうしてか、泣き出しそうなせんせいの顔がある。



 ……なーんで、私よりショック受けた顔してるかね。



 人が、どうにか泣き声上げないよう、必死に堪えてるのに。



 ああ。



 ほら。




 だからさ。




 ダメじゃん。





 そんな風に、泣かれたら。







 ―――――私が抑えきれないじゃん。




 そうして、一度、栓が外れたら。




 後は、もうどうにもならなくて。




 だって、結構、頑張ってきたんだよ。




 色々考えて、ちょっとでもうちが上手くいくようにって。




 こっそり勉強もたくさんして、成績表の数字を並べて、ちょっとずつ目標に近づいているって喜びながら。




 そうやって、色々、頑張ってきたのにな。




 ああ。




 声が零れる。小さな子どもがあげるような、みっともない大きな声。




 私より身体は小さい癖に、私より酷く大きな声で。




 まるで、私の代わりに泣こうとしてるみたいに。




 そうやって互いの手を握ったまま。




 もう潰えてしまった未来を、ただ悼むみたいに。




 その日、私は泣いていた。





 せんせいの手の中で、赤子のように声を上げたまま。





 耳元で響く、あなたの泣き声を聞きながら。














 ※



 その日、帰った後のことは、正直、上手く覚えてない。


 お父さんには、せんせいから連絡があったはずだから、私はあまり説明もせずに帰ってすぐベッドに突っ伏した。


 そうして翌日、朝起きたら、机の上に書置きが置いてあった。


 確か、お父さん、その日は早番だったんだよね。


 『何があってもあやは大丈夫、また話を聞かせてください』


 そんな、走り書きのような文字を見ながら、私は独りで味のしないご飯をぼんやりと口に運んでた。昨日、泣き腫らした喉と眼が、まだ痛かったのを覚えてる。


 そうして、ぼんやりと、どこか熱があるような思考のまま登校して、教室のドアを開けた時。


 ふと、なんだか言葉にならない、違和感を感じてしまった。


 別に元から喋るほうじゃない、四六時中ずっとくっつくような友達はもいはしない。


 でも、なんだか、なんというか……。


 どことなく、不安と疑念を含んだような、居心地の悪い視線を感じる。


 なんだろうと想いながら、少しぼんやりとしていたら、遠く向こうでひそひそと話し声が聞こえた。


 聞いた? ねえ、実は…………さんってさ。


 ……………ああ、と思わず納得してしまう。


 昨日の一件は、関係者に箝口令が敷かれてる。せんせいや他の教員はもちろん、私だって、誰にも喋ってはいないはずだけど。


 ………………あいつらは、そうじゃないよね。


 脳裏に映るのは、悪意を滲ませたような、あの時の委員長の顔。


 発信者が特定できない程度の噂でも、流しているのか、それかそもそも告発前に誰かに既にバラしていたか。


 どちらにせよ、一度広まった噂を、なかったことにはもうできない。そうしてしまえば、あたかもそれが事実であるかのように、余計広まるだけだろう。


 はあ、と息を漏らした。勘弁してよ、こっちはもう、昨日のことで手一杯だっていうのに。


 ああ、気を抜いたら、また何かが零れていきそうだ。でも、きっとそんな風に取り乱したら、それこそあいつらの思う壺なんだろう。


 だから、私にできるのは結局、噂が忘れ去られるまで、何もないかのような振りをするだけ。


 朝のHRのために、せんせいが教室に入ってきて、どことなく心配そうに私を窺った。私はそんなあの人の視線から、俯くように顔を隠した。


 せんせいは、全体に根も葉もないうわさを信じないよう、一生懸命告げていたけれど、残念ながら箝口令のせいで、直接的な説明は何も出来ない。


 ルールを守っている人ばかりが苦しんで、ズルい奴らだけが嗤ってる。


 わからない、どうして、こんなことばかりなんだろう。


 また喉の奥が震えそうになるのを、ぎゅっと唇を噛んで飲み込んだ。


 そんな私を、せんせいは何処か、胸が痛むみたいな表情でじっと見ていた。















 ※



 「――――綾辻さん」


 昼休みに、渡り廊下でぼーっと窓の外の灰色の雲を見ていたら、そんな声が背後からふっと響いてきた。


 なんとなく、誰の声かは察しながら横目を向けると、私より背丈の低い姿が隣にすっと割り込んでくる。


 「なーにしてるの?」


 あえて、明るい風を装ったせんせいの声に、私は静かに首を横に振る。


 「…………別に、何にも」


 漏れ出た声は、低くて濁ってて、なんだかみっともなかったけど。その時は、上手く取り繕う気になれなかった。


 「…………今日は、ここで過ごしてるの?」


 そう言いながら、せんせいはそっと周りを見渡す。夏前の渡り廊下は、湿気のせいで少しじめっとしていて、座るとこもないし、お世辞にも過ごしやすい場所じゃなかった。


 「うん…………なんか、教室いづらいし…………でも人目のつくとこじゃないといけないから」


 昨日の、校長先生の言葉を思いだしながら、私はぼんやりと言葉を零す。さっきまで、教室でしばらく過ごしていたけど、噂話や疑惑の視線が嫌でもちらついて、上手く座っていられなかった。


