第8話 せんせいに抱きつく
高校時代、せんせいは、よく髪をポニーテールにしてくくってた。
少し癖っ毛のある、生まれつき明るい色の髪を、一つにまとめて。
梅雨時はそれだけだと、まとまりきらないから、私が何度か髪を結び直したこともあったっけ。
後ろから見ると、真っ白で細くて、今にも折れちゃいそうな首元が印象的だった。こうぎゅって握ったら、女の私でも片手で絞められちゃいそうで。
そんなことを考えてから、たまにちらちら見ていたものだから、せんせいは不思議そうに自分の首元をさすってたっけ。
「ねえ、あーちゃん…………なんかついてるの?」
「うん、ほくろが一つね」
せんせいの首の後ろ、少し右あたり、多分、髪をくくってないと見えない位置。そこに小さな黒いほくろが、真っ白な肌に一つぽつんと落ちていて。
たまに、そこをつっついて遊んでたら、顔を真っ赤にして怒られたっけ。
首の後ろは酷くくすぐったいらしい、せんせい、びんかーんって、あの当時は揶揄って遊んでいたけれど。
今にして思えば、若さゆえに出来た蛮行だった気がしなくもない。だって、今の私がやったら間違いなくセクハラだし。
ただまあ、7年の時を経て、理性と良識を得たところで、欲望は別に消えるわけでもないもので。
「………………あーちゃん?」
お風呂上がりに、せんせいはドライヤーを当てていて。
温風に巻き上がった髪の毛の隙間から、小さなほくろがちらっと見えてしまった。
なので、私はそっと眼を閉じて、それ以上、その場所に目を向けないようにした。
だって、お腹の奥が、ずくっと微かに疼いて、少しいたたまれない気持ちになったから。
ただまあ、少し誤算があったとすれば、目を閉じたことで、昔の国語準備室でみた、首元の光景がまたフラッシュバックしたことだろうか。
当時嗅いだ、少し甘いあなたの髪の香りまで、どうしてか鮮明に。
「………………なんかついてる?」
そう言って、せんせいは、不思議そうに首をかしげていたようだけど。
私は何も言わず、首を横に振ることしか出来なかった。
ドライヤーの温風に乗って、香る匂いは、不思議とあの頃のままだった。
※
「う――――………………」
せんせいがうちに来てから、大体4日くらいが経過した。
最初は違和感があった、自宅に誰かが住んでいるという感覚も、なんとなく慣れてきた今日この頃。朝の起き抜けに、隣にせんせいの体温があることを、噛み締める時間も少しだけ減ってきた。
生活上の問題も、小さなことはあるけれど、今のところは問題ない。
せんせいも、夕ご飯を作った初日は、ちょっとダウンしてたけど、今のところは落ち着いているように見える。まだ、時々、理由もなく、そわそわしてることはあるけれど。
ただ、見誤っていたことが一つあるとするならば。
「あーちゃん……どうしたの?」
もうそろそろ寝る頃合い。ソファに向かって、軽く突っ伏している私の隣に、せんせいは首を傾げながら腰を下ろした。
とすんと軽い音を、ソファ越しに聞きながら、見上げた先のせんせいはお風呂上がりで頬が火照って、相変わらず私のパジャマはぶかぶかだ。
鎖骨は服の隙間から覗いてるし、下着の線も隠しようがないくらい透けてるし、乾かすために髪をまとめてるから、首のうなじもばっちり露わになっている。
見誤っていたのは、この人の無防備さと、私の我慢の効かなさ。
せんせいはいっつも、中身が見えかねないような服でうろうろするし、その状態で寝るときに手を繋いだり、この前からはご褒美にハグまでしたり。
役得ではあるのだけれど、そんな小さな誘惑に、私の理性は、徐々にがくがくと揺らされ続けてた。
まず、せんせいをうちに囲い込む大前提として、私はこの人に無暗に手を出すわけにはいかない。
なにせ、せんせいは、今精神的にも経済的にも、圧倒的に弱い立場に居るから。
極論、衣食住を私に依存している以上、私が多少脅せば、せんせいは、嫌でも従わざるおえなくなる。
そうでなくても、断りづらいとか、関係を悪くしたくないとかで、本心では嫌がっていても、結果的に強制してしまうこともあり得る。
