出会い―Ⅲ
そうして、気付いた頃には、教師になって初めての一か月は、怒涛のように過ぎていった。
30人余りの子どもたちの顔と名前を必死に憶えて。初めての授業をたどたどしく、時々野次を飛ばされながら、何とか乗り切って。授業が終わるたび、フィードバックと称して、教頭先生からお叱りを受けて。
休む間もなく、短距離走をずっと走り続けているような、目まぐるしく変わる一か月と、ゴールデンウイークを乗り切って。
「ねー、古戸月先生、私最近、この配信者にはまっててさー」
「ていうか、古戸月先生って呼びにくくね?」
「んー、じゃあ……ことちゃんで」
「ことちゃん、いいね、可愛い。なんか、小動物みがある」
私は、順調に、いじられキャラと化していた。
お昼休み前の授業が終わって、課題のノートを回収していると、活発な子ども達があれよあれよという間に寄ってきて、わちゃわちゃと話してくる。
親しく接してくれているのはいいのだけれど、接し方が教師というより、同級生とかに近いのは気のせいじゃ……ないんだろうなあ。この前も、教頭先生に、もっと威厳をしめしなさいと怒られたばっかりだし。
とほほと、心の中で涙を流しながら、私は男女ともに私より背の高い子ども達にやいのやいのと言葉でもみくちゃにされていた。みんな、教頭先生の前だと、真面目な感じなんだけど、私一人になるとこう距離の近い感じになってしまう。
それにしても、ことちゃんかあ、小学校の頃と同じあだ名だなあ…………。あまりいい想い出はないのだけれど。
「つーか、ことちゃんさあ、なんで初日の挨拶の時、あんな真面目に答えたのー?」
そうやって尋ねてきたのは、確か、種島さんだっただろうか。
「初日の…………どれのこと?」
正直、担任初日のことなんて、色々やらかしが多すぎて、どれのことか特定できない。悲しくて、たまらない。
「あれ、あれ、先生になった理由ってやつ。私らが言うのもなんだけどさー、大人ってもっと立派な答えを用意しとくもんじゃん?」
そう種島さんが指をぴんと立てると、周りにいたみんながあーっと納得したように頷いていた。私も、思わずあーっと声を零す、多分、冷や汗を垂らしながらだったけど。
あの答えは今、想いだしても……ない。可能ならあの記憶と一緒に、富士山の火口にダイブしたいくらいには、ない。
ただまあ、今更、なかったことにはできないのも事実なわけで……。
仕方がないので、結局、ありのまま答えることにした。
「…………初日から、皆に嘘吐きたくなかっただけかな」
結局のところは、それだけだ。
拙くて、立派な所なんて一つもない私だけれど。せめて、嘘だけは吐かないように。でないときっと、この子たちは、大人は誤魔化しの嘘を吐くと、私の姿を見て覚えてしまうから。
まあ、そういうのは…………もっと嘘を吐かなくても大丈夫な、立派な教師になってから、言うべき台詞かもしれないけれど。
「へー、ことちゃん、損な性格してんね」
うぐ、っと種島さんの言葉が、胸にナイフの如く突き刺さる。
「あそこは嘘吐いてもよかったと思うけどなあ。教頭先生も見てたし。ことちゃん、なんか生きるの下手そーだな」
ごふ、っと萩原くんの言葉が、砲弾の如く腹にめり込んだ。
そうして、私が独り、苦しみに呻いていると、みんなはけらけら可笑しそうに笑ってた。ふ…………ふふ、いいの、子ども達が楽しいのなら。そして、正直な大人であることを示せたなら…………いい……はず。…………多分、メイビー。
なんて、自尊心の低下に苦しみながら悶えていた、そんな時。
ふっと、視界の奥を通り過ぎる影があった。
ちらっとそっちに目を遣ると、教室のドアの向こうへと、なだらかな黒髪が揺れながら去っていく。あれは………………。
