雷雲寺
アンドンクラゲの毒は大したことがないと言われたが、俺にとっては初めての経験で、痛み止めをもらっても痛いものは痛い。当日夜は眠ることもできないぐらいだった。
翌日になって、当然、俺は休養だと思ったが、舞蘭がそれはダメだと言う。
朝食を食べながら舞蘭が箸を使って指摘する。
「いいか、日程が厳しいんだ。本来ならば難破船の捜索を続ける必要がある。それを長谷川のせいで延期は出来ない」
「それはわかってるよ。だけど先生もやめた方が良いと言うし……」
「まったくしょうがないな。今日は江南に一人で潜ってもらうことにするよ」
江南は話を聞いていたのかうなずく。俺はほっとする。
「それで舞蘭はどうするんだ?」
「雷雲寺に行って古文書を見させてもらう」
そういえば寺の和尚さんに、古文書を見せてもらう話をしていたな。
「話はついたんですか?」
江南が言う。
「先ほど和尚さんに電話をしたら、整理はまだみたいですけど、舞蘭がどうしてもと言って見せてもらうことになりました」
「そうですか……」ここで嫌な予感がする。「まさかと思いますが、俺が寺まで同行するんですか?」
舞蘭はきっという目で俺を制する。
「当たり前だろ、他に誰がいるんだ」
この舞蘭の高飛車な感じ、俺のいつものドツボパターンになってきたぞ。
「ひょっとして車も俺が運転するんですか?」
「しつこいな。他に誰がいるんだ」
「おかみさん……」
「おかみさんは喪中だ」いやいや、こんな時に喪中は関係ないと思うぞ。
江南が言う。
「島の道路は対向車も少なくて安全ですから、ペーパードライバーでも大丈夫ですよ」
江南は俺のことを知っているのか、本当にペーパードライバーなんだ。
「でも怪我の後遺症が……」
舞蘭は顔を鬼のようにして、またもや箸を使って俺を指す。
「日程が押してるんだよ。お前のせいで!」
なんとついに、お前呼ばわりじゃないか。俺は渋々了承する。
助手席に座った舞蘭に激を飛ばされながら、雷雲寺まで運転する。確かに対向車は無いし、未舗装道路だが、道もわかりやすく運転できなくはない。ただ久しぶりなのでおっかなびっくりだった。はあ、これは先が思いやられる。
そしてなんとか雷雲寺に到着できた。
鬱蒼とした木々に囲まれたこの寺は、周りの日の光を無視する。天気は良く、神照島は夏の気候なのだが、ここだけは薄暗く、どこか陰鬱な印象を受ける。
玄関からお寺の中に声を掛ける。
「ごめんください!」
少しして和尚さんが顔を出す。寺の中が暗いせいもあるのか、和尚の顔色が悪い。
「すみません。無理を言いまして」
「ああ、いえ、じゃあ、さっそく蔵の方に行きますか?」
俺たちは和尚についていく。
寺の中を抜けていく。縁側のような廊下が延々と続く。とにかく部屋数も多い。ここまで広い寺だったのかと驚くほどだ。これだけ広いと掃除も大変だろうな、などと要らない心配をする。そうして何度か廊下を曲がりながら山があった裏側に回っていく。
するとそこには大きな古い木の扉があった。元は檜か何かの扉だったのだろうが、年を経て赤黒く変色していた。そしてそこに太い閂がかかっており、開かないようになっていた。さらに不思議なことにそれを封印するかのような、しっかりとした鉄製の金具が付いていた。
俺は何だろうと思ったが、和尚はどんどんと歩いて行く。すると舞蘭が呼び止めて聞く。
「和尚さん、この扉はどこに?がるのですか?」
和尚はぼんやりと振り返ると、舞蘭の話を反芻するかのように考える。
「ああ、その先は崖になっています。昔は洞穴があって修行に使ったんですが、今は崖崩れの危険もあって使用していません」
舞蘭はうなずく。
修行もするのか、和尚になるのも大変だな、などと思う。
さらに廊下を進むと扉の無い出口が見えた。そこから外に出るのかと思ったら、さらに渡り廊下があった。廊下は板張りで、屋根と柱だけの作りだった。ただ、周囲の木々がその廊下を隠すように存在していた。
廊下を過ぎると白い大きな蔵があった。幅は8m、高さは15m近くもある。あまり蔵など見たことはないが、これは相当に大きな方だと思う。
「ここに古文書があります」
和尚は黒い鉄製の扉を力を入れて開ける。相当に重そうだ。ぎりぎりと音がして扉が開くと、中にもう一つの扉が現れる。木でできた格子状の内扉だ。
舞蘭が質問する。
「この蔵はいつ頃作られたのですか?」
「約250年前と聞いています。時代は安永の頃です」
「安永……」
いつなのか全くわからない。舞蘭はわかっているのだろうか。
中に入って驚いた。それほど古いのだから、かび臭いと思ったのだが、お香の匂いと樟脳の匂いがして、まったくかび臭くない。
「まったくかび臭くないですね」
