荒木隆
僕は幼い頃から完璧な人間だった。
まるで理想を詰め合わせた人生設計を、ゲーム感覚で辿っていくような日々を送った。
厳しい親の下、英才教育を受けてきた影響か、学生時代から周りの人間とは比べるに値しなかった。
大学を卒業してからは大手ベンチャー企業に就職。
順当に実績を積み、収入は予定通りの水準で年々増収を重ね、平均の数倍は得られるようになった。
二十代後半には一年交際していた彼女にプロポーズして、然るべき日に入籍し、落ち着いたら子供を授かりいい家庭を築く。
ーーーはずだった。
「ごめんなさい。あなたとは結婚を考えられない」
夜景の見える敷居の高いフレンチレストラン。
暗転した店内で静かに跪き、小さな箱から美しい輝きを放ったダイヤな指輪を彼女の前に差し出す。
だが、相手から返ってきたのは拒絶だった。
「………え…何で?」
同じ体勢のまま彼女に尋ねると、僕から目を背け溜息を吐いた。
「…欠点が見つからないから、ずっと一緒にいるのはしんどい」
彼女が身につけているピアスも、ネックレスも、時計も服も、全て僕が彼女のために捧げてきたものだった。
決して安いものではない。
この指輪もネットで調べた上で選んだ高額な品物だ。
これまでも彼女に怒鳴ったことなどない。
自分の感情を押し殺すことで機嫌を伺い、優しくお姫様のように接してきた。
どうして断られた?
彼女と別れたとして、次に交際する女と結婚できるのは何年後になる?
子供を授かって、親に孫の顔を見せるのは?
ーーー僕の完璧な人生設計が、この女のせいで台無しにされるのか…?
抑えてきた自我はその瞬間に身を乗り出し、彼女に向かって指輪を力の限り投げつけた。
思いつく最大の罵声を浴びせて恋人を侮辱し、お金も払わずに店を出て、適当な居酒屋に入り、意識を飛ばすほどのアルコールを呑んだ。
朝目覚めた時にはシャツが濡れていて、気持ち悪い感触があったのを覚えている。
完璧な人間には完璧な人生がなぞられると、本気で信じていたからこそ、受け入れられない現実を逃れるため、インターネットに身を置いた。
路頭に彷徨っていた途中で出会ったのが“海月のひめ”という個人で運営しているVtuberだった。
彼女は水のように透き通る美しい容姿と声で、楽しそうにゲームをプレイする様子や、幅広い世代が聞き入るような雑談を配信していた。
誰にも寄りかからず、一人で堂々と表舞台立つ彼女の聡明さに、次第に惹かれていった。
あの女とは違う。
のひちゃんの努力は僕に確信を持たせた。
画面から見ているだけでも充分だったが「僕なら彼女の存在を大きいものにできる」という想いが募り始める。
これは僕の悪い癖なのかもしれないが、夢中になると自己犠牲に走るらしい。注ぎ込めるだけのお金を送り、会社の上層部に、異例の企画書を提出して掛け合った。
個人勢とのコラボカフェは、会社側にとってのメリットが少ない。
知名度にもよるが、企業に所属しているVtuberやアイドルを起用することで、余計な広告費も必要ない上に、今後の営業にも繋がりやすい。
もちろん一度目の会議では非難を食らったが、必ず過去最高の利益を出すと自分の首を賭けて押し通し、海月のひめ本人にオファーしたのだ。
のひちゃんとの契約が締結し、初めて現実で彼女と会った。僕の思い描いていた通りの女性だった。
外見の話ではない。彼女の瞳に宿った強さがまさに理想そのもの。
彼女のためなら、必ず成し遂げられる自信が戻った。
これは間違いなく愛だ。
海月のひめが僕に「自分のことを見ていてほしい」と言ってたから、僕は彼女の姿を追った。
インターネットで生きる彼女のことも、現実で生きる彼女のことも。
見守っていたんだーーー彼女が望んでたから。
しかし、彼女の傍から離れない怪しい男がいたのだ。
車の窓からコンビニのガラス越しに見えたのは、何の覇気もない猫背で根暗そうな軟い男が、のひちゃんに馴れ馴れしく話しかけている場面だった。
迷惑だろう、のひちゃんの価値もわからないような男に付き纏われるのは。
僕なら助けられる。
朝六時を過ぎた頃、コンビニの入口を監視していると、夜勤を終えたのひちゃんが出てきた。そして彼女と肩を並べて歩く男も確認し、すぐに助けてあげられない歯痒さを堪える。
犯罪意識はあるのか男は深く帽子を被っており、顔は特定できなかったため、その日は彼女を安心させるための文章をしたためた封筒を郵便ポストに入れ、機を待つことにした。
それなのに、のひちゃんはあの男と不動産会社に訪れていた。
二人で真剣に物件を選ぶ様は、まるで同棲前の恋人同士。
だが、そんなはずはない。
のひちゃんは男に頼って生きるような弱者ではないし、僕らを捨てて女の偏った幸せの価値観を叶える馬鹿でもない。
彼女なりの事情があって、きっと男なら誰でもいいのだろう。
僕だっていいんだ。
むしろ、有能な僕にするべきだ。
そうすれば僕は、海月のひめの人生ごと完璧なものにできる。
ーーーハッと我に返ると、何故か僕の全身は数人の警官に取り押さえられていた。
他人が部屋に入ってこられないように施錠していた鍵は開けられ、チェーンロックの金具も切れている。
僕の隣にいた彼女の姿はない。
どうなっている…?
