巡る朝
目が覚めると、いつの間にか真っ暗い部屋の中を、灯りも持たずに彷徨っている。
どこか分からない、風も吹いていない場所。
ただ壁と床がある感覚だけはあり、私はなんとか出口を探そうとしていた。
何のためにここから抜け出そうといているのか、目的すら自分では思い出せないが、きっと何か使命を与えられていた気がする。
『三浦さん』
突然、どこからか男の声で誰かに名前を呼ばれる。
『三浦さん』
その声がよく聞こえる方向へ進むと、暗闇の中に微かな白い光が漏れていた。
恐る恐るその光へ手を伸ばすと、目の前の光が私を柔らかく包み込む。
瞼を閉じたくなるような心地いい暖かさを、私は知っていた。
…あの声も、この温もりも知っていた。
私がずっと探していたものだ。
光を抱えるように両腕を上げて、ゆっくりと瞬きをすると、目の前には白い天井があった。
「……………」
自分の家ではないことは確かで、上半身を起こそうにも上手く力が入れられない。
仕方なく固まった首を慎重に右や左へ動かし、状況の把握をすることにした。
複数の痣がついた右腕には点滴と繋がった管。
白い布団が被せられており、身につけている服も、パジャマにしていたものだ。
ここから見えるのは真っ白な壁と、電源の切れたテレビと、窓の外に映る澄んだ青空。
…まるで病室みたいだ。
無理に体を動かすことなく、ぼんやりと天井を眺めていると、扉がすーっと開く音がした。
誰か入ってくるようだ。
静かな足音がビニール袋の擦れる音とともに近づいてくる。
その人物とは、すぐに目が合った。
「………」
「………」
数秒間お互いの視線を交わす。
「…お…きた…?」
「…うん。起きてる」
それを聞いた途端、持っていたコンビニの白い袋を落とし、慌ただしく部屋を出て行った。
しばらくして、足音を増やして戻ってくる。
次は白衣を着た女性が私のすぐ側にやってきた。
「三浦さん、おはようございます。私の声は聞こえますか?」
「…はい」
「ここは病院で、私はここの看護師です。三浦さんは昨日から入院されていて、今は安全な状態なので、安心してくださいね」
「病院か…」
現状はすぐに飲み込めたが、どうして病院へ運ばれてしまったのだろう。
階段から足を踏み外したとか…?
「どうして、私は病院に…?」
当然の質問をしたつもりだろうが、看護師とその後ろにいた男性は目を丸めて、顔を見合わせていた。
「………三浦さん、俺のこと…誰だかわかる?」
「え?…うじくんだよね?」
コンビニで毎日同じ時間にくる常連客だ。
「…そうだ。今日って何曜日ですか?コンビニで夜勤していて…昨日からってことは、無断欠勤してしまったかも…」
スマホを探しているが、手足が届く範囲にはない。
その間に看護師の女性は点滴パックを確認した後、ベッドに掛かっていたらしいバインダーを持って出て行き、うじくんと二人で過ごす形となった。
「三浦さん、コンビニには休むって連絡してるから大丈夫だよ。心配しなくていい」
彼は近くにあったパイプ椅子に腰掛け、目線が揃う位置になった。
思わず見惚れてしまうほどの美青年だが、目の下のクマがひどく際立っている。
「…どうして、うじくんがここに?」
「………どうして…かな。偶然、ここにいる」
苦笑いを浮かべるうじくんに、私は疑念を抱いた。
芯のない会話を交わしていると、医師と先程の看護師が私に紙とペンを持たせ、自分の名前や生年月日、住所など個人情報を白紙に書かせる。
その後も食事をする様子や、人と話す様子など、定期的に見守られたあと、部屋の扉を締め切り、意思は私に告げた。
「三浦さん。落ち着いて聞いてくださいね。貴方は昨日事件に遭い、この病院へ搬送されました。命に関わるような怪我はありません。顔や手足に内出血はありますが、一ヶ月後には跡が残ることもないでしょう」
「…事件?何の?」
「…ストーカー被害です。ただ、かなり強いショックを受けた影響もあり、一時的な健忘…記憶が失っている可能性があります。日常生活に支障はないですし、意識もはっきりしているので、無理に思い出そうとしなくても大丈夫です。しばらくは安静にしてください」
「………そう、ですか」
頬を触ると、確かに湿布のようなものが貼られている。
鏡がなかったから気づかなかった。
部分的な記憶喪失。
全く思い当たる節はないが、それほどまでに怖い体験をしてしまったのだろう。昨日の私は。
「えっと、その…ストーカーの犯人は、捕まってるんでしょうか?」
「はい。逮捕されて、今は留置所に。三浦さんに危害が加えることができない場所にいますので、安心してください。それと、ご両親に連絡しようと思ったのですが…」
「あ、両親は大丈夫です」
無礼にも医師の言葉を遮ってしまったが、私は逆鱗に触れられる前に小さく息を吐き、頭を下げた。
「両親とは絶縁状態なので来ません。連絡は結構です」
「…そうでしたか。失礼しました。この後、警察の方が事件の事情聴取に来られます。お話はできそうですか…?」
「何も覚えてませんが…話はできます」
「わかりました。でも、具合が悪くなったり、何かあればすぐに知らせてください。では」
パタンと戸が締まり、病室に蝉の鳴き声が聞こえ始めた。
目覚めてから随分時間が経ち、自分の体も思うように動かせるようになったので、慎重に起き上がる。
「…あ、まだいたの?」
あまりにも静かだったから、部屋の隅で腰掛けるうじくんの存在を改めて認識した。
「…もう、帰るよ」
「どうして帰るの?」
ふと口に出た。
「いや…ごめん。『どうして』は、おかしいか…」
ただのコンビニ店員とその常連客という他人同然の関係性で、ここまで傍にいる必要はないだろう。むしろ彼を巻き込んでしまったかもしれない。
「居てもいいなら…君が眠るまでいるよ」
しかし、不思議と彼とは隔たりが感じられない。
独りでこの部屋に残されるより、彼がいるだけで底知れぬ安心感があるのだ。
「………ありがとう」
今だけは、彼の優しさに甘えよう。
都合よく理由のない感情を片付け、そのまま眠りにつこうと体勢を整えていると、うじくんは「そういえば」と私に話しかけた。
「海月のひめの活動は…無理しなくていいから」
「くらげのひめ?」
眉を顰めると、彼はその後も話を続け、難しい横文字の用語を並べているが、私には理解ができない。
「ごめん」
「あ、あぁ…俺もごめん。こんな急に話を…」
「くらげのひめってーーー何の話?」




