出会い―Ⅶ
カチャリと、小さな音を立てて、私の前にコーヒーの入ったマグカップが置かれた。
あの後、せんせいと一緒に校長室に連れていかれて、私の思考はどこか曖昧なまま、そんな情景をぼんやりと眺めてた。
不安と、驚きと、困惑と、不思議な…………安堵と。
たくさんの感情が、短い間に怒涛のように通り過ぎて、心の置き場がまだつかめないでいた気がする。
そんな私を、さっきまで必死に声を上げていたせんせいは、どこか心配そうにおろおろしながらを窺っていたっけ。さっきまでの、啖呵も度胸も、一体どこに吹き飛んでしまったというのやら。
そんな私たちの前に、白髪の校長先生は静かに腰を下ろすと、どこか厳かな調子で喋り始めた。
「一つ、大切な……それゆえに、後回しに出来ない話をしなければいけません」
その声色はとても静かで、まるで湧き上がる感情という感情を、ぐっとこらえているような響きをしていた。
隣でせんせいが、ふっと息を呑む音を、私はどこか漠然と聞いていたっけ。
「結論から言いますと、綾辻さんの推薦は事実上取り下げられることになります」
え、と隣でせんせいが声を漏らす音がする。逆に私は、ああと小さく頷いただけだった。そりゃ、そうかって思ってたっけ。
「此度の一件の結論は、結局のところ保留です。誰か加害者で誰が被害者か、確たる根拠を誰も持ち合わせてはいない。学校としては、あなたと被害生徒、どちらが本当のことを言っているのか、判断する術が残念ながらありません。そして、『何かをしていない』というのは悪魔の証明で、非常に立証が難しい物です」
校長先生は、そうやって、滔々と言葉を続ける。意図的に、落ち着いて聞こえるように調整された、低く穏やかな声。
「こういった、グレーの状態になった生徒を、学校として推薦することは残念ながらできません。もし推薦が決定した後に、悪い真相が明らかになった時、あるいはその生徒がグレーであることを推薦先に追及された時、我々は何の言い逃れも出来ないからです」
隣でせんせいが、ぎゅっと手を握って、何かを口にしようとした。でも、そんなせんせいにむけて、校長先生は、ゆっくりと手のひらを出して制止した。そうして、静かに首を横に振る。
「これは残念ながら、独りの意思で覆したり、変えられるものではありません。なぜなら、もしそのような最悪の事態になり、この学校の推薦そのものを疑われた時。不利益を被るのは、他の推薦を希望したたくさんの生徒であり、これからこの学校で推薦を希望するたくさんの生徒だからです。たった一人の潔白のために、何十人何百人の進路を賭けることは、この場の責任者として、到底承認できるものではありません」
沈黙は校長室の中を、重く行き場もなく通り過ぎていく。横目に見たせんせいの表情は、今にも校長先生に噛みつきそうだったから、私は無言でその袖を引っ張っておいた。そうしないと、本当に校長先生に詰め寄りだしそうだった。
「教育者としての不甲斐なさに、言い訳のしようもありません。綾辻さんの立場からすれば、理不尽だと怒りが湧いて当然です。許してほしい……と口にするのすら、烏滸がましいでしょう。ただ……申し訳ありませんでした」
そうして、言葉を終えると、校長先生は静かに頭を下げた。いつも壇上で見ていたその年老いた教師の、小さくこじんまりとした姿を見ながら、私はぽすんと背中をソファに預けた。
なんとなく、わかってたことではある。
理屈で考えれば、単純だ。そりゃそうだよね、逆の立場だったら、私だってそうしてる。
たった一人の進路と、これから続く何十何百人の進路。
どっちが大事かなんて、比べる意味すらない、小学生だってわかる算数だ。
解ってる、納得もしてる、異論なんてどこにもない。