だからこそ、この関係を続ける以上、そうやて関係を迫るのは可能な限り避けけたい。…………この前の、ハグの約束はそういう意味では、ちょっと危ういわけだけど。
なにはともあれ、せんせいの心身が回復するまで、私からのアプローチは避けなければならない。ならないのですが…………。
段々と、ちょっとずつ、お腹の奥に熱のような何かが溜まっているのも事実なわけで。
「あーちゃん?」
こてんとあなたは首を傾げながら、鼻先が触れそうな位置で、私の瞳を覗き込んでくる。そのままつんつんと私の鼻をつつきながら、不思議そうに眺めてる。
「………………うー」
しかし、せんせいはせんせいなので、基本ちょっと距離が近い。この前襲われかけたとか、そもそも私がこの人を好いてることとか、恐らく、せんせいは一ミリも考慮してない。なんなら、高校時代から、私が想いを向けていたことすら、半分まともに受け取ってない節がある。
「どーしたのー?」
鼻はつんつんと弄ばれ続ける。犬か猫にやるかのように、ちょっと遊んでいるみたいな感じで。ふふふ、と楽しそうに笑っているのはいいけれど、結構ギリギリだから、あんまり煽らないで欲しい。
「………………んー」
だけど、なんて説明したものか、直球でムラムラしてるとか、さすがに言い辛いし。それで変な気を遣わせるのも、なんか違うし。
「ふふ、うりうり」
なんて、理性を必死に働かせようとしてるのだけれど、このせん公、無邪気に人の鼻で遊んでやがる。楽し気に覗き込むのはいいけど、白いブラがほぼ丸見えだよ、せんせい。
「あー…………せんせい、今、あんまり遊ばないで」
漏れ出た声は、我ながらちょっと不機嫌さが滲んでて、なんか高校の頃の私みたいな声だった。大人になってからは、こんな子供じみた拗ね方あんまりしてこなかったはずなのだけど。
「ありゃ、ちょーし悪い? でも、元気そうには見えるけどね」
ええ、元気ですよ、お陰様で。あなたを押し倒しそうなくらい、元気が有り余って困っているわけですから。
なんては、さすがに言えないので、首をもぞもぞと横に振る。
「ちょーしは悪くないけど、ちょっと落ち着いてないから、そっとしといて……」
今までの体感上、しばらくそっとしておけば、多少は収まるはず。独り暮らしの時は、自分で慰めればそれで事足りたけど、さすがに一緒に住んでてそういうことするわけにもいかないし。
どうにか、熱い息を吐く私に、せんせいはふーんと能天気な顔で首を傾げた。
「あーちゃんも大変だねえ」
そして、すんごい他人事の納得を頂いた。ええ、そうですよ、大変なんですよ。今、欲望と理性で戦争の真っ最中だから。せんせいの貞操がかかってるから、そっとしといてくださいな。
なんて、想念が通じたかどうかは怪しいけれど、せんせいはそっと私の視界から姿を消した。飽きて、水でも飲みにいったのかな。
なので、ようやくふぅっと一息吐いた、そんな瞬間のことだった。
「フッ――――」
耳から。
ビクンと、身体全体に、波が走ったような、感覚がした。
腰が情けないくらいに跳ねて、油断していた神経が一瞬で点火させられる。
口から漏れ出た声は、私の物とは思えないくらいに高くて、泣き出しそうな響きが乗ってしまって。
ばっと思わず振り向くと、ちょっといたずらっぽく微笑むせんせいの姿があって。
あなたは、くすくすと笑いながら、振り向いた私の鼻に、そっとその細くて小さな指を伸ばしてた。
「あーちゃんって、たまーに、可愛い声出してくれるよねー」
そうして、無邪気に、私の鼻をかりかりと掻いて遊んでいるわけだけど。
この人、本当に、解ってるのかな。
いや別にね、私がそういうのを堪えてる、なんて言ってないわけだから、せんせいには落ち度はないのかもしれないけれど。
いや、嘘。この振る舞いで落ち度がないのは無理でしょ。
そういや、この人、学生時代もこういう煽り方する人だった。人の我慢も知らないで、無防備に、にぶちん教師の癖に、的確に人の地雷ばかり踏んできて。
「せんせい」