「綾辻さん…………どこ行くんだろ?」
初めての授業の日に、私を助けてくれた彼女。だけれど、それ以降はあまり話をする機会はなかった。いつも落ち着いてて、真面目で、宿題とかは全部きっちりやってくるけど、あまり多くは喋らない。
友達がいないとか、コミュニケーションが苦手とか、そういう感じではないのだけれど、昼休みになるといつも教室にその姿はなかった。
そんな私の視線に気づいた種島さんが、あー、と何気なく声を漏らす。
「あー、綾辻さんね、いっつも昼休みなると、どっか行っちゃうよね」
「愛想悪いわけじゃないけどな、なんつーか一線引いてる感じある」
そんな子どもたちの声を聴きながら、私はふーむと少し声を漏らした。
今は誰もいない、彼女の空席をちらりと見て、私はそっかと軽く頷いた。
そんな彼女のことが少し気になったのは、やっぱり授業初日に助けてもらったからだろうか。
そうして、袖を引っ張る子ども達と別れて、職員室に戻るまでの間、少し視線を巡らせながら歩いてみる。
他のクラスに……姿はない。図書室とかにいるわけでもない。中庭は…………今日は雨だし。
そうやって、校舎の外れの階段に差し掛かったあたりで、ふっと小さな違和感が私の鼓膜を揺らした。
さらさら、さらさらって。
小さく、小さく、何かを滑らせるような音がする。
さっと周りを見てみても、通りすがる生徒たちしかいない。
がやがやと少し遠くでみんなが騒めく音の中。しとしとと五月雨が降る音の中で、その滑るような響きは、微かな背景音のように溶け込んでいた。
なんとなく少し足を止めてしまったのは、私が昔からそういう細かいところに、つい夢中になってしまう性質だったからだろうか。
音の出所を探して、少しだけふらふらと歩いてみる。
すると、封鎖された屋上へと続く階段から、その音が微かに響いていることに気が付いた。
当たり前だけど、そこは本来、誰も使ってはいない行き止まり。
でも、なんとなく、その先に彼女の姿があるような、そんな気がした。
だって、私も学生の頃、たまに独りになりたくなったら、こういう場所を見つけてこっそり膝を丸めていたから。
そっと足音を立てないように、階段の暗がりを登って、ちらっと階段の上を窺ってみる。
そこには、案の定というか、予想通りというか、流れるような黒髪の彼女が、膝に乗せたノートにさらさらとシャーペンを滑らせていた。
英語のノートだろうか、どうにも勉強中だったらしい。
邪魔しちゃ悪いなあって思ったから、そっと顔を引っ込めようとしたら、不意に鼻の奥がむずがゆくなる。
あんまり使ってないとこだから、掃除が行き届いてなくて、妙にほこりっぽかったせいかもしれない。
「ふぅぇっくしゅん!!」
酷く盛大に、可愛げの欠片もないくしゃみが飛び出した。うう、と鼻水を啜りながら顔を上げると、なんともまあ、随分と驚いた顔をした綾辻さんが私を見ていた。
「あ…………あはは、綾辻さん、いつも、こんなとこで勉強してるの?」
何もともあれ、気付かれてしまったものは仕方ない、ちょっと気さくな教師風に話を振ってみる。すると綾辻さんは、しばらくノートを見つめた後、ふぅっと軽く息を吐いていた。
「…………うん、図書室は、意外と話声あるから苦手なんだ。ここなら誰も来ないから。放課後とかも、結構穴場なんだ」
そう答えた後、彼女はじっと私に目を向ける。で、何の用? と問い詰められているかのようで、私は思わず居心地が悪くなってしまう。
うーん、明らかに邪魔をしてしまったので、ここは素直に撤退するべき。
……そう、理性で判断はしているのですが。
「なるほどお…………」
