恋煩い
紆余曲折を経て、なんと私はまたうじくんのお家にお世話になることになった。
先日、不動産会社へ探しに行ったらしい物件は、ストーカーの犯人である荒木という男に全て把握されている可能性が高く、引っ越したとしても安全とは限らないと、事情聴取をしてくれる刑事の方も助言してくれていた。
さらに、私は…“海月のひめ”というVtuberは現在も活動休止中で、コンビニの夜勤バイトも事件が原因で辞職しており、記憶が戻らなければ今まで通りの生活を保証できる収入も確保できないという、残酷な事実にはどうしても目を瞑れない。
これまで住んでいたマンションは退去手続きを進めており、来月末には退去予定になっている。
通帳の残高には八桁の数字が印字されていたが、過去の入出金履歴を辿ると莫大な収入に次いで莫大な税金の支出も確認できた。
消費者金融に手を出す考えもあったが、それこそ身を滅ぼしかねない。
ーーーという現実的で合理的な理由により、仕方なくだ。
「お世話になります」
「…よろしく…お願いします」
お互い硬い床に正座しながら、頭を深く下げた。
「えっと…、なるべく家にいるようにする…けど、いい?」
「…ん?うじくんの家なんだから、うじくんが家にいるのは当たり前じゃない?」
「………そうなんだ」
「家主がそんなに立場弱くてどうするの…」
配慮の域を超えている。
こちらに気を使いすぎて食事もままならないのではと危惧した私は、二人の間で共同生活におけるルールを設けることにした。
「まず、居候させていただく身なので、家事炊事洗濯は全て私がします」
「えっ…そんな…」
「そうでもしないと私の居心地が悪いから」
「…三浦さんの負担にならないなら、まあ…俺は別にいいけど…」
不服そうな顔をされている。
「あと、お風呂に入る時と出る時、連絡し合ってバッティングしないように…しよう」
「…う、うん。わかった」
「うじくんからは、何かある?」
いつの間にか話を先導してしまったが、最後に主導権を彼に渡す。
小さく唸った後、うじくんは「一つだけ」と人差し指を立てた。
「…三浦さんは、俺の好意に、気付いてるよね?」
「………はい」
直接「好きだ」と伝えられた覚えは無いが、かと言って今日までの彼の態度や言い草から何も感じ取れないほど鈍感な女でもない。
特別な好意が向けられていることは確かで、それが自意識過剰ではないのも理解できているつもりだ。
「正直…今、三浦さんが近くに居てくれることを…嬉しいと思ってる。こんな時に…不謹慎だけど」
「………」
な、なんて返せば…!
「だから…あえて本音を言うと、何もしない…という自信が…あまりない」
唐突なカミングアウトに数秒の間が過ぎ、再び脳内で彼の言葉が再生されると、止まっていた思考回路も続々と流れ出す。
無意識に彼から目を逸らし、自分の身を抱くように両手を交差させる。
「なっ…何するつもりなの」
「何かしたいとかっ…そういうのでは…」
「でも『何もしない自信がない』って…その、何もっていうのは、つまりその………」
男女の関係に発展させたいという、性の欲に駆られる可能性が高いと自ら申告しているのだ。
うじくんの年齢は幾つか知らないが、外見からして二十代前半だと予想すると、生身の女体が手の届くところにいつでもあるという状態は生殺しと似た感覚になるのだろうか。
だからと言って、事件の被害者という立場を盾にする訳では無いが、過去の私が貞操を守るために抵抗した跡を今の私は目にしている。
感情の整理はまだつかずとも、うじくんが特別な存在なのは私も同じだ。
しかし、そう簡単に差し出せるものではない。
「悩ませてしまって…ごめん。前に、三浦さんのことを、断りもなく抱きしめてしまった時があって…。指の一本も、触れるつもりはないけど、君が…もし辛い想いを抱え込んでいたら…俺にも分けてほしいって、思わず手が出てしまうかもしれない…」
話していく度に、うじくんは少しずつ頭の位置を下げた。
それに対して、私の曇った顔はだんだんと晴れていく。
「そういうことか…なんだ…」
「…そういうこと?」
「いや、こっちの話」
てっきり全年齢から成人向けに転向するのかと思った。
私よりもずっと前方に予防線を張っている彼に、やはり安心感を得られる。
失った記憶が戻ったら、こんな呑気なことも考えていられないのだろう。
異性と目を合わせたり、こうして会話を交わすことさえも拒絶してしまうようにーーーなんて、今の私にないものを悩みにするのは荷が重いか。
「じゃあ…三浦さんはこの部屋を自由に使っていいから」
とても広い3LDKを案内され、そのうち先日まで使われていなかった一部屋を丸ごと私に譲ってもらった。
部屋の中には見覚えのある自分の私物がいくつか置いてあり、事件が起きる直前まで、私はここで生活していたのだと察する。
…他人の部屋に干渉するのは良くないが、私が生活していたとはいえ、女性の趣味嗜好に偏っている。
ラグの色、寝具の素材とデザイン、しかもメイク用のドレッサーが置かれているのが何よりの証拠。
やっぱり、私以外の誰か、別の女がもともとこの部屋を…?
扉を閉じてから数分ほどは、ぎこちなく同じ場所に座ったり立ったり、たまに歩き回ったりしたが、寝心地の良いベッドに体を沈めてからは自然と心が慣れていった。
「………暇、だな」
鞄からスマホを取り出し、ある名前に検索をかけた。
【海月のひめ】
配信サイトには約二年分の彼女の軌跡が残されていた。
とても愛らしい海色を基調としたアバターが、画面でゆらゆらと揺らめく。
不思議と目で追ってしまう美しい女の子の姿に、耳から脳を伝い、落ち着いた透明感を含んだ声は、私の興味を惹くのに十分だった。
大海原に浮かぶ海月のひめという女の子の動画を、私は延々と見続けた。
彼女は綺麗というより可愛いという印象が強かった。
決してゲームの腕は上手ではなかったようだが、画面の端にある文字と、心の底から楽しんで対話している。
跳ねる笑い声は水飛沫とどこか似ていて、静かに波を打つ海には必要不可欠だった。
私自身なのに、私からはまるで遠い存在。
「…ふふ」
こういうのって、なんて言うんだろう。
カテゴライズできない彼女への気持ちを、ちっぽけな私の価値観で生み出した言葉で綴る。
ーーー好き、かも。
海美ちゃんはうじくん=ノワール・シャーロックということを知ってから、海月のひめと同様に検索して関連する配信のアーカイブや動画を見てると思います。
現実では吃り気味の陰キャであるうじくんが、ノワール・シャーロックでいる時はガチ恋に餌を撒くような甘ったるい男になっていると知り、VTuberとは役者のような才能と努力が必要なのだと、その後のうじくんへの対応を改めたらしい。




