氏家瑛二
氏家 瑛二という男は、根っこから湿度が高かった。
思い出すのも憚られる小学生時代。
あれは酷い時代だったと、今でも思う。
他より顔立ちが整っていたらしい俺は、毎日のように十数人の女の子に囲まれ、“夫婦ごっこ”というものに付き合わされていた。
可愛いおままごとなら、面倒だと捻くれつつも、満更ではない笑顔で遊んでいたのかもしれない。
だが、その“夫婦ごっこ”は、子供の範疇を遥かに越えていた。
結婚式を挙げたかと思えば、どこからか子どもを授かり、幸せな家庭を築けるかと思いきや、不倫相手と名乗る女の子が現れ、探偵とタイムリープをしているかの如く、その出来事が何度も何度も何度も。
それだけならまだ良かったが、偽物は本物となり、幼い心を殺したのは父の不倫だった。
離婚こそしなかったが、あれは子供だった自分にとって
毎日耳を塞ぎたい日々を過ごしたのだ。
あれから十年以上経った今も、俺はまだ自分の心を誰にも触れさせないよう、頑丈な鉄格子の中へ放り込んでいる。
「お前から電話かかってきたのに無言だったから、マジで失踪する気なのかと思ったよ」
さほど身長は高くないが、でかい図体をした男は、他人の家のソファに腰掛け、項垂れた。
いつも掛けている眼鏡を外して、目頭を片手で押さえる男に、俺はなんとなく目を逸らす。
「…すみません。このまま死ねたらって…正直思ったんですけど…」
「あー謝んな謝んな。こんなこと慣れっこなんだから。腹減ったなら俺がなんか買ってくるし、どこか行きたいなら車で連れてってやるから、今はとりあえず…休むことに集中してほしいんだよ」
「高島さん…」
俺がノワール・シャーロックとして事務所に入った時から、この高島さんという人ずっと面倒を見てくれている。
悪く言えば馴れ馴れしく柄の悪い男、良く言えば面倒見のいい気さくなお兄さんのような人だ。
久しぶりにご飯を食べて、少し全身の力が入るようになったので、冷蔵庫にあるペットボトルの水を取りに行こうと体を傾けると、高島さんが大きな溜息をついた。
「………この機に聞いておくが、彼女と連絡は?」
彼女とは、俺の交際相手を指している。
「…取ってません」
「…そうか」
素足のままペタペタと床を歩く。
やけに煩い音のように感じ始めたのは、彼女がこの家を出て行ってからだ。
彼女はーーー芹菜は俺の傍で、一番俺のことを応援してくれていた人だった。
VTuberという職業に就く前、俺はひたすら現実逃避をするため、オンラインゲームに明け暮れていた。
ゲームというのは凄いもので、時間さえ投資できればプロチームに勧誘されるイベントが起こる。
流れるままに身を任せ、俺はプロゲーマーとして賞金を稼いでいた。
そんな時に、芹菜に出会ったのだ。
正直に女性の外見のことなど、よく分からないと思っていたが、芹菜は目を奪われるほどの容姿をしていた。
外に出たがらない俺に対して、嫌な顔ひとつせず受け入れ、凪のような二人の時間を過ごした。
献身的な芹菜の言動に惹かれるのは必然で、俺たちは当たり前のように恋人という関係に発展した。
彼女の支えあって、プロゲーマーとして世界大会に出場し、完全燃焼というものを身をもって経験した後、俺は引退を宣言。
今の事務所の人間に声を掛けられ、金銭面に納得のいく交渉が成立し、VTuberとなった。
芹菜は自分のことのように、次のキャリアを見つけて、よかったねと喜んでくれていた。
このまま二人で、この家で静かな時を過ごしていくものだと、馬鹿みたいに俺は疑わなかった。
「…彼女の存在を、事務所側も黙認していたよ。ノワールがノワールとして活動を頑張ってくれるならとね」
「………」
「今回の件は、お前だけのせいじゃない。俺や、事務所の責任でもある。あまり気負うなよ」
「…ありがとうございます」
芹菜はどんな気持ちで、俺のことを見てきたのだろうか。
あれだけ支えてくれていた彼女が抱えていたものを、俺は自分のことばかりで何も見れていなかった。
見ようともしていなかった。
他人のことは簡単に疑うくせに、俺自身のことは簡単に信じてしまった結果が、今だ。
「兎にも角にも、今ノワールは活動休止してるんだから、これまで休みなく働いてきた分、氏家くんの生活に羽を伸ばしていけよ」
分厚い手で俺の右肩を軽く叩き、高島さんは俺の家から立ち去った。
電源がつけっぱなしになっているパソコンに視線がいく。
眩しかったわけではないが、どうしてか画面の光が無性に眩しく見えて、シャットダウンした。
殺風景な自分の部屋を見渡し、整理しきれていないぐしゃぐしゃな感情を覆うように、瞼を閉じた。




