私が愛する人
ほとんどの家具家電は処分が済んでおり、残されていたのはパソコンデスクとそれに収まっている椅子と、パソコン本体、小型のカメラが付けられたモニター二台のみ。
空虚な部屋にそれだけが取り残されていた。
「…うじくん、本当に申し訳ないんだけど、使い方が分からなくて…」
「大丈夫。操作は俺がするよ」
パソコンの電源を入れたあと、私は恐る恐る椅子に腰掛ける。
事件当時の記憶はまだ欠片も戻っていないが、やはりこの部屋からは常に嫌悪感が襲う。
もう一つ、気になるのは小さなカメラだ。
無性にレンズから背けたくなる。
うじくんが私の横で、身を乗り出しながら片手を使ってマウスを操作している。
この光景も、凄く気分が悪くなった。
『気持ち悪い』
はっきりと輪郭のある言葉が湧いてくる。
『気持ち悪い』
腹の底から逆流するその感情に、目が眩んだ。
冷たい汗が全身に滲み、体を丸めながら吐き気に堪えていると、その様子に気づいたらしいうじくんは手を止める。
「………やっぱり…辞めよう」
彼の顔は見れないが、かなり低く掠れた声に、少しの怒りが感じられた。
「…辞めないで」
しかし、止まるわけにはいかなかった。
「お願い…うじくん。海月のひめを、見せてほしい」
いつの間にか手足も震えていたのか、うじくんの手に触れようとする自分の指が振動していた。
しばらく渋っていたが、逃げ出そうとしない私の姿に呆れたのか、再びマウスを掴んだ。
クリック音が何度か鳴ると「できたよ」と彼は呟く。
どんなものがこの目に映るのか、私は知らない。
どんな記憶が蘇るのかも、それを思い出した私自身がどうなるのかも。
それ以上に、私は不思議な気持ちを持ってきていた。
“彼女”に会いたいと。
未だ正体の見えない恐怖に覆われながら、泳ぐ視線を定めて前を向いた。
すると、心臓がドン、と大きく脈打つ。
大きな画面の中心に映っていたのは、私が恋焦がれた姿だった。
この場所に戻るための体裁を長々と繕ったが、私は“海月のひめ”にただ会いたいという純粋無垢な我儘を貫いたのだ。
人差し指で海月のひめの白い肌をなぞる。
「………のひめ」
彼女の名を呼んだ途端、金属音が勢いよくぶつかる大きい音が鼓膜を支配して、頭が鉛のように重くなった。
それが何かの合図のように、内側から強烈な痛みが走り始める。
「くっ、ゔっ…」
あまりの怠さと激痛で姿勢を保っていられず、額をデスクに押しつけて両手で頭を抱えた。
目を開けられないはずなのに、不思議とこの部屋が見えた。
自分を後ろから見ているような映像で、私はずっと何かに怯えている。この家のリビングだろうか。ひたすら突っ立っている様子が窺えた。
しばらくして、見知らぬ男が部屋に入ってくる。
私はいつの間にかスマホを握り締めて、男に無理矢理手首を掴まれ、このパソコンのある部屋に導かれた。
男は私を椅子に座らせ、慣れた手つきでパソコンを操作しているようだった。
その間も私は何かを祈るように焦っている。
他人のパソコンで男が何をしているのか、私はすぐに理解ができた。
カメラのレンズを通じて、画面の中に海月のひめを呼び出したのだ。
ーーーその後に流れる映像を見て、私は全て思い出した。
海月のひめとして生きていくと覚悟したこと。
ノワール・シャーロックが女性関係で炎上したこと。
彼を演じている氏家という男を介抱したこと。
その炎上に肖り、海月のひめとしての人気を飛躍させたこと。
コラボカフェの話を受け、取引先の会社である人物と成功を願ったこと。
そしてここから今回の事件が始まっていたこと。
数年間の欠けた記憶は、最初こそ粉々に散らばっていたが、忘れていた情景が蘇ると、忽ち形を成していく。
遠くでうじくんの声が聞こえたが、記憶を失っていた自分と、海月のひめと共に歩んでいた過去の自分を交差させるのはそう簡単ではなかった。
痛い、怖い、助けて、気持ち悪い。
ぐるぐると幾つもの人格や感情、記憶が巡ったのち、ついに瞼を上げられるようになった。
「三浦さんっ!」
朦朧とした意識は、ぼやけた視界が拓けていくにつれて晴れると、目の前にはうじくんがいた。
「………うじくん」
あんなに持ち上げられなかった頭はふっと軽くなり、痛みも収まっていた。
…あぁ、そうか。わかった。
「三浦さん…?」
全てを取り戻した私は、こうなった理由はとても単純で、理解できた。
目頭の熱さも感じぬまま、左目から涙が零れ落ち、その後は両方から溢れる。
ーーー自分の一部を失っても守りたかった。
私が最も愛する人を。
「………っ、よかった…っ、これが….夢じゃ、なくて…。この子をっ…守れたんだね、私…!」
あの異常な男から、あの部屋から逃げ出してからは現実か夢か境界が分からなかった。
最後に残った鮮明な記憶は、あの男から自分の足で逃れられなかったことだけ。
髪の毛を引っ張られて玄関から廊下に吹き飛ばされ、扉に手が届かなくなってからは“逃げられなかった”という事実が私を追い詰めた。
うじくんが 「ごめん」と私を抱き抱えてくれた光景が、現実なのか、悪夢なのか、私の萎縮しきった脳では判断できなかった。
記憶に蓋をすることで、私がこの世で愛を捧げた海月のひめを救いたかったのだ。
私の大切な大切な宝物を盗られないように。
「夢じゃない。夢じゃないよ」
泣き崩れそうになった私を支えるように、彼は両腕で抱きしめた。
感じたことのある体温は次第に全身を包み、ここが悪夢ではなく、現実なのだと教えてくれる。
それがたまらなく愛おしくて、私も彼の大きな背中にしがみついた。
「…待っててくれてっ、ありがとう…」