「そうですね。江戸時代の人間の知恵ともいうべき作りになっています。この蔵自体が除湿器の役目をするんです」
「へー」
舞蘭が言う。
「外は漆喰で覆われ、土蔵の厚みはおそらく30㎝以上はあるだろう。さらに内側をヒノキや杉で覆っている。土壁が外の熱や湿気を防いで、内側の木が呼吸をするから、蔵の中は夏は涼しく、冬は暖かく、湿度が一定になる。保存には完璧な環境だ」
和尚が初めてにっこりとする。
「そうです。よくご存じだ」
蔵は2階建てになっており、小さい窓が2階にあるだけのようだ。明かりはそこから漏れている。そして下には壷や金属製の装飾品などが所狭しと置いてあった。
「古文書は2階にあります」
和尚は蔵の奥にある木の梯子を登っていく。一人がやっとの幅だ。
舞蘭が先に行き、俺が後から行く。やはりこの娘は運動神経が鈍い。これぐらいの梯子を上るのにもモタモタしている。上から落ちてくるのではとヒヤヒヤだった。
2階の小窓には鉄の格子が入り、外からの侵入を拒んでいる。ただ、蔵の中を照らすのには十分な大きさだった。
部屋中に木の棚があり、そこに木製のつづらが並んでいた。数えると棚は4列もあり、それが3段になっていた。そこにつづらが置かれており、壮観ともいえる光景だった。
「古文書の類はこの中にあるのです。これだけの量ですから、全部を確認しきれていないので恐縮ですが、奥の方から古いものがあるはずです」
「なるほど、それで閲覧は可能ですね」
「ええ、ですが、貴重なものですからくれぐれも汚したり、破いたりしないでください」
「もちろんです」
舞蘭が言う。和尚は俺に向かって念押しした。
「よろしく頼みますよ」
「はい、大丈夫です」
和尚は子供の舞蘭を完璧には信用していないようだ。まあ、普通はそうだな。見た感じは単なる肥満児小学生だ。
「それでは私は寺に戻ります」
そう言って和尚は戻って行った。
「よし、片っ端から見ていくぞ」
舞蘭の勢いはすごい。腕まくりをしてつづらを確認していく。
木のつづらは年代を感じるもので、元は木の地色だっただろうが、今はすすけたような赤黒い色になっていた。
「これは多分、桐の箱だな。無垢だから湿度管理もこいつがやっていたはずだ。変色が多いものほど古いのかもしれない」
舞蘭はそう言うと奥の方にある、最も変色した箱を開ける。和紙に墨で書かれた書が何冊も入っていた。舞蘭は表紙の文字を見ながら、すばやく中身を確認する。
この娘はこんな古文書も読めるのか、驚きしかない。
「舞蘭、これが読めるのか?」
「さすがに完璧に分かるものじゃないな。時代背景もあるから。だから概略だよ。とにかく必要なものは写メを取って細かくは後から分析する」
そう言いながら次々と古文書を見ていく。
俺の役目は読み終わった古文書を元の箱に戻すだけだ。舞蘭は読みながら気になった部分を写メにしていく。俺も試しに文書を読んでみたが、書道展で見るような、よくわからない流れるような文字がづらづらあるだけでほぼ意味は分からない。文学部の国文科なのだが、そんなもんだよな、だって3流大学だもん。
とにかく舞蘭の解読速度は尋常ではない。はたして本当に意味が分かっているのかどうかもこちらには不明だ。ただ、棚にあったつづらは次々と読破されていく。読む速度と俺が片づける速度にあまり差がない気もする。
俺は何度か舞蘭に話しかけようとするが、それを拒むムードがありありとうかがえる。そういった点は俺も勘が働くのだ。バイト先でも年配のおばちゃんがイライラしているなと思うと絶対に声を掛けない。掛けたら最後、その何倍も愚痴が返って来ることになるのだ。
もうすぐ昼かな、お腹が空いたと思ったところで、舞蘭の手が止まった。
「腹減ったな」舞蘭が思わず英語で言ったので、おそらくこんな感じだったと思う。
「長谷川、飯にしよう」
「わかりました」
梯子を今度は俺が先頭で降りていく。降りる際にいやな予感はしたのだが、案の定、下まで来た瞬間に、やはりというか、舞蘭が落っこちてきた。ぐぎゃ、俺の首が曲がる音がする。顔の痛みだけでなく、首に激痛が走って俺は悶絶した。
舞蘭は俺から降りると、少しだけ心配そうに俺の顔を見る。
「大丈夫か?」
しばらく唸るが、激痛は一段落した。首を動かすと痛みはあるがなんとかなった。
「大丈夫かな……」
「じゃあ、飯だ」
いやいやごめんなさいだろ、この娘はほんとにしょうがない。
蔵を出たところで和尚が顔を出した。
「今、大きな声が聞こえましたが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」舞蘭が言うな。
「そうですか、拙僧が作ったお昼はどうですか?口に合うかはわからないが……」
舞蘭は目を輝かせる。
「ありがとうございます!」




