第5話 教え子にご飯を作る
夜が怖くなったのは、いつからだっけ。
何の音もしない、何の声もしないはずの、その時間に沢山のかつての声が木霊するようになったのは。
『どうしてあなたは、当たり前のことができないの』
『古戸月先生、今回の件、どのように責任を取るつもりですか?』
『生徒の顔色ばかり窺って、あの程度のクラスもまとめられないなんて』
『どうせ、仕事というものを舐めているのでしょう? 反論ができないのが何よりの証拠です』
『あなたは、相応しくない』
いくら忘れようと努力しても、いくら別のことを考えても、鳴りやむ言葉は消えて無くならない。
どこからか聞こえてくる、そんな声から逃げようと、布団を被っても耳を塞いでも、私を責める声は止んではくれなかった。
まあ、当たり前なんだけど。
『どうして、あそこで逃げしまったんだろう』
『どうして、頑張れなかったんだろう』
『どうして、ちゃんとできなかったんだろう』
『どうして、どうして――――』
だって、それは私の声なのだから。
いくら、耳を塞いだところで、止むはずもない。
そうやって、ただ自分を苦しめ続けるうちに、朝が来てしまう日も沢山あった。
睡眠薬を貰っても、うまく効かない日も数えきれなくて、でもこれ以上薬を強くすると今度は昼間に起きていられなくなる。
だから、ただ耐えることしか、私にはできなかった―――のだけれど。
「…………どーしたの、せんせい、やっぱ落ち着かない?」
そういって、君に声を掛けられたら。
「せんせい、手ぇ、出して」
そうして、君に手を握って貰ったら。
「だから…………おかえし。私もあの時…………これで………………」
温かくて、柔らかい、その体温が。
私の黒く凍ってしまったような身体を、少しずつ溶かしてく。
言葉ばかりに苛まれていたはずの思考が、ゆっくりと君の体温で上書きされていく。
どうしてだろう、たったそれだけで、泣きそうになってしまうのだけど。
暗闇の中だから、きっとあーちゃんは気づいてない。
鼻をすする音が立たないように、涙で声が濁らないように。
「おやすみ、あーちゃん…………」
「おやすみ………………せんせい」
あなたの瞼が、そっと閉じる音を聞いていた。
とくんとくんと、繋いだ手から伝わる鼓動が。
私の硬く強張った手を、優しく握るその感触が。
ゆっくりと、私の胸の奥の何かを。
少しずつ溶かしていくのを。
その時は、ただ感じることしか出来ずにいたんだ。
都会の真ん中で、夏の夜がゆっくりと更けていく。
クーラーの音と、すぅすぅと響く小さな寝息だけを、暗い部屋に響かせながら。
そんな時間にどうしてか、あの夏の日のお昼休みに、国語準場室で静かに眠る君の情景が。
少し重なって見えた気がした。
※
目が覚めた。
ぼーっとする、瞼は開くけど、覚束なくて、喉はクーラーの影響か少しいがいがする。
ていうか、何時の間にか寝てたのか、私。最近、お酒なしじゃ寝れてなかったから、この寝起きの感触もなんだか随分懐かしいけど。
あー…………と呻く声が、ゾンビか何かの様で、多分今、とても教え子には見せられない姿をしてる。
あれ、そういえば、あーちゃんは…………?