言いながら、とんとんと階段を上がって、ぽすんと綾辻さんの隣に何食わぬ顔で腰を下ろしてみる。…………ちょっと無理があったかな。
ちらりと隣を窺うと、綾辻さんは急にカピバラが隣に座ってきたかの如く、酷く怪訝な顔で私を見ていた。
「…………で、先生は何の用?」
そう言って尋ねる彼女は、どことなく距離があって、なるほどこれは確かに一線を引いている感じだ。萩原くんの言葉を想い返しながら、私は思わずうーむと唸りだす。
ディスイズ、ノープラン。なんか文法違う気がするけど、私は英語教師ではないので……。
「いや、なに勉強してるのかなーって思って………………」
無理があるか? いや、そんなこと言いだしたら、ずっと無理がある。ということは、もう今更引く理由はないのかもしれない。
なんて私の心の内の言い訳を、綾辻さんは知っているはずもないので、余計怪訝な視線を頂いた。だけど、しばらくしたら、はあとため息をつきながら、そっと私にノートを見せてくれる。
「別に、普通の英語の勉強だよ。次の試験、もう少しでしょ? 早めに試験勉強してるだけ」
そうして、彼女が見せてくれたノートには、綺麗な文字で英文がつらつらと並んでる。おお…………試験数週間前に、ちゃんと勉強してる子とか、ホントにいるんだ。都市伝説だと思ってた。
「真面目だねえ…………そういえば、綾辻さん1年の頃から、成績よかったもんね」
引継ぎで貰った去年の資料を思い浮かべながら、私はふむと軽く頷く。なんてお手本のような優等生、既に私より賢そう。
なんて独りで感心していると、綾辻さんはふぅんと軽く頷きながら、首を傾げた。
「…………先生って、そういうの、わざわざ覚えてるんだ」
「……? そりゃあねえ、受け持つ子達の資料は、ちゃんと目を通してるよ…………あ、そういえば、推薦希望なんだっけ?」
確か、高一の学期末に進路希望があって、その資料も共有されていた。
他の子がまだ、高一らしい曖昧な内容を書く中で、彼女だけ嫌に明確に推薦と書いてあったので記憶に残ってた。
「うん…………うち、片親だからさ、奨学金でるとこ行きたくて。そしたら、めぼしいとこは推薦だったから」
そう言いながら、綾辻さんは少し目を逸らして、ぼやくように言葉を漏らした。私は思わずおお……と独り唸ってしまう。
高二の初めで、家庭の事情まで考えて、己の進路を明確にしている……だと?
なんとなく、あやふやに教師になるとか言っていた当時の私に、爪の垢煎じて飲ませてやりたい。
「えらい…………えらすぎる。…………大学は、勉強したいこととかあるの?」
だから、自然とそう尋ねてみたのだけれど。
「いや、別に?」
存外、返事は素っ気なく帰ってきた。
「え」
「大学行った方が、生涯年収高いから、正直そんだけ」
そうして彼女は、軽く伸びをしながら、こともなげにそんなことを言ってのける。
うむむ…………しっかりしてるのか、シビアなのか。
当時の私は漠然と、こんなことができたらいいなという夢しか持ち合わせがなかった。あまりの価値観の違いにうむむと唸りながら、私は彼女に見せてもらった英語のノートをじっと眺める。
綺麗な文字だ、少し走り書きだけれど、要点ははっきりわかる。そんな筆跡の中に、少しだけ丸みがあるのが、ちょっと不思議な可愛さがある。
「そ、そなのかあ…………」
「そう…………だから、大した話じゃないよ」
そう言って彼女は、私の手の中にあったノートを、そっと抜き取って手元に戻す。
私は遊び道具がとられた子どもみたいに、ちょっとあたふたとしてしまう。でも、隣の彼女が静かに目を細めて見てたから、慌てて居住まいをそっと正した。
「いや、でも、凄い頑張ってるよ………………私も頑張らなくちゃ」
