ご褒美のパンケーキ
三浦海美…いや、海月のひめストーカー暴行事件から早一週間。
事情聴取は二人の刑事と顧問弁護士を交えて数時間、うじくん宅で行われた。
犯人の荒木隆という男は、概ね犯行を認めており、留置所に拘留された当初は黙秘を続けていたそうだが、両親との面会後は人が変わったように固く閉じていた口を開いたらしい。
記憶障害が残る私は、どの質問に対しても「分かりません」と答える他なかった。
VTuberの海月のひめに関しては、顧問弁護士である寺島志麻という男が、活動においての記憶を代弁してくれた。
私よりも海月のひめの内情に詳しい寺島という男の記憶は、今の私の中にない。
本当に“海月のひめ”に関与する全てのものを、脳内から排除されているみたいだ。
寺島さんは四十代半ばくらいの紳士な男性で、覚えてないとありのままを伝えても、動揺することなく順を追って情報の共有を率先して事情聴取に立ち会ってくれた。
「本日もご協力ありがとうございました。心の痛みもまだ癒えない中、こうしてお話いただき感謝いたします。では失礼いたします」
「失礼いたします」
上司らしき男の刑事が先に角度のついたお辞儀をして、後に続いて若い男が深々と頭を下げた。
寺島さんと今後の日程を擦り合わせて、分厚い書類を鞄にしまってから帰って行った。
空になった三つのコップを洗いながら、うじくんに連絡を入れなければと忙しなく手を動かす。
当事者とはいえ、現場にいた人物が同じ空間で事情聴取をすることは難しいらしく、うじくんは近くの漫画喫茶で時間を潰してくれていた。
私が外出するべきだという意見はご最もだが、うじくんは私が目の届かない場所へ行くことを極端に嫌がって、自ら席を外すことを望んだ。
濡れた手をタオルで拭って、うじくんに電話をかける。
《…終わった?》
何コールか鳴った後、彼は応答した。
「うん。長い時間ごめんね。もう刑事も弁護士も帰ったから、戻ってきても大丈夫だよ」
《…わかった。今から戻る》
通話終了ボタンに親指をかざすと、まだスマホからは微かな振動が伝わり、慌てて耳に当て直す。
《三浦さんって…チョコとか、好きなものある?》
「チョコ?お菓子ってこと?」
《お菓子………いや、デザート系かも》
「デザート?何でもいいの?」
《えっ…何でも…うん。何でも》
「じゃあ…」
彼の意図が汲み取れずに、自分の心に従い、声に出した結果。
ーーー彼が帰宅したのは、電話を切ってから約1時間半後。
玄関から物音がして急いで駆け寄ると、うじくんは左手に白いビニール袋を持っていた。
何やら四角い箱が入っているようだ。
「どこか…寄り道してたの?」
「………うん」
静かに返事をして、うじくんはリビングへ向かい、ダイニングテーブルにその袋をそっと置く。
「三浦さん」
「ん?」
ガサガサと袋から出てきたのは、とてもとても美味しそうなパンケーキだった。
しかもホイップクリームやチョコレートソースがたっぷりと乗せられた、空気が中に敷き詰まっているふわっふわのやつだ。
「…ご褒美」
へらっと笑う彼に、瞬きが止まらない。
「どうして!?何の!?」
「…何時間も事情聴取するの、大変だし…息抜きというか、ご褒美くらいないと…頑張れないでしょ」
本当に私を気遣ってくれているんだろう。
そんな献身的な彼に対し、もし私が男で、うじくんが女だったら…なんていう野暮な妄想に掻き立てられていた。
「ありがたく頂戴します」
両手を合わせてから、質量の感じない雲のようなパンケーキをフォークで突き刺し、滑り落ちる前に素早く口の中に放り込む。
久しぶりに舌全体で感じる甘味が、神経まで染み渡った。
「んますぎ…っ」
噛む必要のないほど柔らかい生地をあえて何度も噛み締めることで、幸福度が増していくのはこの世の理だと、真剣にそう思った。
「…喜んでくれてよかった」
食べることに夢中になるあまり、彼の表情を気にも留めなかったが、いつも私を見つめるこの瞳には温度が宿っている。
冷房の効いた部屋の中でも、夏の蒸し暑さが肌を撫でるようだ。
…そんなに、好きなのか。私のことが。
「前の私って…そんなに、良い女だった?」
「………え?」
「私のどこに好意を寄せてるの?顔?性格?それとも恩義?」
うじくんの答えを待つ間に、二枚もあったパンケーキをあっという間に平らげてしまった。
大した理由を望んだつもりはなく、ほんの興味本位で尋ねてみただけだが、彼は眉間に皺を寄せながら、悩ましく腕を組んでいる。
『好意を持っている』と言われた相手に『どこが好きか?』と単純な質問をして、すぐに言葉として表現されないのは意外と複雑なものだ。
血糖値の急激な上昇で眠くなる前に、食べた後を片して部屋に戻った。
入浴前にうじくんに連絡を入れ、濡れた髪をドライヤーで乾かした後、もう一度【出ました】とメッセージを送る。
水分を摂りに行くため、リビングの扉を開けると、奇妙なほどうじくんは同じ体勢のまま停止していた。
普通に怖かった。
なるべく音を立てないよう、忍び足でこの場を去ろうとしたが、運悪く意識を取り戻したらしいうじくんが「三浦さん」と私の名前を呼んだ。
私よりも頭ふたつ分ほど背の高い彼が立ち上がる。
そして、相変わらず小さな呟き声で言ったのだ。
「…ちょっと、態度が悪いところ」
「………」




