出会い―Ⅱ
せんせいを一目見て抱いた印象は、確か『要領悪そう』だった。
新任だって言うのと、教室の後ろで教頭が目を光らせてるのを差し引いても、進行はたどたどしいし、言葉尻は覚束ないし、ずっとちょっと慌ててる。
高二のはじめっていう、まあ、ほどほどの緊張感があるはず場面で、逆にクラスの空気は少し緩んでいたまである。だって教壇に立ってる人が、一番緊張してるんだから。
あまりに進行がグダグダで「古戸月先生」って教頭が一喝したときは、トランポリンに乗ってるのかってくらい、飛び跳ねていた。
前のクラスから引継ぎの顔見知りと軽く言葉を交わして、大丈夫かね、と内心首を傾げてたのを覚えてる。
で、その予想は、翌日にはもう的中するわけだけど。
昼休みがそろそろ終わりに近づくころ、トイレに行って少しぼーっと歩いていたら、階段の近くでえらくふらふらとした人影を見つけてしまった。
学生の私より、二回りくらい小さい背丈、とんっと押せばそのまま転がり出していきそうな華奢な体躯。それが、両手いっぱいに本か何かの包みを抱えて、ふらふらと階段を上ってく。
途中ですれ違った私に気付く様子すらなく、ひーひー泣きそうな顔をしながら、必死に教科書だか、資料集だかを運んでた。
大丈夫かな、と思わずその背をしばらく見上げていたわけだけど。
あ、と声が出た時には、もう遅くって。
ものの見事に、重さに耐えかねたらしい膝がすとんと崩れて、その小さな背中が綺麗に宙を舞った。
思わず咄嗟に手を伸ばして、その背中を抱き止める。
ワンチャン、私ごとそのまま転がり落ちるかもと思ったけれど、存外、あっさり受け止められた。どう考えても、せんせいの体重が軽すぎたせいだけど。
「………………大丈夫? ……えっと、古戸月先生」
「綾辻……さん?」
まだ呼び慣れていない、その名前を口にする。そんな私の腕の中で、あなたは唖然としたまま、こちらを見上げてた。何が起こったか、咄嗟にわかっていなかったのかもしれない。
とりあえず、私がよっこらせと、せんせいを階段の上に、もう一度立ち上がらせる。それでも、その眼はしばらくぱちくりと瞬きを続けてた。
ただ、数瞬して、今何が起こりかけたのかを、ようやく理解すると、さーっと面白いように顔が青くなっていく。
「ふう…………危なかった。よかったね、私がいて」
「………………あ、えと、うん、ごめんね。あ…………け、怪我無い?」
軽く手を払いながら息を吐いて、私はそっと首を横に振る。
「ぜーんぜん、むしろ先生の方が、怪我してそうだったよ?」
そんな私の言葉に、せんせいはしばらく眼を瞬かせて、慌てて自分の身体を検分していた。まあ、でも幸い、お互い大きな怪我無かった。
「だ、大丈夫だと、思う。本当にごめんね? …………あと、ありがとう」
そう言って、ぺこぺこと頭を下げるあなたを見ながら、私は軽くため息を吐く。
別に教師だから、偉そうにしろとは思わない。ただ、それはそれとして、威厳を感じにくい人なのは確かだった。
「どーいたしまして、で、先生は何してたの?」
ちらっと腕に抱えた包装用紙から覗く、教科書の一部を見ながら、私はわかりきった問いを投げかけてみる。
「え、えっとね、次の授業用の教科書と資料集を、運んでたの」
帰ってきた答えは、案の定。階段の手すりから、下をそっと覗くと、山のように積まれた本の束がそこにどしんと鎮座していた。なんなら、せんせいの体重より重そうだ。
「ねえ…………もしかしてあれ、先生独りで運ぶの?」
そうやって問うと、あなたは軽く肩を震わせてから、不思議そうに首を傾げた。
「…………う、うん? だって、私の授業で使うわけだし。…………本当はもっと前もって持ってこなくちゃいけなかったんだけど」
そう言いながら、せんせいは少し肩を落として、地面を見つめてた。
私はそんな彼女を見ながら、あー…………って、思わず呻き声を零してしまう。
初日から、なんとなく察していたことではある。新任の教師なんだから、色々と勝手が分からないのも確かなのだと思う。
ただ、それはそれとして、この人はどうにも独りで全部やろうとする癖があるのだろう。たった、二日でそれくらいが分かる程度には、それが露骨な人だった。
はあ、と私が小さくため息をつくと、せんせいは少し心配そうにこちらを見ていた。
「……あのさ、こーいうのはね、委員でも、そこらにいる生徒でも、適当に声かけて、持ってこさせりゃいいの。あんなの、先生独りで、持っていけるわけないでしょ?」
