出会い―Ⅳ
別にうちが、酷く貧しい家庭だったかと言われればそうじゃない。
真面目なだけが取り柄の公務員をしていたお父さんは、ちゃんと学資預金はしていたし。それは私が、普通の大学に行くだけの額としては充分だった。
ただまあ、逆に言うと、それまでだ。
残ったお金は、お父さんが老後を過ごすための預金としては、正直不十分。離婚した母さんから、養育費もまともに送られてはいない。だから、居間の引き出しの奥に隠された通帳の預金が、うちにあるお金の全てだった。
働きながら、私独りで、お父さんの老後の面倒を見れるとは限らない。頼れる親戚も、思い辺りがない。そうなると、万が一に備えて、あの学資預金は手を付けないままでいたい。
中二の頃に、それだけの算段をこっそり立てて、私は大学の推薦を目指して勉強をし始めた。
幸い、成績はそんなに悪くなかったから、何事も問題なく過ごしていれば、推薦自体は多分取れるはず。
高一の頃の担任と相談して、大体のプロセスも確認済み。
ただ、家事もあるから、あまり家で勉強ばかりもしてられなかった。何より、一度お父さんに、ホントに学校楽しいか? と心配されてしまったから。あまり根を詰めてる姿も見せられない。
だから、学校の空き時間で、独り勉強を続けてた。
最近は、あのおっちょこっちょいのせんせいが、昼休みによく顔を出してくるけれど。まあ、それ以外は、何の支障もない。
そう思っていた、あの時までは。
始まりは、何時の頃だったろうか。
ゴールデンウイークも終わって、最初の試験も終わって、しばらくしたころ。
いつもの校舎の端っこ、封鎖された屋上に続く階段の隅で、勉強していたころのこと。
「――――…………」
声がした。
別にそれ自体は珍しい事じゃない。だって、いくら人が通りにくいって言っても、誰も通らないわけじゃないから。たまに物好きで、要領の悪い教師が通りかかることだって、よくあるし。
ただ、その声は段々と近づいてきて、やがてちょうど階段の下あたりで止まった。
おかげでよく聞こえるようになった声が、私のペンを滑らせる音を隠してしまう。
「だからね、千歳さん。いつも言ってるでしょ、ちょっと、空気読んで欲しいの」
じわり、と背筋の方に、わずかな不快感が滲んだ。たった、一言だったけど、そこに込められたのが、ろくでもない感情だということを、嫌でも思い知ってしまう。
「えと…………あの…………」
「あなたが発言するとね、委員会の会議が止まっちゃうの、皆でさっさと話し終わらせようとしてんのにさ。空気読んでくれないかなー、無駄に声もおっきいし。あれで美香は耳痛くなっちゃったんだって、この子、耳敏感だからさー」
ああ、解ってたことだけど、酷くろくでもない話だ。詰め寄っている側の声のすぐ後に、小さな笑い声がいくつか響いていたから、どうも複数人で囲んでいるらしい。
「で…………でも、あのままだと、休んでた人に、担当が集中しちゃってたと思うんです……それで…………私」
「えー、まあ、でも仕方なくない? 休んでるのも悪いしさ、それに確か、保健室登校であんまり来れてない子でしょ。どうせ、全部はやらないって、千歳さん心配しすぎー」
詰め寄られている側は、声こそよく通っているけれど、気持ちが完全に押されてる。ダメだよ、そういうやつに、まともな話ぶつけても、どうせ本気で聞いてやしないんだから。
「で…………でも」
「でもじゃないって、ねえ、わかんない? 邪魔なの、正直、ちゃっちゃと終わらせたいのに、いつもいつも口挟んで。そういうのはさ、大丈夫なようになってるの。なんだかんだ、上手くいくから」
詰め寄る声は諭しているようで、その実、相手の言い分なんて一ミリも聞いてない。「いいから黙れ」と言外に押し付けているだけだ。
「……………………ぅ」
「わかった? じゃあ、次からは静かにしててね、いい子ちゃんの千歳さん」
そうして、数分経って、その息が詰まるようなやり取りは終わった。
ちらっと階下を一瞬だけ覗いたら、詰め寄られていた方の女子は、じっと俯いて蹲っていた。その向こうに見えた、立ち去ろうとしていている女子は………………なんかの委員長だったような。あまり覚えてないけど、まあ、流れはなんとなくわかってしまった。
何かの委員の会議で、色々ごたごたがあったんだろう。それで、詰め寄られてた側の子が余計な何かを言って、それがあの委員長の癇に障ったと。
去り行く委員長の背中に、二人ほどくっついてたから、まあ数の暴力で言いくるめたんだろう。そうでなくても、詰め寄られてた方は、あまり立ち回りが上手そうには見えなかった。
残念ながら、バカ真面目だからと言って、この世は報われるようにはできてない。良くある話だ、小中でも何度となく、同じようなもの見てはきた。
だから、何も思わなかった。
だから、誰にも言うこともしなかった。
家に帰って、お父さんに、学校でなんかあったかって聞かれても。
翌日、せんせいに、今日どうかしたって聞かれても。
私は、黙って首を横に振った。
何もなかった、そう何一つ。
その次の週も、同じことがあった。
その次の週も、また同じ。
多分、週一で会議があるんだろうね、そのたびにあの子は、色々と詰められてるわけだ。
頑張るなあって気持ちと、いや勘弁してよ、勉強の邪魔だからって気持ちが半々で。
段々と、思考の奥に苛立ちが募っていくのが分かった。
一体、誰に怒っているんだろう、あの鈍くさそうな子にだろうか、それとも詰め寄ってる委員長にだろうか。
