第7話 教え子に抱きしめられる
最初に違和感を感じたのは、教員会議の時。
場所は、確か首のあたりだったと思う。
ふっと、視線を上げた時に、強張るような微かな痛みを感じて、肩こりか何かかなとその時は大して気にも留めなかった。
だけど、段々と痛みは広がっていく。
肩、腰、お腹、眼、頭。
何処が悪いってわけでもない、怪我をしたわけでも、風邪を引いたわけでもない。
だけど、痛みは決して止むことがなく、むしろ日に日に強くなっていく。
強張るように、縮こまるように、ずきずきとじんじんと、そんなノイズが思考をじわじわと占領していく。
そうして、いつかの日に、私はその痛みに、苦しみに耐えられなくなってしまった。
今にして思えば、あれは私の身体と心が必死に上げていた兆候というか、半ば悲鳴に近い物だったわけだけど。
教師を辞めて、もう数年。身体の痛みは、あの時ほどではないけれど、時々疼くようにぶり返す。
まるで古傷が痛むみたいに、雨の日や、生理の日、体調の悪い日は、特に酷くなる。
鏡に映る首元には、疵跡なんて一つも見えないけれど、指でなぞると、そこに無数の細かい痕が残っているような錯覚がする。
眼に見えない傷だから、きっと誰かに理解してもえることもないのだろう。
もしかしたら、これは一生消えないものなのかもしれない。
雨の日に、独りでアパートの中、ただ痛みに喘ぎ、布団で縮こまりながら。
そんな、救いの無い妄想を、これまで、何度も繰り返す日があった。
でも、あーちゃんにご飯を作ると決めた、今日の朝は不思議と違った。
ずっと動いていなかった心臓が、久しぶりに動き出したみたいに。
真夏でもずっと冷たかったはずの手足に、血が巡っていくのを感じる。
そうして、そんな熱が、疼く痛みをほんの少し忘れさせてくれた。
でも、本当はわかってる、結局これはただの麻酔のようなもの。
効果が切れれば、結局いつもの、痛みに縮こまる私に戻ってしまう。
だけど、だけども、だからこそ。
今、動かねばと、私は足を速めた。
たとえ燃え尽きたって構わない。こんな私でも、あーちゃんのために、何か出来るなら。
今はそれが、何より大事なことだと想ったから。
施設で、相談員さんに住所が変わったことや、これからも施設を続けることを報告して。…………急だから、滅茶苦茶ビックリされて、しばらく固まらせてしまったけど。
あーちゃんに、味付けの好みを聞いて、帰り道のスーパーで食材と調味料を買い込んで。
家に帰ったら、簡単な掃除をして、ご飯を炊いて、肉だねこねて。
あーちゃんが帰る時間から、逆算して、スープもハンバーグも出来たてを準備する。
我ながら、中々の段取りだったのではなかろうか。
途中、途中で、麻酔が切れかけた脳みそが、懸命にアラートを鳴らしていたけど、今は、今だけは無視することにした。
何はともあれ、やり遂げること。それだけが、最重要。あーちゃんにも、ちーちゃんにも、昔私が教えたことだ。私自身ができなくてどうする。
そう自分に言い聞かせて、あーちゃんをお出迎えするとこまでは…………頑張りました。
………………まあ、そこが限界だったわけだけど。
いい加減、頭痛と、ふらつきで意識が危うい私を抱きかかえながら、あーちゃんは微かに笑いながらため息をついていた。
「…………ありがと、せんせい」
だけど、その一言が、私にとっては何よりの報酬だったの。
※
そうして、二人でご飯を食べて、少したったたころ。
ソファに寝かされて、毛布まで掛けられた私は、教え子におでこを虐められていた。
こう指でぐりぐりと、そのままドリルで、おでこに孔を開けようとするかのように。
「うごご………………」
しかし、当の私は、全身の痛みと疲労で抵抗が何も出来ない。なすがまま、されるがままに、甘んじて罰を受けるしかない。
「いやあね、ご飯作ってくれたのは、凄く嬉しかったよ?」
