出会い―Ⅴ
何を言われたのか、わからなかった。
何が起こっているのかも、わからなかった。
だって、綾辻さんが、あの優しい子が、そんなことするわけない。
「表向きにいい生徒を演じている子ほど、裏では何をしているかわかったものではないということです。まあ、いい勉強でしょう、担任でもありますし、あなたも同席しなさい」
そう告げる教頭先生に、まず連れていかれたのは、職員室の隣にある応接室。そこにいたのは、涙を浮かべる三人の女子生徒。あまりよくはしらないけれど、委員会で見たことがある気がする。確か、委員長か何かをしていたんじゃなかったっけ。
「ごめんなさいね、辛いと思うけど、もう一度起こったことを話してくれる?」
そんな教頭先生の言葉と共に、彼女たちはここ数日の出来事を、涙混じりに語り始めた。
きっかけは、綾辻さんと美香と呼ばれる少女が、些細なことで口論になったこと。そして、どうやら、美香さんも推薦狙いで、それが綾辻さんと競合していたこと。
「美香の方が、推薦有力だから、あの子きっと妬ましく思ったんです!」
そんな委員長の少女の言葉を、私は半ば呆然と聞きながら、隣に座る教頭先生が話を進めるのをただ黙って見ていることしかできなかった。
その口論があったのが、一週間前の放課後。
そして、三日前、美香さんの筆箱がぐちゃぐちゃにされていた。
犯人は言うまでもなく、綾辻さん。それを実際に、委員長ともう一人の女子が見ていた。時間まではっきりしていて、5:30、丁度。
そしてこれを、教頭先生に相談、証拠や状況の整理をして、今日に至る。
信じられなかった、あの子がそんなことをするなんて。
もちろん、私は結局、まだ二か月と少ししか、綾辻さんのことを知りはしない。
いい子ほど、裏で何をしているかわかったものじゃない。それは実際そうなのかもしれない。
たとえ悪意や敵意が無くても、推薦という限られた席の奪い合いの果てに、そういったことが起こるのも別に不思議じゃないのかな。
「…………………………」
「…………というのが、事の顛末です。これを踏まえて、これから綾辻さんに、改めて事情を追求します」
教頭先生の言葉が、思考の上を滑っていく。
どうする? どうすればいい?
何をすればいい? 何を信じればいい?
わからない、だって私はまだ、先生になってたった二か月しか経ってないのに。
そのまま、少し呆けていたら「古戸月先生?」と、訝しむような教頭先生の声がして、思わずが肩が大きく震えた。
私は席を慌てて立ち上がり、応接間を後にしようとする。
わからない、何をすればいいんだろう。
一体―――誰を信じれば。
そう思考が止まりかけた、その瞬間。
どうしてか、私はふっと、何かに引き戻されるみたいに、去り行く部屋を振り向いた。
そこには、当たり前だけど、さっきまで涙を浮かべていた生徒が三人いて。
どうしてだろうか。
その中心、委員長と呼ばれていた少女。
その瞳が、酷く怪しく、揺らめいていたような。
その口元が、微かに、吊り上がっていたような。
気のせい――――? いや、でも。
そんな思考が、整理される間すらなく、今度は生徒指導室に連れていかれる。
そこにいた綾辻さんは、一瞬私のことを見上げて、ハッとなった顔をしたけれど、どうしてかすぐに痛ましそうに顔を伏せていた。
そして、そんな彼女の表情の理由は、すぐにわかってしまった。
席に着いた教頭先生が、今回の顛末を、改めてとうとうと語り始める。
傍らには、事前に部屋に着いていた校長先生が、その様子を黙って聞いている。
口をはさむ余地は何処にもない、そこまできてようやく、私はこれがもう決まっているストーリーなのだと理解する。
綾辻さんがここに呼ばれているのは、事情を聴くとか、真偽を確かめるとか、そういう段階の話ですらない。
決まりきった判決文を、決まりきった裁判官が、ただ読み上げてるだけ。
綾辻さんは、何も言わない、何を言ったところで意味がないのを知っているのかもしれない。
彼女の隣に腰を掛けた私は、まだ答えが見つけられてない。
何をするべきなんだろう、何を信じればいいんだろう。
わからない、未熟な私には、まだ何も。
わからない―――けれど。
ふと、隣の綾辻さんの表情を見つめた時。
その瞳は何かへの、怒りや痛みを、ぎゅっと堪えるように細められていて。
その手のひらは、まるで何かに耐えるかのように、強く握りしめられていて。
その口元は、本当は口にしたい言葉を、抑え込むように固く結ばれていた。
わからない、私には何も。
でも、その瞬間、ふっと視界が開けた気がした。
この子は、じっと耐えている。
何かを堪えて、叫び出しそうになるのを、ただじっと。
どうしてだろう、賢い子だから、無理に声を上げれば、余計に不利になることを知っているのか。
………………本当に、そんな子が、自分の推薦を棒に振るリスクを犯してまで、ただの嫌がらせをするのだろうか。
かちり、かちりと、音がする。時計の歯車が回るみたいに。私の頭の中の何かが、回るような音がする。
すっと顔を上げると、見えてきたのは教頭先生の怒りと軽蔑に染まった顔。きっと、この人にとって綾辻さんが犯人であることは、もう確定していて。これはその自白を引き出すための時間でしかない。
隣に座る校長先生は、神妙な面持ちをしているけれど、あえて何も口を開こうとはしない。中立を保つみたいに、部屋の様子と、綾辻さんの表情を監査するみたいに、じっと見ていた。
大人三人に囲まれて、17歳の少女が独り、じっと何かに耐えている。
……………………こんなのが、本当に大人が、子どもに対してすることだろうか。
そうして、ようやく私は気づく。私がここにいる意味を、ここで果たすべき責務を。
何を、信じればいいの―――じゃないよ。
今、この子には、味方なんて、独りもいないの。
この子の言うことを、ちゃんと信じてる人は、今、この部屋の中に独りだっていないの。
もし、このまま、誰もこの子の言うことを信じなかったら。
そんな傷が、この子のこれからの人生を形作ってしまったら。
この子は、もう誰かを信じることを、諦めてしまうかもしれない。
それは、ダメだ。
それだけは、ダメだ。
何してる、教師だろ。
やるべきことなんて、誰を信じればいいのかなんて、初めから決まりきっていたんだ。
信じろ、教え子を。
喉の奥で沸き立ちかけた震えを、ぎゅっと胸の奥底に飲み込んだ。
細く、切れ切れになる息を、無理矢理吸って、真っすぐと顔を上げる。
それでも、せめて君が、少しでも安心できるよう。
隣で震える、その冷たい手に、私の小さな手をそっと重ねた。
先生が生徒を、見捨てたら。
「本当に、彼女がやったんでしょうか?」
「私には、そうは思えません」
この子たちは、一体誰を信じればいいって言うの。
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