「ふふ……、なに、あーちゃん? ………………あーちゃん?」
私が出した声が、酷く低かったから、さすがに何かまずいと察したらしい。
若干、冷や汗を浮かべながら、せんせいは恐る恐る私の様子を窺っていた。
「…………今から、五分間、私の抱き枕―――わかった?」
「え…………な、なんで」
「いいから、わかった?」
「はい…………」
そうして、せんせいはおずおずと、私の隣に身を縮こませながら身体を晒す。
そして、私はそれに出来るだけ体重をかけないよう身体を寄せると、そのまませんせいの首元に顔をうずめた。
それから、約束通り五分間。
何も言わず、何も聞かず。
せんせいの小さなお腹を、両手で抑えて。
その細くて、儚い、今にも壊れそうな身体を、ぎゅっと抱きしてめて。
私はただ、せんせいのうなじの香りを嗅ぎながら、その少し湿った感触を肌越しに感じてた。
お腹の奥で必死に暴れようとする熱を、どうにか必死に堪えたまま。
その間、せんせいの首元は、焼けるみたいに真っ赤になっていたけれど。
今回ばかりは、さすがにせんせいも、ちょっと悪いと想う。
「うう、あーちゃん、まだぁ………………?」
「…………まだ」
そんなせんせいの半泣きな声が、私の中のあんまりよくない部分を、余計に揺らしていたわけだけど。
耐えろ、今は耐えろと。
念じながら、私はあなたの少し甘く、お風呂上がりの湯気の混じった香りを嗅いでいた。
そういや、こんなこと、前にもあったなと考えながら。
※
「ねえ、せんせい、私さ、やめてって言ったよね」
「………………」
「人が寝てる時にさ、耳の裏くすぐったり、息吹きかけたり、急に囁きかけてきたり」
「……………………」
「前々から言っているけど、そんなことして、いつか襲われても知らないからね? そうやって、人のこと煽ってさ」
「…………だって」
「…………だって、何?」
「だって、あーちゃん、耳触ると反応が可愛くて………………」
「………………」
「止めようとは思ってるんだよ? でもね、あーちゃんの可愛い声を想い出すと、つい聞きたくなって…………あーちゃんもね、あんなに可愛い声出すのよくないと想うの、普段は凛としてるのに、ああ、あーちゃんもやっぱり女の子なんだなって、なっちゃうから。ちょっとゆうわくぱわーが強すぎるというか…………」
「………………」
「だから………………その、許して、ね?」
「……………………せんせい」
「………………ね?」
「―――人に悪戯するんだから、される覚悟はもちろんあるよね?」
「………………えっと」
「ないとか言ったら、人として軽蔑するから」
「……………………うぅ」
「あるって言ったら、合意とみなして襲うから」
「…………どっちも詰んでる!!」
「ねえ、せんせい、自業自得って言葉知ってる?」
「あれ?! あーちゃん、なんかいつになく怒ってない?! どうして?! 耳ふーってしたから? こしょこしょしたから? 背中つつーってしたから? あと…………あと、なんか色々したから?!」
「…………せんせいはさ、自分がされる立場になったら、どうなるか、一回ちゃんと考えるべきだと想うんだよね」
「ち、違うの、あーちゃん! これは、決してやましい気持ちでしたわけじゃなくて、しっかり者のあーちゃんの可愛い一面を、私だけが知ってる愉しみと言いますか。日々の仕事の癒しと言いますか。あーちゃんの可愛い声を聴くたびに、あー、今日も一日頑張れる! なんて思ってたりすると言いますか…………」
「そう―――遺言はそれでいいんだ」
「あ、にゃ、にゃぁぁぁぁ――――――――」
そんな九月も半ばの頃のことだっただろうか。
うーん、今思い出しても、あまりに無自覚で無防備だ。やっぱり、一回襲っとくべきだった気がする。
ちなみに確か、その次の日も、せんせいは懲りずに耳をくすぐってきた。
そん時も散々、怒ったわけだけど。
…………よく我慢して、襲わなかったな、当時の私。
「あーちゃん、くすぐったいよぅ……」
「せんせい、自業自得って知ってる?」
よく我慢して襲ってないな、今の私。




