第9話 教え子を優しく撫でる
「ねえ、せんせい、もし体調が良かったら……明日どっかにお出かけしない?」
金曜日の夜、お風呂を上がってリビングに戻ると、あーちゃんは軽く欠伸をしながらそんなことを尋ねてきた。
「明日? …………うん、大丈夫だけど」
そう返事しながら、そういえば、もう金曜日なのかと、一人でちょっとびっくりする。
先週の土曜日にあーちゃんと再会してから、もう一週間が経とうとしている。
そんな事実に、なんだかちょっと現実感が追いついてないような。足元がふわふわしたまま歩いているような、画面の向こうの出来事をぼんやりとみているような解離感が、どうにも消えてくれない。
うちから持ってきた小さなマグカップを手に持ちながら、スマホを触ってうーんと唸るあーちゃんの隣に、そっと腰を下ろした。
「ごめんね、急に……この一週間バタバタしてたから、週末の予定とかすっかり忘れてて。どこいこっか、せんせい、見たい映画とかある?」
そんな、どことなくぼんやりとしている声を聴きながら、私はあーちゃんが淹れてくれた、冷たいハーブティーを口に運んでた。
「私は…………最近の映画はわかんないや、あーちゃんの行きたいところでいいよ?」
そんな私の返事に、あーちゃんは眼を細めて、うーんと唸り続ける。「……せんせい、それが一番、難しい返答だよ?」なんてぼやきながら、またスマホをスワイプして、何やら一生懸命探してる。
「私、あーちゃんと行くなら、多分、何処でも楽しいよ?」
そうやって漏らした言葉は、確かに偽らざる本音だったけど。あーちゃんは、どうしてか、余計に口を尖らせていた。
「せんせい、そんな恥ずかしい事、堂々と言っちゃだめだよ…………」
そうやって、軽いお叱りを受けたので、あれまと肩をすくめておく。そうしたら、あーちゃんはしばらく悩んだ末に、ぼふっとスマホをソファに落としてしまった。
「………………うーん、眠気のせいで決断力が足りない」
そう零すあーちゃんの眼は、確かに大分しょぼしょぼしてる。まあ、金曜の夜だもの、きちんと働いているあーちゃんにとっては、一番おねむな時間でしょう。
「うん、じゃあ明日、決めよ。私も何か考えとくから」
そう言いながら、机にべたっと突っ伏すあーちゃんを横目に、私も少しだけ思考を回す。
お出かけかあ…………何処がいいだろう。映画館、お祭り、図書館、ショッピングモール、カフェ…………公園は今の時期は、少し暑いかな。
そうやって、ぼんやりと考えながら、なんとはなしに目の前で机に突っ伏すあーちゃんの首元へと手を伸ばした。
お風呂上がりだから、少し髪が湿ってて、肌の熱さと濡れた冷たさが織り交ざって、なんとなくくすぐったい。撫でる肌は絹のようになだらかだけど、触れる感触にかすかなざらつきがあるのは、彼女も少し大人になったからだろうか。
高校生の頃、何度なく撫でたその肌は、本当に傷一つもないほどになだらかだったけど。
でも、今の少しざらついた手触りが、不思議と嫌いだとも思わなかった。だってこれは、確かにあなたが、今日までその人生を頑張って歩んできた証なのだから。
飼い猫にそうするように、喉と首元を優しくなぞり続けたら、あーちゃんの顔がかすかにそっとよじられる。気持ちよさそうに、私の手に甘えるみたいに。
そんな彼女の姿を見ていたら、思わずふっと笑みが零れてしまう。
誰かに甘えてもらえる。誰かに求めてもらってる。そんな事実が、私の胸のほんの少しだけ軽くしてくれた。
現役時代もこうやって、彼女からは、何かとても大事なものをずっと貰っていたような気がする。
一見、私が与えているようで、本当は沢山貰っていた。
そこで頑張る意味や、価値を、きっと私はあなたたちにずっと教えてもらっていたんだ。