むしろ、こうやって正面切って謝って貰えているだけ、誠実でさえあると思う。嘘と言い訳で隠して、なあなあで推薦を有耶無耶にすることも、恐らく出来たはずだから。
はあ、と息を一つ吐く。
同時に、何かが零れてた。
ああ、と声を漏らしてみる。
ぼたぼたと、何かが落ちていく。
あ、と喉が震えた時に。
ふっと、隣を見てみたら。
どうしてか、泣き出しそうなせんせいの顔がある。
……なーんで、私よりショック受けた顔してるかね。
人が、どうにか泣き声上げないよう、必死に堪えてるのに。
ああ。
ほら。
だからさ。
ダメじゃん。
そんな風に、泣かれたら。
―――――私が抑えきれないじゃん。
そうして、一度、栓が外れたら。
後は、もうどうにもならなくて。
だって、結構、頑張ってきたんだよ。
色々考えて、ちょっとでもうちが上手くいくようにって。
こっそり勉強もたくさんして、成績表の数字を並べて、ちょっとずつ目標に近づいているって喜びながら。
そうやって、色々、頑張ってきたのにな。
ああ。
声が零れる。小さな子どもがあげるような、みっともない大きな声。
私より身体は小さい癖に、私より酷く大きな声で。
まるで、私の代わりに泣こうとしてるみたいに。
そうやって互いの手を握ったまま。
もう潰えてしまった未来を、ただ悼むみたいに。
その日、私は泣いていた。
せんせいの手の中で、赤子のように声を上げたまま。
耳元で響く、あなたの泣き声を聞きながら。
※
その日、帰った後のことは、正直、上手く覚えてない。
お父さんには、せんせいから連絡があったはずだから、私はあまり説明もせずに帰ってすぐベッドに突っ伏した。
そうして翌日、朝起きたら、机の上に書置きが置いてあった。
確か、お父さん、その日は早番だったんだよね。
『何があってもあやは大丈夫、また話を聞かせてください』
そんな、走り書きのような文字を見ながら、私は独りで味のしないご飯をぼんやりと口に運んでた。昨日、泣き腫らした喉と眼が、まだ痛かったのを覚えてる。
そうして、ぼんやりと、どこか熱があるような思考のまま登校して、教室のドアを開けた時。
ふと、なんだか言葉にならない、違和感を感じてしまった。
別に元から喋るほうじゃない、四六時中ずっとくっつくような友達はもいはしない。
でも、なんだか、なんというか……。
どことなく、不安と疑念を含んだような、居心地の悪い視線を感じる。
なんだろうと想いながら、少しぼんやりとしていたら、遠く向こうでひそひそと話し声が聞こえた。
聞いた? ねえ、実は…………さんってさ。
……………ああ、と思わず納得してしまう。
昨日の一件は、関係者に箝口令が敷かれてる。せんせいや他の教員はもちろん、私だって、誰にも喋ってはいないはずだけど。
………………あいつらは、そうじゃないよね。
脳裏に映るのは、悪意を滲ませたような、あの時の委員長の顔。
発信者が特定できない程度の噂でも、流しているのか、それかそもそも告発前に誰かに既にバラしていたか。
どちらにせよ、一度広まった噂を、なかったことにはもうできない。そうしてしまえば、あたかもそれが事実であるかのように、余計広まるだけだろう。
はあ、と息を漏らした。勘弁してよ、こっちはもう、昨日のことで手一杯だっていうのに。
ああ、気を抜いたら、また何かが零れていきそうだ。でも、きっとそんな風に取り乱したら、それこそあいつらの思う壺なんだろう。
だから、私にできるのは結局、噂が忘れ去られるまで、何もないかのような振りをするだけ。
朝のHRのために、せんせいが教室に入ってきて、どことなく心配そうに私を窺った。私はそんなあの人の視線から、俯くように顔を隠した。