ぼんやりとした思考のまま、視界をそっと巡らせる。いつもの見慣れた、私のアパートとは少し違う風景が、改めて、ここがあーちゃんの家だということを知らせてくる。
うう…………なんか、冷静になると、恥ずかしさで爆発しそう。
教え子に経済的にお世話になっているという事実とか、教え子と同衾していることとか、客観的に見れば見るほど、なんか気付いてはいけないことに気付きそう。
ぶんぶんと頭を振ってから、改めて部屋を見回すけれど、あーちゃんの姿はない。
ベットにも温もりは残ってないから、少し時間が経ってるのかも。
枕元の時計は8:30を差していて、私は大丈夫だけど、一般的な起床時間としてはちょっと遅めだった。
覚束ない身体で芋虫のようにベッドから這い出して、そのままリビングへとふらふら向かう。
「あーちゃん…………?」
扉を開いてもそこには誰もいない。静かな無人のリビングが、主人の不在を無言で告げていた。
ぼーっとしたまま、しばらく視線を巡らせて、食卓の上に書置きを一つ見つける。
『おはよう、せんせい。冷蔵庫の中のものは、好きに食べていいよ。19時くらいには帰ってくるから、それまでいい子にしててね?』
パンと目玉焼きに、小さなサラダが乗ったお皿と一緒に、そんなあーちゃんの少し走った筆跡のメモが置いてある。
そういえば、あーちゃんってこんな字だったなあ。しゃしゃっと書いちゃうから、いつも、ちょっと省略したような字になるのだ。
一度そんな話題を出したら、恥ずかしかったのか矯正しようとしてたけど、私はこの字があーちゃんらしくて好きだった。走り書きの中にも、丁寧さや、丸みが少し滲んでいるように見えたから。
台所でお水を入れてから、ありがたく、用意してもらった朝ごはんに手を付ける。
しかし、何から何まで、お世話になってばかりだなあ。住む場所を与えられ、ご飯を貰い、昨日はパジャマまで貸してもらって。
………………こういうのを、世間ではヒモっていうんじゃなかったっけ。
もしゃっと、パンを口の中でかじると同時に、冷や汗がつつーっと落ちていく。
いかん、せめて家事くらいは、私もしないと。
元教師とか以前に、人としてダメな気がしてきた。
というか、今更だけど、元教え子に経済的に面倒見られてるとか、半分ヒモさせてもらってるとか、どうなんだ。ていうか主治医とか施設の相談員さんに、なんて説明したらいいんだろう。
実は今、教え子の所に居候してて、衣食住全部面倒見てもらってましてー…………。
…………どう考えても、何かしらの犯罪臭がする。仮に法律に違反してなくても、世間の目に許される気がしない。
私は大慌てで、パンと目玉焼きを飲み込んで、お水で流すと、急いで洗い物をしてから冷蔵庫の扉を開ける。
…………意外とあんまり食材はない。牛乳とか、卵とか最低限って感じ。というか、あーちゃん自炊してるのかな。お仕事忙しそうだから、もしかしたら適当に済ませてるとか?
なんにせよ、今日、夕ご飯つくるくらいはしなきゃ。
私のこの一週間の晩ご飯は、半分くらいスーパーのお惣菜だったけど。古の記憶を引っ張り出せば、料理くらい出来るはず。
というか、それくらいしないと、世間の目とか以前に、私が良心の呵責で死にかねない。
とりあえず大慌てで、買い物メモを作って、そうしてたら施設に行く時間になってしまった。ので、とりあえずあーちゃんが用意してくれた服に着替えて、急いで家を出た。
あ、そうだ、相談員さんに、経済的な都合で施設辞めるかもって言ってたの、とりあえず保留にしてもらわないと。あとどうにか、現状の報告も―――。
なんで考えながら、昨日初めて通ったアパートの廊下を小走りで駆けていく。
それにしても、なんだか久しぶりに、こんなに色々とやらなければと動いているような気がする。
これも、ちゃんと睡眠がとれたおかげだろうか。逆に止まった時の反動がちょっと怖いけど…………。
でも、何はともあれ動けるうちに動かねば!
とりあえず今日は、頑張って夕ご飯を作るのです!
そして、帰ってきたあーちゃんに、お疲れさまって言って、万全の状態でお出迎えるのです!
いつもと違う最寄り駅へと向かいながら、私はえいえいおーと一人、握りこぶしを上げる。通りすがりの、マダムに不思議そうな顔で見られたけれど、今は気にしない……!
そうやって駆けていくうちに、ふっと頭の中を、小さな芽のような些細な気づきがよぎった。
そういえば、こうやって誰かのために、ご飯を作るのなんていつぶりだっけと。
記憶のページを辿りながら、私は駅までの道を駆けて行く。
アスファルトに反射する、うだるような夏の陽を浴びながら。
ふっと見上げた景色の向こうは、たくさんのビルと、突き抜けるような蒼い空が、どこまでも広がっていた。