そうやって、私が指摘すると、せんせいはうぐっと喉を詰まらせた。気づいていない……わけでもないとは思うけど、まあ、なんか変な気でも使ってたのかな。
何はともあれ、私は軽く肩をすくめながら、階段傍の教室の近くまで駆け上がると、すっと息を軽く吸う。
「ねえー! うちの先生が、階段で教科書に潰されそうになってるから、誰か助けてくんなーい? できれば、男子! あとは暇な人!」
そうやって、少し大げさな声でクラスの中に呼びかけると、ひょこっと数人の顔が窓から覗いた。なんだなんだと、野次馬じみた奴らも来たので、どうせだから全員引き連れてせんせいのとこまで連れていく。
まだ顔と名前も覚えてないのが、大半だったけど、人間これくらいの手助けは誰でもするもんだ。
あやっちどうしたーって、前のクラスの知り合いが話しかけてきたから、かいつまんで状況を説明する。階段下の教科書の山を見つけると、みんなして、あー……と、私と似たような反応をしていた。
「いやー、古戸月先生の細腕で、あれは無理でしょ」
「むしろ、よくここまで運んでこれたな」
「先生、うちのハムスターくらいしか、パワーなさそうだもんね」
「ちなみに、さっき私が受け止めてなかったら、この人階段から落ちてたから」
「あっぶなあ…………、嫌だぜ、先生、登校二日目で担任が病院送りとか。てか、綾辻ナイス」
「じゃあ、やるかあ。っしゃ、男子キリキリ働けいぃ!」
「へーへー、え、女子は持たんの?」
「持つけど! 食べたばっかだから、さっき食べたメロンパンが、うっ……てなりそう!」
「勘弁してくれ。……つっても、これ一人一束持ってったら終わりじゃね」
「確かに、やっぱ力仕事は数だね、兄貴」
なんて、結局10数人くらい顔出してきたから、そのメンツで、資料集はあっという間に運び終わった。授業の開始時間、ギリギリだったけど。まあ、なんとかセーフ。
そんな私たちを、せんせいはどこか唖然としたまま、信じられないとでもいうような眼で見てた。
「ねえ、先生、なにぼーっとしてんの、授業始まっちゃうよ?」
わいわいとみんなが騒ぐ中、少し外れた場所で立ち尽くすあなたを振り返って、私は何気なく声をかける。
せんせいは、しばらく時間が止まったようになっていたけど、はっと正気に戻ると、やがて意を決したようにととと私たちの所まで駆けてきた。
「え、えと、………………み、みんな!」
そうして、何を思ったのか、珍しく声を張り上げて私たちへと目を向ける。どことなく紅く潤んだ瞳で。
そんなせんせいを、みんなして不思議そうに軽く振り返る。そんな声出せたのね、って、多分全員、内心ちょっと驚きながら。
「あ、ありがとう! 本当に助かったよ!!」
そう言って、ぺこりと頭を下げる姿が、あまりにも真面目で必死だったから。
内心、この人大丈夫かなあって思っていた私たちも、半分毒気が抜かれてしまった。
どーいたしましてー、とか。あんなの独りでやっちゃだめだよーとか。
みんながけらけらと笑う声を聴きながら、あなたはどこかじっと何かを噛みしめているようだった。
「大丈夫? 古戸月先生」
そんなあなたに、そうやって声をかけると、その肩が不意にびくんと揺れる。
ん? と軽く疑問を抱いたのは、なんでだっただろうか。
まあ、その時はそういうもんかって思ってただけだったけど。
ぱっと振り返ったせんせいの顔が、本当に涙で滲みかけていたものだから。
その時は、私含めて、何人かの子は大慌てになってしまって。
結局、ようやく授業が始まった頃には、目が真っ赤で声が濁ったせんせいと、若干冷や汗と苦笑いを浮かべた私たちが残ってた。
確か後から視察に来た教頭が、訝しそうに首をかしげていたっけね。
この人、こんなんで大丈夫かなあって、えらく心配になったのを覚えてる。
でも、不思議と嫌いになれなかったのは何でだろうね。
「じゃ、じゃあ、ぎょうがしょの一ページから!!」
そうやって、必死に授業を始めるあなたが酷く懸命だったからだろうか。
「先生、一ページは目次でーす」
そうやって、クラスの中に広がる笑い声が、どことなく仕方ないなあっていう雰囲気を纏っていたからだろうか。
今となってはわからないけど。
そんな風に、窓から吹く春風と、散りかけた桜が舞い散る中で始まった、初めてのあなたの国語の授業は。
どうしてか未だに、私の記憶から消えることなく残り続けてる。
春になると、そんな情景を未だに、時々想いだす。