そして、それは教師を辞めてしまった、あの日から、もう二度と与えられることはないものだと想ってた。
「………………」
今更だけど、どうして、私は、こんなに恵まれているのだろう。
あーちゃんの耳の裏、そこをくすぐると、彼女はそっと気もち良さそうに眼を閉じる。
触れ合いを、親愛を、優しさを。
こうしているだけで、溢れるほどに感じさせてもらってる。
一週間前まで、私の指は、冷たくて無機質な物ばかりにしか、触れることができなかったはずなのに。
そうやって、考えていると、ああと少しだけ納得する。
どうして、この一週間、ずっと現実感がなかったのかを。
だって―――あまりにも幸せ過ぎたから。
もう、見せる顔すらないはずの、大切な教え子と偶然、再会できて。
ずっと、独りぼっちで、お金もなくて、何のために生きているのかもわからなくて。
明日、目を覚ますことすら、怖がっていたはずの私が。
今、少なくとも、明日の生活を心配することもなく、こうしてまた君の隣に居させてもらってる。
終わりのない孤独と、不安と、貧しさの中にいたはずなのに。
その全てが、嘘みたいに、霧のように何処かへ追いやられてしまった。
終わらない雨の中、ずっと耐えることしかできなかったはずの私を、小さな洞窟の焚火の傍まで、君が連れてきてくれたかのようで。
……………………でも、わかってる。これは結局、一時の夢だ。
だって、いつまでも、あーちゃんのお世話になるわけにはいかない。少し生活が落ち着いたら、また私は、きっとここを去らなければならないから。
だって、彼女の一生の重りにだけはなりたくない。
「………………あーちゃん」
そうやって、零した私の言葉は、少しだけ震えてて。それが君に気付かれやしないかと、ちょっと心配だったけど。
ふと気づくと、首元を撫でていた君は、静かにその眼を閉じていた。
「…………こんなとこで寝たら、風邪引いちゃうよ?」
そう口にはするけれど、起こすのは少し忍びない。
だって、こうやって、眠る君を撫でてると、あの国語準備室の光景をどうしても想い描いてしまうから。
私の人生で、一番静かで穏やかだった、あのひと時が。
瞼の裏で、何処までも広がるような蒼い空の色と一緒に、滲んでいくから。
ふっと息を吐くと、喉の奥で淡い熱が、じわりと広がっていく。
そこから生まれる雫が、どこかへ零れ落ちていかないように。
眠るあなたを起こさぬように。
静かに眼を閉じながら、そっと優しく、その暖かな首元を撫で続ける。
まるで本当に、夢のよう。
何度も、何度も、思い描いたあなたの鼓動が、今確かに私の手の中にある。
もう、きっと、二度と触れることすらないと思っていた、その温もりが。
今、確かに、傍にあるから。
「ねえ、あーちゃん…………私、明日、図書館に行きたいな」
「日傘を差して、二人でちょっとお散歩しながら」
「帰りは、カフェによって、冷たいカフェオレを一緒に飲んで」
「そうやって、二人で、静かに過ごしたいかな」
そんな、夢のような、小さなお願いを。
あの頃にも、実は少しだけ思い描いていたりしたのだけれど。
「ねえ、あーちゃん」
私、本当はね。
あなたにとって、ほんの小さな想い出になれたなら。
それだけで、充分だと想ってたんだよ。
たとえあなたの隣を歩くのが、私じゃなくても―――。
そうして、あなたの首筋に、そっと私の頬を重ねたころに。
「……………………うん」
「…………それでいいよ」
「…………せんせいと、二人なら」
「私は…………どこだって…………」
消えそうなくらい、小さな君の優しい声が。
そっと、重ねた肌を伝って聞こえてた。
その柔らかな温もりだけは。
何一つ変わることもないままに。
※
その夜、私は夢を見た。
君と出会ったばかり頃の。
淡く、蒼く、懐かしい、そんな夢を。