 「そっか…………勉強は…………やりたくない?」


 そんなせんせいの言葉に、私はしばらく窓の外の雲をぼんやり眺める。梅雨はそろそろあけるらしいけど、私の気分はどうしたって晴れそうにはなかった。


 「うん…………しばらく、いいかなって」


 どうせ、もう推薦を目指す意味はないわけだし。


 もちろん、国公立を目指すとか、入試でいい成績取って奨学金とるとか、他に色々方法はあるはずだけど…………。


 今は、今だけは、上手く頑張る気持ちになれない。


 弱いなあ、我ながら。たったこれだけのことで、躓いて。


 「そっか…………そうなっちゃう時もあるよね」


 隣で響くあなたの声も、どことなく小さくて、何処かへ消えていきそうだった。


 そんな声を聴いていると、また堪えていたものが零れそうになる。口に出してしまうことで、本当に自分の頑張りが、全部無駄だったってことを思い知らされてしまうから。


 そっか、そうだよね。


 無駄になっちゃったんだ、私がしてきたこと、全部。


 昨日、沢山のことが起こって、上手く受け入れられなかった、そんな事実が。


 その時、ようやく心の底に、すとんと落ちてきて。


 ああ、と零した言葉と一緒に、一粒だけ雫が落ちた。


 まあ、いいや。どうせ、窓の外を向いてるから、誰も気付いてないはずだから。


 きっと、隣で私のことを心配そうに見上げている、この人以外は。


 そうして、しばらく重い沈黙が流れた後。



 「―――じゃあ、私がいいとこに連れて行ってあげよう」



 せんせいは、不意にそう口にすると、私の手をそっと引っ張り出した。


 え、と反応する間すらなく。


 せんせいは、とことこと早足で歩き始める。


 まるで、誰にも見つからぬように、二人で何処かに逃げ出していくかのように。


 私が泣いている姿を、誰にも見せないようにしているみたいに。


 早足で通り過ぎていく私たちを目に止める、通行人の視線を振り切りながら。


 しばらく歩いて、連れて来れられたのは、校舎の端。いつもの階段から少し歩いた先の場所。


 その一つの前でせんせいは立ち止まると、部屋の前にある、ポストのようなものをガサゴソと漁り始めた。


 視線を上にあげると『国語準備室』と書かれた札が下がってる。せんせいが漁ってるのは課題提出用のポストか何かだろうか。


 しばらくして、せんせいはその中から、チャリっと音を立てて鍵を一つ取り出した。


 「ふふ、杜撰な管理でしょ? みんなには内緒だよ?」


 そう言いながら、せんせいはいたずらっぽく笑うと、その鍵を準備室のドアに差し込んでガラッと開け放つ。


 少し暗くて、湿った空気と紙の香りの混じった、独特の匂いが鼻を揺らした。


 せんせいは、そのまま私を中まで引っ張ると、そっとドアを閉じてしまう。


 そうすると、さっきまで聞こえていた、周囲の雑音がふっと不思議なくらい遠のいてしまった。


 おかげで、きぃっと、先生が木製の椅子を引っ張る音が、いやに響いて。


 所狭しと並んだ本棚がまるで、洞窟の壁みたいに、小さな部屋の中で、私たちを見下ろすように佇んでいた。


