日常の白昼夢
一時的な解離性健忘は見られるが、数日の入院を経て、特に問題のある部分はないと診断され、無事に退院する運びとなった。
記憶障害については、自分を守るための症状だそうで、何かの拍子に記憶が蘇り、辛い記憶を呼び戻す可能性が高いそうだ。
精神的負担が大きくなる場合は、心を安定させるという意味で、精神科に通院するという手段もあると、教えてくれた。
まるで他人事のように聞いてしまった。
「大丈夫…?」
「へっ?」
我に返ると、うじくんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫だよ。それよりも、家にまでついてきてもらっちゃって、本当にごめんね」
「それは…全然問題ないよ」
「入院中もずっと世話っていうか、傍にいてくれたし、お茶くらい出すよ!」
「気は使わないで。俺が、したかった…ていうか、傍にいたかっただけだから」
自宅がある階に着いたみたいで、エレベーターの扉が開く。
「…どうしたの三浦さん。着いたよ?」
「あ、あぁ…そうだよね」
まるで飄々としている彼に、私はどこか違和感を覚えていた。
コンビニで出会ったのは覚えているが、彼とどんな話をしていたのかも思い出せないどころか、何故こんなにも私に対して献身的なのか、理解できないのだ。
しかも…自意識過剰かもしれないが、私に好意を持っているということを、言動の節々から感じられた。
悪い気はしないが、好きになってくれたから好きになるなんていう、単純な感情は生まれない。
勿論、彼には感謝しているし、刑事の人から聞いた話では、彼が真っ先に私を助けに来てくれたと言う。
事件現場である、自宅を見れば何かを思い出すのだろうか。
扉を前にして、過去の私にとって記憶から消したかった出来事を、思い出してしまうかもしれないという重圧を、指の先から感じた。
「…帰らなくても、いいんじゃないかな」
手を止めた私を見て、彼が小さく呟く。
「…いや…でも、私の家はここしか…」
「………俺の家に、来るとか」
勢いよく見上げると、うじくんは頬を赤らめるでも、冗談でも無く、ごく真剣にそう言ってくれたんだと察した。
ーーー彼にとって、私は何だったの?
純粋な疑問はまた宙に浮かぶ。
「とりあえず…帰ってみる」
まだ夏の昼下がり。
暑苦しいマンションの内廊下にいつまでも立っている訳には行かず、意を決して扉を開けた。
ちゃんと記憶通りの室内だ。
靴を脱ぎ、恐る恐る部屋の中を歩いていく。途中で床が抉れたような大きな裂傷があり、少し背筋が凍った。
リビングに足を踏み入れても、特に心拍数の変化はなく、平常心を保ったままでいられる自分に安心する。
ドラマやアニメでよくある『フラッシュバック』という現象は、意外と起こらないものなんだな。
「うじくん、荷物も代わりに持ってくれてありがとう。先に片付けてくるから、ここで休んで待ってて」
「…わかった」
頼れる親族も居らず、入院中の荷物は全てうじくんに任せていたのだ。
大きなボストンバッグはうじくんが貸してくれたもので、その中に私の私物を入れて、着替えなどを運んできてもらっていた。
本来の私ならば他人に力を借りることを拒むが、彼が「俺にできることなら何でも言って」と、呆れるほど声を掛けてくれたおかげだ。
それを裏付ける説明もできないが、直感的にうじくんは信用できる異性だとわかった。
目覚めて一番初めに会った人だから…?
大きなバッグを肩にかけ、寝室に向かった。
「寝室は…ここだよね」
奥の部屋のドアノブに手をかける。
もうとっくに住み慣れた家だったが、突然心臓が忙しなく鳴り始めた。
刑事の方の話によると、私が保護された場所は寝室ではなく、玄関前の廊下である。
寝室に置いてあった椅子は倒れていたが、寝具や家具が荒れた様子はなかったと。
どうして、この部屋を前にすると、こんなにも冷や汗が止まらないのだろうか。
不安を煽るように手足に震えが伝染していく。
「…うじくん!」
次第に狭くなっていく呼吸の経路を吐き出すように、彼の名前を呼んだ。
すると、壁の向こうから足音がバタバタと飛んでくる。
「何!?どうした!?」
「………ごめん、うじくん…。ちょっと気分悪くなって…」
「無理しないで。とりあえず、休もう」
そう言って寝室の部屋を開けようとしたうじくんの手首を思いきり掴んだ。
彼はとても驚いたようで、慌ててドアノブから手を離す。
「この…この部屋が、嫌なの」
「………そう…だったのか。ごめん」
「一緒に、入ってもらっても…いい?」
彼の手首を掴んでからは、だんだんと息も吸いやすくなり、不自然な心臓の動きも収まった。
不思議な男だ、うじくんは。
「うん」
一人では行けない場所も、彼となら微々たる勇気も振り絞れば、こっちの世界も変わるんじゃないかと思える。
ん…?“こっち”のって、なんだ?
先ほどはドアノブを掛けた手に力を入れられなかったが、片方の手に彼の体温を感じながら隣にいることを確認し、ぎゅっと押し開けた。
目の前にあったのは、デスクの上に置かれたパソコンのモニターが二台。椅子は綺麗に仕舞われていた。
「…こんなパソコン、家にあったっけ」
「……………」
確かデスクの上には何も無かったはずだ。
こんな立派なパソコンとモニターがあっても、私には使う用途がない。
ふと、パソコンのモニター上部に設置されているカメラのレンズが視界に映った。
「っ」
思わず、カメラから逃げるように背を向ける。
「三浦さん?」
ーーー何か、思い出せそう。
あのレンズが私を捉えた途端、自分の声がどこかで聴こえた。
間違いなく自分の声だったが、話し方は穏やかで、さざ波のような声色をしていて、可笑しい話だがまるで自分ではないようだった。
そして、その声とともに『映さないで』という強い感情が、私を動かしたのだ。
「うじくんは、何か知ってる?」
「…え?」
「私は…こんなパソコン知らない。あのカメラも、凄く嫌な感じがして、見たくないの」
「………」
「だけど、何か…私にとって、大切な物だった気がする。抽象的でいい加減だっていうのは分かっているんだけど、これって…このまま忘れてしまっていいことなの?うじくんは何か知ってるんでしょう?」
「…そ、れは…」
うじくんの唇が迷ったように動く。
「おかしいなって、どこかでずっと思ってた。こんな都心のマンションを借りているのに、コンビニのアルバイトだけの収入で生活できるはずない。私には金銭面で頼れる人もいない。でも、お金に困っていた記憶もなくて…どうやって私だけで生計を立てていたの?」
「み、三浦さん…落ち着いて…」
「貴方とは…うじくんとは、話したきっかけがわからないの。ただ、私はいつもコンビニの夜勤中に、同じ時間に来て同じようなものを買って行く貴方を見てただけだった。顔が綺麗な人だって。見ていただけで仲良くなりたいとは思っていなかったのに…私から声を掛けたの?」
「………」
ずっとずっと、記憶の中を探しても見つからなかった。
自分の家に帰ってきて、記憶と現実には矛盾や違和感ばかりが増えていく。
私のことを優しい瞳で温かく見守ってくれる彼にも、さまざまな謎を抱きながら、傍にいてくれることに安心してしまう。
私の知らない、彼と過ごしたはずの時間が全て抜けたまま、私は彼の傍にいることを許されるのだろうか。
「私…きっと、うじくんのことが特別だったんだと思う」
「…俺も、君がすごく特別な人だと思ってる」
言葉とは裏腹に、どこか悲しそうに顔を伏せる彼に、残った勇気を声にした。
「知ってることを教えて。全部」