横になる私のすぐ隣に腰掛けながら、あーちゃんは静かな笑みで私を見下ろしている。
思わず咄嗟に視線を逸らしたけれど、元教師の勘が言っている、これはあーちゃんが怒っているときの表情だと。…………いや、多分教師じゃなくてもわかるなこれ。
「でもさあ、せんせい、倒れるほど頑張ったら意味ないじゃん?」
指がすっと浮いて、ようやくおでこが解放されたと思ったら、今度はほっぺに指が突き刺さる。そのまま、またぐりぐりが始まって、首が強制的に横を向かされる。
「ぐにゅにゅにゅ…………」
ただ、そうすることで、ちょっと目を背けていたあーちゃんの顔が視界の端に映ってた。
「ねえ、せんせい、私、本当に心配したんだよ?」
そうやって言葉を零す彼女の顔は、穏やかだけど、どこか淡い悲哀に満ちていて。
その言葉が、嘘や定型句ではないことは、否が応でもわかってしまう。
この子はきっと、本当に私なんかが、無茶をしてしまったことを痛んでくれている。
「………………ごめんね……でも、お世話になってばっかりだし、何かしなくちゃって想って…………」
理屈では解ってる。今の私は結局、要するにただの病人で、人に面倒を見られて、養われることでしか生きていけない。
そんな自分の世話も出来ない人間が、他人の世話をしようなんてこと自体が、そもそもの間違いで。そうやって動き回ることで、誰かに迷惑をかけてしまうことも。
………………解かってはいたのだけれど。
「………………」
あーちゃんは、そんな私を何も言わずに見下ろしている。
ただ、やがてはぁと軽くため息を吐かれてしまって、私は尚のこと、肩身を狭めることしか出来ない。
「あのさ、せんせい、それで頑張りすぎたら意味ないって話で―――」
思わず、これから降ってくるであろうお叱りの言葉に、目を閉じてしまう。
解ってはいるのだけど、でも抑えきれなかったと言いますか。何もしてないのも、それはそれで罪悪感で押しつぶされそうだったと言いますか。
………………うう、どれも彼もいい訳にしかならないよ。
なので、何も言えずに身を縮こませることしか出来ない。
……………………。
ただ数瞬しても、言葉の続きは振ってこなかった。
少し不思議に思って、ちらっと片目で開けて様子を窺うと。
「仕方ないなあ…………」
少し、呆れたような、困ったような―――微笑んでいるような。
そんな、あーちゃんの視線が、私を見下ろしていた。
「わかった、じゃあ、こうしよう」
ぴんっと、あーちゃんの指が一つ上に向く。
おや、と両目を開けると、あーちゃんの頬はいたずらっぽく吊り上げられた。
「これから、せんせいが、ご飯を作るたび。
―――ご褒美にハグします」
「………………にゅ?」
「朝でも、昼でも、夜でも。せんせいが、ご飯作ってくれるたびに、目一杯ハグします。ほら、ハグってストレス軽減効果があるって言うじゃん?」
「…………にゅにゅにゅ?」
「頑張ってくれたせんせいを、私も労いたいし、せんせいは何もしないのも居心地悪いんでしょ? だから、これが折衷案ということで」
「え、あの、あーちゃん…………?!」
「まあ、恥ずかしいなら作れなくても、仕方がないと思うけどー。とりあえず、じゃあ、いっかいめー」
そうして、咄嗟の抵抗も、寝ころんでいたがゆえに意味はなく。
寝ころぶ私の上から覆いかぶさるように、そっと身体と身体を添わせるように。
温かくて、柔らかいあーちゃんの身体の感触が、毛布越しにゆっくりと私の体をなぞってく。
寝たままの私に、器用に体重すらかけないで、抵抗の余地もなくぎゅっと抱きしめられる。
当然、あーちゃんの顔は私の耳のすぐ近くにあって、微かな吐息すら酷く鮮明に響いてくる。
心臓は緊急事態にドクドクと跳ね続けてて、そんな音が身体越しに君に伝わりそうで、それが何よりも恥ずかしくって。
えと、あの、その。
さ、さすがに、これは、マズいんではないでしょうか!!??