せんせいは、全体に根も葉もないうわさを信じないよう、一生懸命告げていたけれど、残念ながら箝口令のせいで、直接的な説明は何も出来ない。
ルールを守っている人ばかりが苦しんで、ズルい奴らだけが嗤ってる。
わからない、どうして、こんなことばかりなんだろう。
また喉の奥が震えそうになるのを、ぎゅっと唇を噛んで飲み込んだ。
そんな私を、せんせいは何処か、胸が痛むみたいな表情でじっと見ていた。
※
「――――綾辻さん」
昼休みに、渡り廊下でぼーっと窓の外の灰色の雲を見ていたら、そんな声が背後からふっと響いてきた。
なんとなく、誰の声かは察しながら横目を向けると、私より背丈の低い姿が隣にすっと割り込んでくる。
「なーにしてるの?」
あえて、明るい風を装ったせんせいの声に、私は静かに首を横に振る。
「…………別に、何にも」
漏れ出た声は、低くて濁ってて、なんだかみっともなかったけど。その時は、上手く取り繕う気になれなかった。
「…………今日は、ここで過ごしてるの?」
そう言いながら、せんせいはそっと周りを見渡す。夏前の渡り廊下は、湿気のせいで少しじめっとしていて、座るとこもないし、お世辞にも過ごしやすい場所じゃなかった。
「うん…………なんか、教室いづらいし…………でも人目のつくとこじゃないといけないから」
昨日の、校長先生の言葉を思いだしながら、私はぼんやりと言葉を零す。さっきまで、教室でしばらく過ごしていたけど、噂話や疑惑の視線が嫌でもちらついて、上手く座っていられなかった。
「そっか…………勉強は…………やりたくない?」
そんなせんせいの言葉に、私はしばらく窓の外の雲をぼんやり眺める。梅雨はそろそろあけるらしいけど、私の気分はどうしたって晴れそうにはなかった。
「うん…………しばらく、いいかなって」
どうせ、もう推薦を目指す意味はないわけだし。
もちろん、国公立を目指すとか、入試でいい成績取って奨学金とるとか、他に色々方法はあるはずだけど…………。
今は、今だけは、上手く頑張る気持ちになれない。
弱いなあ、我ながら。たったこれだけのことで、躓いて。
「そっか…………そうなっちゃう時もあるよね」
隣で響くあなたの声も、どことなく小さくて、何処かへ消えていきそうだった。
そんな声を聴いていると、また堪えていたものが零れそうになる。口に出してしまうことで、本当に自分の頑張りが、全部無駄だったってことを思い知らされてしまうから。
そっか、そうだよね。
無駄になっちゃったんだ、私がしてきたこと、全部。
昨日、沢山のことが起こって、上手く受け入れられなかった、そんな事実が。
その時、ようやく心の底に、すとんと落ちてきて。
ああ、と零した言葉と一緒に、一粒だけ雫が落ちた。
まあ、いいや。どうせ、窓の外を向いてるから、誰も気付いてないはずだから。
きっと、隣で私のことを心配そうに見上げている、この人以外は。
そうして、しばらく重い沈黙が流れた後。
「―――じゃあ、私がいいとこに連れて行ってあげよう」
せんせいは、不意にそう口にすると、私の手をそっと引っ張り出した。
え、と反応する間すらなく。
せんせいは、とことこと早足で歩き始める。
まるで、誰にも見つからぬように、二人で何処かに逃げ出していくかのように。
私が泣いている姿を、誰にも見せないようにしているみたいに。
早足で通り過ぎていく私たちを目に止める、通行人の視線を振り切りながら。
しばらく歩いて、連れて来れられたのは、校舎の端。いつもの階段から少し歩いた先の場所。
その一つの前でせんせいは立ち止まると、部屋の前にある、ポストのようなものをガサゴソと漁り始めた。