「………な、何なんだ!?僕に何する!?」
身を捩りながら暴れると、警官は慌てて先ほどよりも強い力で動きを止められる。
流石に振り解けそうになく、現状を把握するため周りを見回していると、鬼の形相をしたあの男…ノワール・シャーロックの足音が近づいてきた。
「お前が何してんだよ…」
目線を合わせることなく、上から僕を黒い瞳で見下ろす。
それが癪に触った。
「…お前こそッ、のひちゃんに付き纏うのはやめろ…!」
「………話が通じるとは思ってない。この会話も無駄だと理解して、お前に言う」
「はぁ?」
すると、目の前にいる男は端正な顔立ちを歪ませ、どこからか取り出した刃物を僕の真横に突き刺す。
刃先を掠めたらしい僕の髪の毛が、はらはらと床に散らばる。
「お前の行動は到底許される行為じゃない。…お前は彼女のために死ぬ覚悟があるか?」
そう言って、ゆっくりと床に食い込んだ包丁を抜き取り、確かな『殺意』が俺に向けられた。
凍りつくような空気に肌はひりつき、息の吸い方を忘れ、小刻みに首を左右に振る。
「た、助けてくれっ…お願いだ…」
上擦った声で命乞いをし、額を床に擦りつけた。
刺されて死ぬなんて、絶対に痛いし、何よりここまで後ろも振り返らず頑張ってきた僕の死に際が、こんなVTuberごときにッ…!!
「キミっ!落ち着いて!気持ちは分かるが…そんな物は置きなさい!」
二人掛りで俺を押さえている警官たちが、今にも僕へ鋭い先端を振り下ろそうとしているノワール・シャーロックを宥める。
包丁の柄をぐっと握り締めていたが、大人しく説得に応じるつもりなのか、腕を下ろした。
そして、膝をついて俺にまた視線を落とす。
「………荒木隆、お前の名前も勤め先も、住所も分かってる。お前の私利私欲に“正義感”という言い訳を使うなら、俺も使うよ」
「…?」
僕のことをいつか…という脅しか?
「でも、それが本当に彼女のためになったか?今まで、ちゃんと彼女の表情を見たことがあったか?」
「知ったような口をっ…。のひちゃんが言ったんだ!『見ていて』って!望まれたんだ僕は!」
彼女の望みを僕は実現しただけなのに、いつから…いつから歯車が噛み合わなくなってしまったんだ。
「お前の言う“海月のひめ”と彼女は別の存在だよ」
降ってきた言葉に、顔を上げた。
「彼女はこの世界で生きている人間で、俺ら視聴者とは何の関わりも持っていない。…まだ、人の頼り方も知らない、ごく普通の女の子なんだ」
「………」
「お前が見ていたのは、お前の中でしか成立し得ない“海月のひめ”だよ。全部…お前の行動はお前のためで、何一つ彼女のためにしたことはない。自覚してくれ。本当に大切にしたいと言うのなら、自分の思考や感情ではなく、真っ直ぐに相手の顔を見てくれ…っ」
ーーー僕は、かつての恋人の顔を見たことがあっただろうか。
親の顔を真面目に見たことがあっただろうか。
言う通りに行動できなかった時、それはひどく叱られた。
怒られることが嫌で、ずっと目を逸らしていた。
ひどく歪めていたはずの男の顔がじんわりと滲み、今はどこか悲しそうに染まっている。
「…彼女は俺の好きな人なんだ。この命に代えても守りたいと思っていた。…守りきれなかった。これが現実だよ。何もかも…思い通りになんて、できない。どれだけ後悔しても時間は戻せない。これが………俺たちの現実だからだよッ…」
ボロボロと泣き崩れる目の前の男に、僕の目からも温かい雫が流れた。
両頬を伝っていく度に、これまでの自分がフィルムを送るように蘇り、その記憶の中ののひちゃんは笑顔が一つもなかった。彼女の頬をぶった手のひらも痛く、熱がまだ残っている。
そうか。僕は取り返しのつかないことをしたのだ。
この世界に、僕が囚われていた完璧などなかった。