いや、学生時代も何回かやってたけど!! あれも後々考えると結構マズくて!!ちーちゃんに見られかけたことも、何度かあったし!!
もう大人だけど! 大人だからこそまずいこともあるというか!?
なんて咄嗟に大慌てで、離れようとした、そんな時。
どうしてだろう、ふっと気付いてしまった。
あれ。
痛くない――――。
ずっと、ずっと身体を苛んで仕方がなかったはずの痛みが。
教師をやっていた頃から、ずっと私の身体に刻まれ続けて。
いつからか、止むことすらなかった痛みが。
どうしてか、その時は。
不思議なほどに、感じなくって。
まるで、そんな無数の傷を上書きでもするように。
温かさと心地よさだけが、身体の奥の、胸の底の方を、君の体温と一緒に満たしていってた。
とくとくと、音がする。
君の心臓が、揺れる音。
そんな音と重なるように。
「せんせい」
そうやって、君が私を呼ぶ声が。
痛みに苛まれていたはずの、私の身体を淡く溶かしいるような、そんな気がした。
「私ね、こうしてるとね、安心するの」
そうして、あーちゃんが優しく、囁くように零した、そんな言葉が。
私の身体を、淡い残響のように、揺らし続けてた。
※
「ねえ、せんせい」
「なあに、あーちゃん…………」
「…………なに、その顔」
「…………警戒してる顔。昨日、自分が何したかお忘れですか?」
「…………まあ、昨日は無理矢理迫ったのは、ごめん、反省してるよ」
「そう…………? ならいいんだけど」
「反省してるから、せんせい、ハグして」
「なるほどー、わかった、反省してるなら大丈夫か―――って、そんなわけあるかい!」
「おお、ノリ突っ込み。でも、なんで? ハグにそんなやらしい意味ないんだけど」
「いや、ハグにやらしい意味がなくても、あーちゃんにはやらしい意図があるでしょ」
「あ、酷い、傷ついた、せんせいの心無い発言で、私の心が傷ついた。泣いちゃう」
「…………う、うぐぐ、いや、さ、さすがに騙されないよ。罠だ……これは罠だ」
「………………そういう割には、結構揺れてない? まー、冗談は置いといて」
「ねえ、あーちゃん、冗談で私の教師生命揺るがすの止めない?」
「ハグってストレス低減効果があるらしいよ、だからハグしよ」
「しません! せんせいは、ストレス解消を生徒に求めません!」
「勘違いしないで、私がストレスたまってるから、しようとしてるの。それならいいでしょ?」
「そうかなあ!?」
「ほらほら、いいから、一回だけだから、先っぽだけだから」
「ハグの先っぽってなに?!」
「え…………? なに、せんせい、いまやらしーこと言った?」
「ぐぬう…………私か? おかしいの、ほんとに私か?」
「せんせい、はーぐー」
「ぐぅぅ………………い、一回だけだよ?!」
「……………………煽っといてなんだけど、チョロすぎでしょ、せんせい」
※
そうして、次の日、あーちゃんが家に帰りついた頃。
「ねえ、せんせい、なんで昨日の今日で、ご飯出来てるの?」
「………………」
私はうまい答えが、どうしてか一つも思い浮かばないでいた。
「………………する? ハグ」
「……………………うん」
そうして、ちょっと呆れ顔のあーちゃんの胸に、おずおずと飛び込みはするけれど。
違うの、これはストレス低減と、あーちゃんを労うためにしていることだから。
決して、私がハグして欲しいからしているわけではないの………………。
「……………………あのさ、せんせい、もしかして、逆効果だった?」
そんなあーちゃんの、ちょっと困ったような声が聞こえてきたけれど。
違うの、そうじゃないのなんて、いい訳すら零せない。
なぜなら、あまりにも嘘くさいから。
ただ、そうして重なる温もりと、鼓動の音は、確かに。
私の痛みを、ゆっくりと溶かしていくようで。
「せんせいのむっつり」
「にゅぅぅ……………………」
その後、結局、色んな言い訳したけれど。
案の定、あーちゃんには生暖かい眼で見られていたのだったとさ。