 「どうぞ、座って?」


 そうして、せんせいに促されるまま、私は作業用のデスクと思しき場所にそっと腰を下ろした。


 木製の頼りない椅子が、軋むような音を背中で立てる。


 「最近、見つけたんだけど、なんとここ、ほとんど誰も使ってません。なぜなら、国語の先生は、みーんな職員室で作業するから、ほぼ倉庫になってるの。なんか、秘密の隠れ家みたいでしょ?」


 そう言ってせんせいは、得意げに笑うと、くしゅんっと小さなくしゃみを零した。なるほど、確かに誰も使ってないみたいだ。おかげで、どうにもほこりっぽい。


 「………………ありがたいけど、でもいいの? こんなとこ勝手に使って……人目もないし」


 そうやって言葉を漏らすと、せんせいは自信満々にふふんと小さな胸を張ってた。


 「だいじょーぶ、なんと校長先生の許可も取ってます。噂が落ち着くまでの緊急避難的なやつだけれどね。それに人目ならあるじゃん、この私の目が!」


 そう言いながら、せんせいはふっと得意げに笑みを浮かべる。


 私はそんなせんせいの顔をぼんやり見ながら、ふぅっと静かに息を漏らした。


 きっと、本当は言わなきゃいけないことが、沢山ある。


 昨日のお礼とか、これからどうするかとか、そんな適当でいいのとか、今の気持ちとか。きっと、色々。


 ある、はずなのだけど。


 ふっとせんせいが、顔を上げて窓の外を見た。


 私もそれを追うように、座ったまま、その視線の先をなぞった。


 丁度、曇りの空から少し日が差して、大きな窓からゆっくりと日の光が照り始めているところだった。


 そろそろ夏が近い、暑く、明るい光が、私とせんせいの間にゆっくりと広がっていく。


 きっと、言わなきゃいけないことが、沢山ある。


 あるけれど。


 ………………なんだろ、今は、いいかな。


 「ねえ、せんせい」


 そう言いながら、私はこてんと古いデスクに、自分の頭をそっと横たえる。


 「なあに、綾辻さん」


 そうしたら、そんな私の頭に、柔らかい指がそっと乗った。さらさらと髪の毛の梳くように撫でる音がする。


 柔らかくて、優しくて、少しだけ温かい。


 そんな感触を、ただ感じたまま。


 「少し眠っていい? …………ちょっと疲れちゃったから」


 そう尋ねながら、答えも待たずに私は静かに眼を閉じた。


 向き合うべきことは、きっと山のようにあるけれど。


 今はただ。


 少しだけ、このまま目を閉じていたかった。


 「うん―――いいよ」


 そうして、そんなあなたの声を聴きながら。


 私、ゆっくりと微睡みの中へと落ちていく。


 外の世界から切り離された、暗く静かな洞窟みたいな、その場所で。


 せんせいの手に、撫でられながら。


 今だけは、何もかもを手放して。


 ただ、子どもが甘えるように。


 「―――おやすみ」


 そんな優しい声に、そっと耳を澄ましてた。



 これが、私達の。



 あの小さな国語準備室での。



 蒼く、そして静かな、始まりの記憶。

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