そうやって、ふんっと気合を入れ直してみたら、そんな私を綾辻さんはじーっと見つめてた。なんだろう、まるで品定めでもされているような。
「古戸月先生ってさ、そういうの素で言ってるの?」
…………なんだろう、酔っているとでも思われているのだろうか。
「大丈夫。私、アルコールは全然飲めないよ?」
この前、歓迎会でワインを飲んで、えらい目にあったもの。
「いや、そうじゃなくて…………まあ、いっか」
いいながら、綾辻さんはそっと視線を伏せて、ふぅっと足を延ばしてた。
「…………ていうか、ごめん。お邪魔しちゃったかな」
いくら気になったとはいえ、勉強の邪魔するのも悪い。彼女なりに頑張る理由があるとわかったなら、尚のこと。
「ううん、ちょっと煮詰まってたし、全然いいよ。ていうか、先生こそ私なんかに構ってていいの? いろいろやることあるんでしょ?」
そうやって彼女は、少し窘めるように私を見てくる。
なので、私はふふんと胸を張って、自信満々に答えを返す。
「子どもたちのことを知ること以上に、大事なことなんてないのです。ちょっと次の授業の準備が遅れるだけで」
「そのせいで、教頭先生に怒られても?」
うっ…………と胸が詰まるのは、今日でいったい何度目だろう。三か月もしたころには、胸筋だけ強靭になっているかもしれない。
「そ………………そこは…………うん…………頑張る」
なんとも情けない返答だった。案の定、綾辻さんには、くすっと笑われてしまう。
「変な先生」
そうして漏れ出た彼女の笑みは、どうしてか酷く眩しくて。なんだか妙に顔が熱くなったのを覚えてる。
「う…………じゃ、じゃあ、また教室でね? 勉強頑張ってね?」
そうして、彼女と別れようと階段を下りかけた、そんな時。
「ねえ、古戸月先生」
唐突に背中からかけられた言葉に、わずかに肩がびくんと揺れる。
「な…………なに?」
そうして、下から見上げた彼女は、どこかしたり顔めいた笑顔を浮かべてた。
「――――古戸月って呼ばれるの嫌いでしょ」
一瞬、かすかに息が止まった。
…………………………。
「そんなに……わかりやすかった?」
もれる声が、少し震えているような気がする。
「ううん、多分、他は誰も気付いてないと思うよ」
綾辻さんの眼は、獲物を定める猫みたいに、きゅっと細められていた。
「そう…………ならいいんだけれど」
声漏らしてみるけれど、どうにも少し居心地が悪い。
「理由、聞いてもいい?」
そうやって投げられた問いに、答えを返すか、一瞬、迷ってしまう。だって、正直に答えて失敗したのは、つい一月前のことだし。
「………………子どもの頃、名前でからかわれたことがあるから」
でも、結局、私はやっぱり嘘が吐けないで。
「ああ――――」
そんな私に、綾辻さんは、ふぅんとどこか納得したように頷いていた。
「……それだけだよ、だから、気にしないで」
胸の奥が少しざわざわする感触がする。心の底を、咄嗟に誰かに見せしまったみたいな、そんな奇妙なざわつきがある。
「そう――――わかった。
じゃあまたね、せんせい」
そうして、彼女が紡いだ言葉は、気を遣っているくれているのか、揶揄われているのかわからなかったけど。
不思議と、あまり嫌な気がしなかったのは、なんでだろう。
そうして、去り行く私を見つめる彼女は、どこか愉しそうに微笑んで手を振っていた。
そんな彼女を横目に見ながら。
「せんせい」という、彼女の澄んだ声の響きを、頭の奥から、私はどうにも振り払えずにいた。
なんだか、不思議な子だなって、思ったのを覚えてる。
※
それから、更に一か月経った頃。
「え?」
「綾辻さんが――――いじめを―――してた?」
それは梅雨時の雨が、ザーザーと音を鳴らしてる。
少し冷たい午後のことだった。