視線を上にあげると『国語準備室』と書かれた札が下がってる。せんせいが漁ってるのは課題提出用のポストか何かだろうか。
しばらくして、せんせいはその中から、チャリっと音を立てて鍵を一つ取り出した。
「ふふ、杜撰な管理でしょ? みんなには内緒だよ?」
そう言いながら、せんせいはいたずらっぽく笑うと、その鍵を準備室のドアに差し込んでガラッと開け放つ。
少し暗くて、湿った空気と紙の香りの混じった、独特の匂いが鼻を揺らした。
せんせいは、そのまま私を中まで引っ張ると、そっとドアを閉じてしまう。
そうすると、さっきまで聞こえていた、周囲の雑音がふっと不思議なくらい遠のいてしまった。
おかげで、きぃっと、先生が木製の椅子を引っ張る音が、いやに響いて。
所狭しと並んだ本棚がまるで、洞窟の壁みたいに、小さな部屋の中で、私たちを見下ろすように佇んでいた。
「どうぞ、座って?」
そうして、せんせいに促されるまま、私は作業用のデスクと思しき場所にそっと腰を下ろした。
木製の頼りない椅子が、軋むような音を背中で立てる。
「最近、見つけたんだけど、なんとここ、ほとんど誰も使ってません。なぜなら、国語の先生は、みーんな職員室で作業するから、ほぼ倉庫になってるの。なんか、秘密の隠れ家みたいでしょ?」
そう言ってせんせいは、得意げに笑うと、くしゅんっと小さなくしゃみを零した。なるほど、確かに誰も使ってないみたいだ。おかげで、どうにもほこりっぽい。
「………………ありがたいけど、でもいいの? こんなとこ勝手に使って……人目もないし」
そうやって言葉を漏らすと、せんせいは自信満々にふふんと小さな胸を張ってた。
「だいじょーぶ、なんと校長先生の許可も取ってます。噂が落ち着くまでの緊急避難的なやつだけれどね。それに人目ならあるじゃん、この私の目が!」
そう言いながら、せんせいはふっと得意げに笑みを浮かべる。
私はそんなせんせいの顔をぼんやり見ながら、ふぅっと静かに息を漏らした。
きっと、本当は言わなきゃいけないことが、沢山ある。
昨日のお礼とか、これからどうするかとか、そんな適当でいいのとか、今の気持ちとか。きっと、色々。
ある、はずなのだけど。
ふっとせんせいが、顔を上げて窓の外を見た。
私もそれを追うように、座ったまま、その視線の先をなぞった。
丁度、曇りの空から少し日が差して、大きな窓からゆっくりと日の光が照り始めているところだった。
そろそろ夏が近い、暑く、明るい光が、私とせんせいの間にゆっくりと広がっていく。
きっと、言わなきゃいけないことが、沢山ある。
あるけれど。
………………なんだろ、今は、いいかな。
「ねえ、せんせい」
そう言いながら、私はこてんと古いデスクに、自分の頭をそっと横たえる。
「なあに、綾辻さん」
そうしたら、そんな私の頭に、柔らかい指がそっと乗った。さらさらと髪の毛の梳くように撫でる音がする。
柔らかくて、優しくて、少しだけ温かい。
そんな感触を、ただ感じたまま。
「少し眠っていい? …………ちょっと疲れちゃったから」
そう尋ねながら、答えも待たずに私は静かに眼を閉じた。
向き合うべきことは、きっと山のようにあるけれど。
今はただ。
少しだけ、このまま目を閉じていたかった。
「うん―――いいよ」
そうして、そんなあなたの声を聴きながら。
私、ゆっくりと微睡みの中へと落ちていく。
外の世界から切り離された、暗く静かな洞窟みたいな、その場所で。
せんせいの手に、撫でられながら。
今だけは、何もかもを手放して。
ただ、子どもが甘えるように。
「―――おやすみ」
そんな優しい声に、そっと耳を澄ましてた。
これが、私達の。
あの小さな国語準備室での。
蒼く、そして静かな、始まりの記憶。