それとも、それに見て見ぬ振りをしている、どこかの誰かにだろうか。
結局、苛立ちが抑えきれなくなったのは、その次の週のこと。
さーっと六月の雨の音が響く中、少し冷たく湿った階段裏で。
また、誰かが、誰かを責める声がする。
「ねえ、ホントさあ、いい加減わかんない?」
その日は特に、詰め寄る委員長の声が荒だたしかった。
がんっと、金属を叩くような、耳障りな音がする。防火扉を叩きでもしたのだろうか。
「私、何回も言ったよね、ちょっとくらい学習したら? マジで邪魔なんだけど」
ヒッと、その子が小さく息を呑む音がした。滑らせていた私のペンも同時に止まった。
「もうさあ、わかってよ。いい加減、鬱陶しいの。いつまで正義のヒーローごっこがしたいの? もうあの不登校の子のことは、みんなみんな諦めてるの。どうせ、ろくでもない、引きこもりの根暗でしょ? そんなの気にして何になるの? 私はいい子ですよってアピールでもやってるの?」
じりっと胃の奥で、何かが淀む感じがする。
痛みとも、不快感ともつかない何かが、じわじわと湧き出して止まらない。
別に、この件に構う意味なんて、私にはない。面倒なだけだし、内申に響くかもしれない。今後数年の生活と人生設計、それとフルネームすら知らない子の立場なんて、天秤にかける意味もない。
世界はそんなに綺麗に出来ていないのだ。だれだって見て見ぬふりくらいするし、誤魔化すし、嘘もつく。だから、こういうこともある、仕方ない。
繰り返す、頭の中で、そんな言葉を。何度も、何度も。
「だからさあ――――もうあれか、痛い目見ないとわかんないかな」
何度も。
何度も。
そしたら不意に。
『えっと―――両親が、先生だったから』
あの能天気で、要領悪くて。
『そんなに……わかりやすかった?』
なのに、嘘すらつこうとしない。
『そ………………そこは…………うん…………頑張る』
あの教師の顔が浮かんだのは、なんでだったっけ。
気づいたら。
「ねえ、いい加減、五月蠅いんだけど」
階段の上から、苛立ちのまま、声を上げてた。
「毎週、毎週、飽きもしないでさ。ここで勉強してる身にもなってくんない」
問い詰められていた子と、それを取り囲んでいた三人の表情が、同時にピタッと固まる。
「そもそも委員長が独りに対して、そんな多人数で詰め寄っていいの? 眼にかけてくれてる先生方に、その姿、見られても平気なわけ?」
わなわなと委員長の顔が真っ赤に震える。でもあえて、そのまま無視して言葉を紡いでやる。
「知らない話に首突っ込んで悪いけどさ、落としどころも作れないで。意見言ったやつを詰めるだけのまとめ役に、なんの意味があるわけ?」
咄嗟に委員長の口が、大きく開いた。だから、あえてそれを潰すように、きつめに言葉を被せてやる。
「無能の癖に、だっさいなあ―――」
機先を制された口は、吐き出す言葉も見失って、委員長はしばらく震えた後にがんっと防火扉を強く叩いた。普通に金属製なのに、痛くないのかな。
「もう…………もういい!」
そういって、取り巻きと一緒に、去ろうとする彼女を横目に見ながら、私はちらりと詰め寄られていた女子に目を向ける。背は小さくて、眼元は涙で滲んでて、状況に追いつけていないの、か口はぽかんと開いている。
なんとなく、うちのせんせいに似てるなあなんて想いながら、私は軽く欠伸をした。はあ、緊張した。なんやかんやこういうのは、疲れるんだよね。
そう息を吐いた、瞬間に。
あ、しまったって思った。
さっきまで立ち去ろうとしてた委員長が、振り返って、私の顔をじっと見ていたから。
「ねえ、あなた―――綾辻さんよね。隣のクラスの」
執念と怒りと憎悪が滲んだような顔。この手の表情をする奴とは、大体関わっちゃいけなかった。
「確か、推薦希望だったよね?」
そう言った後、委員長は何も言わずに、踵を返していたけれど。
どうしようもなく嫌な予感だけが、じわじわと私の背筋を這いずり回っていた。
やっぱり、ろくでもないことに、首を突っ込んでしまったのかもしれない。
そう後悔したときには、もう何もかもが遅かった。
それは、一週間後のことだった。
「あなたが、隣のクラスの美香さんのペンケースを、ぐちゃぐちゃに壊したそうね」
「あの子たちがずっと見てたんですって、証拠のペンケースも受け取ってるわ」
「推薦希望の優等生だと思っていたけれど、どうにも間違っていたようね」
生徒指導室に呼びつけられた私は、眼鏡の奥でじっとこちら見据える教頭に睨まれながら。
根も葉もない、でっちあげの台本を聞かされていた。
ふざけるな、誰がそんなくだらないこと。
そう叫んでやりたいのに。
「証言はたくさんあるわ」
「あなたがやったのを、直接見た人もいる」
「言い逃れなんて、出来ると思わないことね」
「ああ、推薦も取り消しかしら」
ああ、くそ。
どいつも、こいつも。
嘘と、ズルと、欺瞞に塗れて、ろくでもない。
やっぱり、あんなことするべるきじゃなかった。
正直だとか、まっとうにとか、そんなこと何の役にも立たないって。
ずっと、わかっていた、はずなのに。
そうして、膝の上で、ぎゅっと拳を握った時に。
「本当に、彼女がやったんでしょうか?」
ふっと白い手が、私の膝の上に乗っていた。
私の隣に座って、ただじっと話を聞いていた、その人が。
せんせいが、顔を前へ向けて、確かに声を上げていた。
真っすぐと、揺らぐことなく。
小さく震えた指で、ぎゅっと私の手を握ったまま。
「私には、そうは思えません」




